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2017/05/15

 仕事柄、日本で単身で、あるいは夫婦で在留する外国人の方が、母国にいる子供を呼び寄せるための在留資格制度上の手続きをすることがよくある。

 母国で高校まで卒業しその後本人の意思で来日を決めた場合と異なり、親の意思や都合で呼ぶ場合は、母国でどの程度母語を習得しているかに配慮する必要がある。来日後、日本語で授業が行われる通常の学校に通うことが多いが、親の日本語能力が低い場合、学校で日本語で学んだことや、同級生と日本語で会話したことに関する疑問点や感じたことを親に理解してもらえずストレスがたまったり、感受性や理解能力の形成に支障をきたすこともあるようだ。周囲は日本語を話す人が多く自分の母語が少数派だと、自分の母語や母語を話す両親を大切に思う気持ちが阻害されることもある。

 脳の専門家は、母国語を子供の母語にしようとするなら、3歳までは他の言語と混ぜずにしっかり母語を伝えた方がよく、8歳の誕生日(言語脳の臨界期)までには母語の能力を仕上げておくことが大切だと言う(黒川伊保子著『日本語はなぜ美しいのか』集英社新書)。

 親の都合で来日した外国籍の子どもは、日本人の同級生となじみ生活上の日本語を修得するのに通常は1~2年かかる。しかし、生活上の日本語を話しているからといって、日本人の子どもと同じように日本語で学習できるようになったわけではない。通常は、学習言語能力の獲得には5~7年(~10年)年かかるとされている。

 言語少数派の子どもの言語能力は、場面依存度(ものを指す、目を使う、うなずく、ジェスチャーなどをどれだけ利用できるか)が低く、認知力必要度(要求される認知的負担の程度)が高い場面でも高めなければならず、学校の授業の前に母語による先行学習を準備する教育ボランティの方々たちの負担はとても大きい。

 私を含めほとんどの日本人は、日本語を話す両親に育てられ、日本語が通じる学校で学習する。日本国内のあたりまえの風景だが、子どもの言語能力をはじめとした多くの能力を高め、アイデンティティを形成するための母語能力の獲得という面からみると、極めて質の高い優れた環境であることが分かる。

 明治18年に初代文部大臣に就任した森有礼氏は、英語を国語にすることを提案したようだ。現在も、子どもの能力を高めるべく日本語よりも英語により多く触れさせようとする若い親が多いと聞くが、子どもの脳機能形成と豊かな人生を守るという観点から考えれば、これほど愚かなことはない。

 国際化社会に対応するための英語の早教育が叫ばれているが、12歳以降にしたほうが賢明なようだ。12歳までの子どもの脳はとても忙しく、外国語学習を余儀なくさせられると、脳の人間形成において必要なやるべき仕事の一部を放棄するしかないのだという。
「鑑定士と顔のない依頼人」
 ヒッチコックやガス灯を思わせるような心理劇の名作。主人公は孤児として育てられる中で絵画の真贋を見抜く鑑定士に付き添う機会があり、その技術をマスターし、今では絵画オークションをする重鎮鑑定士となる。しかし、女性との付き合い方が分からず、結婚歴もない。あるとき相続した家の中の骨とう品を売りたいので見に来てほしいという女性からの依頼を受け訪問するが何度もすっぽかされ、そのたび謝罪の連絡が来る。その女性は広場恐怖症という病気で人前に姿を現すことができない。何度もやり取りをし怒りと謝罪が繰り返されるうち、主人公は次第にひかれていき、顔を見せてくれた彼女を愛するようになり、絵画コレクションが収納され誰にも見せたことのない部屋に招き入れるまでに信頼する。しかし、オークションの仕事から帰ると、彼女はおらずコレクションすべてが持ち去られていた。

「ガス燈」
 心理描写が精緻な映画。主人公の女性は結婚することとなった男性と住む場所を考え、結果的に不審な死を遂げたおばさんの家に住むこととなる。しかし、男性が優しかったり冷たかったりすることで心理的に追い詰められていく。しかも、夜になると誰もいない屋根裏から音が聞こえたり、室内のガス燈がうす暗くなった後また明るくなった直後にいつも夫が仕事から帰ってくる。この家での事件に関心を持っていた刑事が男性に不信を抱き、家に乗り込み男性の陰謀を暴く。

「めまい」
 妻殺しで遺産を手に入れようとする男性の策略に乗ってしまう主人公だが、知恵と勇気と真実に対する追求心で道を切り開き、真実を突き止める。最初は仕事で主人公に接していた女性が主人公を愛するようになっていく展開は、「北北西に進路を採れ」(いずれもヒッチコック)と同じだ。

「ダイハード4」
 ハッカーのコンピューター侵入で社会基盤が狂うことを取り上げた報道番組で、ダイハード4が引用されていた。コンピューター制御をハッカーにより乗っ取られる危険性を指摘して相手にされなかった優秀な公務員が、腹いせか自己能力の誇示かのために、ファイヤー・セール(投げ売り)のサーバーテロを試み、交通機関(第1段階)、金融・通信(第2段階)、電気・ガス・水道・原子力(第3段階)を乗っ取ろうとする。彼の狙いは、通信網・交通網を遮断し、インフラも使えないようにして、社会を原始時代に逆戻りさせることだ。ニューヨーク市警のマクレーン警部がそれに立ち向かい、一人のハッカーの力を借りて、その試みを阻止する。もう一度見たい映画だ。

「アナザープラネット」
 人間の良心を見つめた韻文的で秀逸な作品だ。ローラはMITの優秀な女学生。しかし、飲酒運転で一家3人の人生を狂わせた。夫のジョーンは昏睡状態、妻と子は死亡という大事故を起こしたのだ。4年間の刑務所暮らしの後、同級生に溶け込めず清掃の仕事に就く。インターネットで被害男性の住所を見つけ、清掃の無料お試しとして訪問し、清掃をするが、謝罪の時期を失い少しでも幸福にしてあげたい一心で尽くしていく。巷では、地球と同じ様相の惑星に連絡ができ、その惑星への旅行希望者の募集が始まり、ローラは当選する。そのことを伝えにジョーンの所へ行くと、ジョーンは祝ってくれるが行かないでくれと懇願する。ローラは、自分の罪を告白する。怒ったジョーンに追い出されたローラはその惑星が見つかった時から地球とのシンクロが狂ってきていることを知り、ジョーンに宇宙旅行のチケットを譲る。

2017/04/15

 他者が主催する会合に参加することは多くあるが、自分で会を主催することは通常あまりない。準備と覚悟が必要だし、金銭的にも赤字が出るかもしれない。しかし、自分が関心のあるテーマを世にアピールし、人を募ることは刺激的で面白い。参加者から感謝されれば、冥途の土産としては最高だ。

 私は平成15年からこの毎月ニュースを書き始め、7年ほど経過した平成22年に、一般市民に公開講座開設の場を提供している「富山インターネット市民塾」に「自分新聞への挑戦」というテーマで六回シリーズの講座を準備した。新聞や広報誌の作成に個人として取り組んでもなかなか継続できない人が多いことを知っていたので、自分の経験が役に立てないかと思ったからだ。長野県の知り合いが20年以上にわたり家族で発行している家庭新聞を取り寄せたり、県内の銭湯が継続発行している広報誌をいただいたりして準備したが、結局誰からの反応もなく開講には至らなかった。お世話いただいた市民塾事務局の方には申し訳なく残念な反面、ほっとしもした。

 平成24年には知り合い数人を集めて「憲法研究会」を開催した。資料を準備し、輪読と討論をする会だったが、硬いテーマだったせいか参加者が少なくなり自然解散となった。ただ、現憲法のおかしなところが理解できた。第1章「天皇」に続く第2章が「戦争の放棄」となっているが、第9条の文言いかんにかかわらず、本来この章は「安全保障」とすべきだということが分かった。太平洋戦争直後であったとはいえ、あたかも公益テーマの会合で自分の幼少時の心情体験を一方的に吐露するのに似て、世界の中で日本を守る考え方を示さず、一方的な反省の念を述べて、それが世界全体にプラスになるとは思えないと感じた。

 平成25年に一般社団法人ビブリオ国際交流会を設立した。それまで自分が体験した国際交流は、相互の自己紹介と若干の言葉の学習と、料理の紹介ぐらいで、深い精神性までをも理解するための書物(ビブリオ)を通じた交流はなかったので、それを目指して設立した。まずロシア語とアラビア語の講座を開設した。ネイティブ講師をお願いし各言語10回シリーズで臨んだ。しかし、参加者はいずれの言語も1名で、経営的には失敗だった。今後は、今中高生などの間で流行しているビブリオバトル(書評大会)を開催したい。

 平成27年には、事務所近くの飲食店を会場としてお借りし、「英語のことわざ研究会」を作った。日英対照ことわざ集の資料を準備し、ワークショップ形式で、皆で話し合いたい英語のことわざを人気投票で選び、それについて英語で話し合うというものだ。各種シート類を準備し臨んだが、3~4回で終わってしまった。

 試みたことはいずれも開催に至らないか、数回で終わってしまった。成果には至らなくとも、苦楽の思い出と未来への種だけは残った。
「四分間のピアニスト」
 高齢の女性のピアノ教師クリューガーが刑務所内で服役する21歳の女性ハンナの中にピアノの才能を認め、特別に訓練する許可を得た。ハンナは3年前までピアノのコンクールで入賞する実力者だった。ハンナは親から犯され心を病み、素直に訓練を受けることができないが、次第に師弟の間に信頼関係ができていく。コンクール前日にハンナは同室の囚人に障害を負わせ、クリューガーは極秘のうちにハンナを刑務所から出してコンクールに参加させる。警察がコンクール会場に来るが、演奏の4分間だけ待ってほしいとクリューガーは頼みこむ。ハンナの演奏は型破りで、ピアノの鍵盤だけでなく他の部分も打ちならしまさにピアノと格闘しているようで迫力がある。終了後聴衆から万雷の拍手を得る。魂のぶつかり合いに息をのむ映画だ

「敬愛なるベートーベン」
 ベートーベンは神から与えられたメロディーが頭の中に詰まっている。4日後には第9の発表があるが、写譜してくれる人の助けを得る必要がある。アンナボルツという、ベートーベンに心酔する優秀な女性写譜がやってきて、その能力を発揮する。ベートーベンはアンナの中に才能を見出し、2時間ぶっ続けの指揮に自信がなくアンナの助けを得て無事に発表会をこなす。アンナは修道会に起居しながらも橋梁を設計する学生の恋人がいる。ベートーベンはその作品を評価せず彼の作品を公衆の面前で壊す。アンナは激怒するものの、ベートーベンの考えに共鳴してひかれていく。神と対話し本心に忠実なベートーベンの魂と、偽りなきアンナとの関係が素晴らしい。

「レイ」
 レイチャールズの一生を描く迫力ある映画。子どもの頃に盲目になり、母親がひとりで生きていけるようにと厳しく育てる。自作の曲をピアノで弾き語りをする。ときどきの自分の思いを歌に込めるので気持ちがこもっている。ヘロインに犯されながらも演奏を続けるが、発覚し逮捕され施設で克服する。ジョージア州で演奏禁止処分を受けたが、その後名誉回復(ジョージア州が謝罪する)する。彼の瞼の奥にはいつも厳しく優しい愛情豊かな母親と、小さい時に目の前で死んだ弟の姿があった。

「奇跡のシンフォニー」
 孤児の主人公は天から落ちてくる音や街中で耳にする音にすごく敏感だ。施設を抜け出て音に惹かれてさまよいながら、その音楽の才能を認められジュリアード音楽院に入り、数千人の観客を前にオーケストラの指揮をすることになる。父母を探しての歩みが実り、その場に前座でチェロを弾いた母親と母親に惹かれてきた父親が彼の指揮を見ることとなる。

「オペラ座の怪人」
 19世紀後半のパリが舞台。醜く生まれた少年が音楽の才能を活かして、パリオペラ座で思いを寄せる女性の魂に音楽を吹き込んでとりこにしていく。音楽と踊りを主体に美しく展開されるミュージカルダンス。

「サウンドオブミュージック」
 1930年代のオーストリアが舞台。修道院に身を置くマリアは、自然人で好奇心旺盛。7人の子を抱え妻を亡くした大佐の自宅に家庭教師として働き、子どもたちに慕われる。大佐は、婚約者がいながら、マリアの自由な大きな心に惹かれて求婚する。ヒトラーがオーストリアに勢力を伸張し迎合する人が多い中で、大佐は勇気を持って行動する。真実の愛と勇気のミュージカル。

2017/03/15

 現代日本では「経済的に豊かか貧しいか」、「健康か病気か」等の物質的満足における成功、失敗で人生の価値を判断しようとする平板化された価値観が支配的と言えよう。
 マズローの「欲求の五段階説」、つまり人間というものは「生理的欲求」「安全の欲求」「所属の欲求」「承認の欲求」「自己実現の欲求」の順に下位の欲求が満たされてからでないと、より上位の欲求に向かうことができない、という説が、各種資格試験の頻出テーマであることが、そのことを示唆しているように思える。

 一方、強制収容所の中でも、パンと優しい言葉を与え聖者の如くになった人間を目撃した『夜と霧』の著者フランクルは、人間は下位の欲求が満たされていなくても上位の欲求に向かうことはできると考え、学術誌で直接マズローに疑問を突き付けたところ、マズローはあっさりイエスと答えたという(幻冬舎新書『人生を半分あきらめて生きる』諸富祥彦著)。

 日本が長寿社会になる前は死は自然なこととしてもっと身近に感じられていただろう。70歳にもなってよく働けず家族に負担をかけながら立派な歯があることを恥として自ら石に打ち付け、息子に背負われて山に捨てられに行くことを心待ちにするような感性(映画「楢山節考」)は、はるか昔の異国のものであるかのようで、政治家が一言でもそのような悲しくも凛とした精神姿勢を肯定するなら、人権蹂躙として猛攻撃を受けかねない現代日本では、避け得ない死を客観的事実として受け入れた社会制度を作っていくことさえ困難になってしまったのかもしれない。

 渡辺利夫氏は、がん発生の原因となり検診結果が出るまで半病人のような気分にさせるがん検診を強制する厚労省は、浅はかな死生観を日本人に振りまいていはしないか、自省はいつ生まれるのかと警鐘を鳴らし、「私は私自身の人生をまっとうするために生きているはずなのに、病気のことにかかずらわって、短い人生の重要な時間を、これに『侵食』されるというのは『背理』ではないか」(光文社『人間ドックが病気を生む』渡辺利夫著)と喝破する。

 戦後日本は科学主義により実証性や論理性を基礎とした考え方は浸透したが、世界と歴史と自然を観察し感じる神秘性から超越者と自分との関係を深く考えたり、人間の存在理由を思い巡らす「内面の深み」や「魂のミッション」といった、平板化された水平的価値観とは独立な垂直的価値観を失ってしまった。

 物質は二次元や三次元の座標軸によりその存在のありかが規定できるように、霊肉を併せ持つ存在である人間も、物質的満足の水平軸と、希望と絶望を両極端とする意味を示す垂直軸の内に自己を置かなければ、自分が生きる同時代の支配的な価値観に引きずられて生き、自己の尊厳性を自ら捨て去ってしまうことにもなりかねない。

「楢山節考」
 木下恵介監督、田中絹江主演。昔の日本の農村の貧しく悲しい様子を描く。70歳になると家族の食いぶちを減らすために子供に背負われて山に行き、ひとりそこで死ぬのを待つ。主人公は、70歳になる正月に山へ行くと、楽しいことを待つような表情で家族に言う。息子もようやくそのことを受け入れてくれた。その年で30本近い歯がしっかりあることはむしろ醜いこと。主人公は自ら歯を石にぶつけて破損させる。息子に背負われていく道すがら、主人公はカラスが待ち構え、白骨が散乱するなかで死ぬところを息子に指示し、雪が降る中ただ両手を合わせて座って祈る。凛とした悲しさがある。息子は、いったんは母親を置き去りにして山道を下り、いたたまれず母のところに戻るが、意を決して家へ帰る。その場所は今「うばすて」という名前の電車の駅になっている。

「女衒(ぜげん)」
 明治時代に香港やシンガポール等のアジアで女衒として活動した村岡伊平治を緒方拳が演じている。売春で稼いだ金を日本の親元に送れば納税できるのだから、娼館経営は国のためになるというのが村岡の理屈だ。第一次大戦の頃になると、売娼に対する国際世論が厳しくなり、経営ができなくなる。ひたすら愛していた倍賞美津子演じるしおを中国人のワンに取られ、それ以降は現地に基盤を作るためにひたすら子作りに励む。

「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」
 程久保高校野球部の部員は、監督との信頼関係もなく、過去の試合の人間関係を引きずり、皆やる気がない。甲子園出場なんて夢のまた夢。そこに、臨時のマネージャーをすることとなった南がまず向かったのが本屋だ。ドラッカーのマネジメントの本を購入し読み始める。「野球部の定義は何か」「野球部の顧客は誰か」を考え始め、「専門家は理解する人がいて初めて価値がある」「組織の外部を変えることがイノベーションである」等、現実に当てはめて理解を深める。そして、現実がそのようになっていく。みなみらの思いが監督と部員に伝わり、ブラスバンド部、チアガール部等も巻き込み、一年後甲子園出場がかなった。

「東京暮色」
 小津作品。山田いすゞ演じる次女が、母親がいない寂しさから問題行動をとり、最後は踏切で事故で死ぬ。原節子演じるその姉が、苦悶の中から、子が健全に育つには父母がそろっていることの重要性を悟り、実家へ戻り残してきた夫の所に帰る決意をするまでを描く。

「羅生門」
 芥川龍之介の作品「藪の中」をもとに、黒澤明監督が映画にした。一人の男が殺されているところを見た男の話を通して、三船敏郎が演じる関わり殺した男多襄丸(たじょうまる)や、殺された侍とその妻がどんな態度を取ったかが、話す人により異なっている様を描き、人間とは恐ろしいものだとする。
 多襄丸によれば、妻を手籠めにした後自分が侍を殺したという。目撃した男によれば、女が自分を強く愛する男のものになるとして両者を戦わせようとしたという。女の証言や、女を通して霊界から現れた侍の証言もまた異なっている。何が真実かは全く分からない。

「武士の家計簿」
 加賀藩で3代以上にわたって、そろばんを専門とする武士として生き続けてきた一門の物語。

2017/02/15

 将棋や囲碁と比べて、麻雀は勝敗が少なくとも短期的には運の要素に左右されやすいせいか、NHK等の公共放送にはあまり登場しない。この麻雀のイメージを悪くしていた「酒を飲む」「タバコを吸う」「お金を賭ける」を排除した「健康マージャン」が普及してきており、大会が行われると、小学生から高齢者までが参加するようになった。医師は認知症の予防に効果的だとして健康マージャンを勧めており、私も始めた。

 麻雀で用いる牌は、天宙と人生を示唆しているようで興味深い。字牌と数牌からなるが、字牌は「白」「発」「中」という三元牌と、「東」「南」「西」「北」という4種類の風牌により成り、数牌は「草子」「萬子」「筒子」の3種類が、それぞれ1~9の9種類がある。7種類の字牌と27種類の数牌は、いずれもそれぞれ4枚を擁し、136枚の牌を積んだり崩したりして遊ぶゲームだ。

 私見だが、「白」は陰性、「発」は陽性、「中」はその中和を表現し、この3種類で天を表わしている。「東」「南」「西」「北」は方角で張られる地を表す。「草子」は中性、「萬子」は女性、「筒子」は男性を表し、数字の最小値「1」と最大値「9」の間の27種類、108枚の数牌は、さながら数字と能力で彩られる男女間の人生模様を表しているようだ。

 卓を囲む四人は、最初配される13枚の牌を自己の前に並べ、一枚ずつ順番に持ってきて(自摸)不要牌を捨てる。役を作るのだ。めったにできず美しい並びの役は高価、ありきたりの役は低価で、一局が終了するたびに和了(役を完成させること)者は点棒を他の人より受け取る。

 中国で発祥した麻雀だが、日本に伝わってきて、その局で自分が捨てた牌と同じ種類の牌を他者が捨てても、それでは和了できない等の、より精緻なルールができて遊技としての質が高くなったようだ。

 麻雀を人生に置き換えれば、配牌は出自のようなものだ。役作りを構想し牌移動を繰り返すことは、人生の目標を定めて努力している様を想起させる。局と場は人生の区切りを示し、今日、今月、今年うまくいかずとも、再起を期してまた翌日、翌月、翌年への挑戦を繰り返す。

 同卓する3人は、半荘が継続する間、自分の打牌、和了、完成した役の内容を目撃する者で、自分の幼少時代、結婚時代、老後の時代を共にする家族や知り合いのようなものだ。

 勝負事なので結果に一喜一憂しがちだ。しかし、強くなければ生きていけないが、優しくなければ生きる意味がない人生と同様に、強くなければやり続けられないが、マナーを守り他者の和了を認める優しさがなければする意味がない。そして、優しさがあってこそ、真の強さともなる。

 人生の達人は、死期が近づくと「いろんな人にお世話になり、面白い娑婆だったちゃ」と感慨深く語るが、雀卓を離れる時には「お陰様で面白いゲームを共にできてありがとう」と言いたいものだ。
「誤診」
 幸福な一家に不幸が襲う。幼い次男がてんかんになり、病院で薬の投与を次々受けるが、どんどん悪くなる。病院は家族の思いを顧みることなく、科学的な治療を進めていく。母親は図書館に通っててんかん治療の方法を学び、食事療法が効果的であることを知る。次の日に脳の手術をするというときに、息子を連れ出そうとするが、病院に見つかる。夫の知り合いの医師の協力を得て、食事療法をしてくれる病院に飛行機で連れていき、断食から始まる食事療法により良くなり、3年間で完治する。科学的手法といいながら行われていた方法は、患者や家族を虐待していたと変わらない。最後の場面では、食事療法をしている病院への連絡方法を紹介し、その方法を用いて治った映画出演者を紹介していた。感動的な実話だ。

「マイフェアレディ」
 イギリスを舞台に、音声学(発声学)の教授が下品な花売り娘に会い、花屋さんの売り子になりたいという娘の要望に応じて、音の発音から矯正し上品な娘に改造していく。舞踏会で皇太子からダンスを求められるほどに美しく変貌していく。ことばにこだわりを持つイギリスならではの作品。オードリヘップバーンが、当初は下品に振る舞い、次第に洗練された姿を演じ分けているところが見どころ。

「ビッグフィシュ」
 幻想的な部分も含む、男の仕事と家族との人生の話。社交好きで多くの人に好かれる父親がする話は荒唐無稽な作り話が多い。息子は、小さい時は本当のことと思っていたが、長ずるに従いうそが多いことを知る。しかし、その動機は人々を喜ばせようというもので、死に面している父親の過去を調べると、多くの人に尽くしてきたことを知る。父から聞く5メートルもの巨大な魚の話を、息子は作り話として好きではなかったが、父の死後自分も息子にその話をしている。

「コーリング」
 医療活動のために、身重の身でありながら奥地に入って活動していた妻が、バス事故で死亡する。夫で医師の主人公は悲嘆にくれる。妻の元患者などから自分へのメッセージを受け、さらに直接妻が霊的に現れ、事故現場へと調査に行く。バスが落ちた湖に飛び込み、運び込まれたであろう村に入っていくと、そこに妻が生んだ女児がいた。妻は、そのことを知らせるために、私を探してというメッセージを死後送り続けていたのだった。

「アイアムサム」
 知能指数が7歳の父親が、娘のルーシーを育てることは許されるかどうかをめぐり、法廷闘争となる。養親となった夫婦も最後には、ルーシーはサムによって育てられるのが良いと考えるようになる。

「インサイダー」
 タバコ製造会社に勤めながらも喫煙の害をよく知る化学博士が、良心ではたばこの害を世間に訴えることの重要性を理解しながらも、家族と経済的利益を守るために苦悶する。その人を支援するマスコミ人が主人公。マスコミ人の正義と誇りを考えさせられる。実話を元にした作品

「ホテルルワンダ」
 ルワンダにおける、フツ族がツチ族を百万人殺害した実話をもとにした話。ツチ族の妻を持つフツ族のホテル支配人が、国連軍、政府軍、警察、フツ族の殺戮者集団、ツチ族の反乱軍の力関係の中で、勇気と知恵をもってホテルにやってきた1200人以上の命を守った実話。

2017/01/15

 今も昔も人間社会では対立が起きてきた。個人の次元では各人が意思と欲望を持ち、民族や国家の次元では帰属意識や誇りを持つ以上、仕方がないことだ。しかし、戦争の愚を人類は歴史を通して学んできており、和解の努力を続けてきた。オバマ大統領が広島を、安部首相が真珠湾を訪問し、「和解」の可能性や力に言及したのは、人類の方向性を示している。

 誤解による対立の場合は、簡単に和解に至ることがある。姉妹が一つしかないミカンをめぐり所有を主張した時、一方が美容のためにミカンの皮を、他方が栄養補給のためにミカンの実を欲しがっていることが分かれば、解決は簡単だ。兵士が武器を持ち対峙する民族的・国家的対立の場合は簡単にいかない。しかし、戦場で殺し合いをしていてもクリスマス停戦があるのを見ても、本当は無益な戦争などしたいと思っていないことが分かる。

 30代の若さで「世界が尊敬する日本人25人」(ニューズ・ウイーク日本版)に選出された瀬谷ルミ子氏の職業は武装解除だ。アフガニスタンなどの世界各地の紛争地帯に出向き、兵士を除隊させ武器を回収する。しかし、紛争地に兵士以外の職業がない場合、除隊させることは職業を奪うことになる。武装解除後の仕事のための職業訓練や生活構築も併せて進めて行く現実的視点が不可欠だ(朝日出版新聞『職業は武装解除』瀬谷ルミ子著)。

 和解交渉は裁判でも行われる。離島に赴任した若い裁判官が奮闘するテレビドラマを見たことがある(『ジャッジ〜島の裁判官奮闘記〜』)。現地調査や資料研究により、とても創造的な和解案を提示する様子が描かれており、裁判官のイメージが一変した。判決と和解の件数の上でも、以前と違い現在では、和解で解決する事件は判決よりも多くなったという(講談社現代新書『和解という知恵』廣田尚久著)。「和解の力」が見直されているのだろう。

 前掲書著者の弁護士廣田氏は、金銭の貸し借りやマンション建設による日照権侵害をめぐるトラブルの解決を任され知恵をめぐらす。そして、「和解」とは「譲歩」や「妥協」で行うものではなく、「規範」を使ってするものだと主張する。日本では「和解学」や「紛争解決学」という学問の歴史は浅く、1990年代に考えられ始めているようだ。瀬谷ルミ子氏も紛争解決学の修士課程で学んだのはイギリスの大学だった。

 20~30年ほど前に核に反対する人々が反核デモをするのを見て、感情の表出だけでは目的は達せられないだろうと思ったことがある。欧米のように判決で白黒を決するより調停での解決を求めることの多い日本でこそ、精緻な「和解学」が生まれるのではないか。

 廣田氏が言うように、和解で中心的役割を果たすのは言葉だと思う。同氏の「言葉を届け合う幸せ」は含蓄のある素敵な言葉だ。相互に理解していることを伝え合い、知恵を出し合うことは人間の崇高な使命だ。
「アンネフランク」
アンネは、オランダで家族と平穏に楽しく暮らす14歳の女子生徒。ナチズムの台頭で、ユダヤ人は登録を命じられ、そのあと強制収容所送りとなっていた。懇意にしていたドイツ人の協力を得て、会社のある建物の屋根裏部屋に親戚等とともに隠れ家生活が始まる。従業員の妻のタレこみにより見つかり、全員収容所送りとなる。
 アンネは隠れ家生活のようすを日記に詳細にしたためており、連行された後、ドイツ人協力者が大切に保管していた。アンネの母は餓死で、姉、そして自分も伝染病で亡くなる。アンネの父は生き延び、ロシア軍の侵入により解放されオランダに戻り、アンネの日記を受け取って読み進む中で崩れ落ちていく。後日、青少年の福祉のため、アンネの名前を冠した財団を作る。

「マグダレンの祈り」
 1984年頃のアイルランドのダブリンが舞台。カトリックの道徳律が厳しく、いとこに強姦された女性、未婚の母となった女性や、孤児院で異性から頻繁に声を掛けられていただけの女性らが、罪深い女と決め付けられ、親によってマグダレン修道院に送り込まれる。そこは、宗教の権威を盾に威張り散らす修道女や堕落した神父らにより運営され、収容された女性たちの人権は省みられず、無償の奴隷労働を強要されていた。
1996年に至るまで、このような修道院は国内10か所にあり、国の関与も指摘されており、2013年になってようやく国の報告書が公表されたという。従うべき神的権威が利用されれば無慈悲がまかり通る。謙遜と傲慢は紙一重だ。

「戦場のピアニスト」
 ユダヤ人はドイツによって居住制限され600万人が大量虐殺された。ラジオにも演奏が流れるほどの有名なピアニストの主人公のユダヤ人も家族が殺される。ポーランド人やドイツ人将校の好意によって主人公は生き延びる。ソ連軍が入ってきて今度はドイツ人が大勢捕虜となる。主人公は助けてくれたドイツ人将校を助けようとする。主人公は2000年に死んだ実在の人物のようだ。

「クロッシング」
 主人公は、妻の病気の薬を買うために北朝鮮からの脱出を図り、中国経由で韓国へ来ることができたが、妻は死んでしまう。ひとり取り残された息子は放浪しながら父との再会を求め、中国からモンゴル国内に入るが、疲れと飢えから餓死して父とは会えずに息を引き取る。主人公はキリスト教に触れるが、神はなぜ豊かな国しか助けないのか、なぜ北朝鮮を助けないのかと叫ぶ声が胸に痛い。

「サムソンとデリラ」
 士師時代におけるイスラエル民族とペリシテ人の抗争を描く。神から祝福して生まれたサムソン(太陽の子という意味)は怪力でライオンを素手で倒し千人の敵にもひとりで勝利する。ペリシテ人デリラ(欲望という意味)はサムソンに近づき、弱点を探ろうとする。
 サムソンは女に弱くデリラを妻としてしまい、髪に剃刀を入れると強さがなくなるという弱点を話してしまう。デリラにだまされたサムソンはとらえられ目をえぐられる。ペリシテ人の宮殿につながれるが、髪が伸び強さを取り戻し神殿を破壊してペリシテ人をせん滅させる。デリラにだまされた後、サムソンは信仰を深めていく。神は自分に何も語ってはくれないと思っていたが、そのようにして神を求めるようにさせたのが神の業だと知るようになる。

2016/12/15

 永遠の課題とされてきた「緩まないねじ」を発明した道脇裕氏は、小学校のころ年度初めにもらう教科書を数日のうちに読み終えるほどの天才で、みずから小学校を自主休学して、漁師、とび職、新聞配達等の職業を経験したという。

 そして、大人になり、自分に不足している能力として、読解力等のいろいろな能力を列挙していた時に、それらはすべて小学校や中学校で学ぶこととされている基礎的な能力であることを知り、「ああ、学校で学ぶことは将来大人になったときに効率的に仕事や社会生活を送れるようにと考えられていたんだ。そういうことだったのか」と感じたという。道脇氏ほど、義務教育の素晴らしさを体感した人はいないかもしれない。(NHKプロフェッショナル)

 私は申請取次行政書士として十年ほど仕事をしている。「外国人と結婚したので、配偶者の在留資格の認定が欲しい」とか、「外国人を雇用しているので就労資格の期間更新をしてほしい」とか、「母国から来日しこれまで会社員として働いていたが会社を設立して経営者として活動するための在留資格に変更したい」等の相談を受ける。

 入国管理局は、日本人配偶者の戸籍に籍を入れた申請人であっても、現実に偽装結婚をする人がいるので、審査が厳しく容易には在留資格の認定を得ることはできない。どこで知り合いどのような交際をしてきたのかを、写真やメールの交流録を開示し、法的つながりだけではなく心のつながりがあることを証明しなければ認めてもらえない。

 就労資格においても、新たに料理店を開くために経営者としての在留資格が欲しい場合は、店舗を借り、店内の調度品等の内装や看板等の外観を整え、コックを採用しメニューを完成して初めて申請できる。しかし、そのような大きな投資をしても、事業計画や取引先が不適切と判断されれば認めてもらえない。外国人が起業するには高いハードルがある。

 私は申請取次業務を開始したころは、外国人申請人と同様に、審査がとても厳しいことに反発を感じることが多かった。しかし、示される基準を全うしていくように努力していく中で、申請人が幸福で実りある日本における活動ができるようになることを感じ始めるようになった。「ああ基準が厳しいというのは、そういうことだったのか」と思うようになってきた。外国人申請人にもそのように思ってもらうようにするのが、私の仕事の一つとなった。

 人は幼少期に親の愛を受けて育っても実感できないことが多い。子を持ち親となり、初めて親が自分に厳しく、また優しく接してきたことの意味を「ああそういうことだったのか」と感慨深く知ることとなる。

 体験したことの意味を後になって初めて悟るのは、人間は成長していく存在である以上、仕方がないことだ。できれば、多くの体験を積み、早く悟りに至りたいものだ。
 私は、平成22年より集中的にDVDで映画を見始め、本年11月まで200本近く見た。人が面白いといったもの、マスコミで紹介されていたもの、店頭で面白そうと思ったものなどランダムに選んで見た。それらを勝手に分野ごとに分類し、主観的な鑑賞後感を紹介したい。興味を持っていただければ幸いである。

「善き人のためのソナタ」
 1980年代から90年代にかけての東ドイツを舞台にした映画。東ドイツの体制に従い支えるための活動をしていた国家保安省(シュタージ)の局員ヴィースラー大尉は、職務上、劇作家ドライマンとその同棲相手の舞台女優クリスタの完全監視の仕事に従事するようになった。しかし、彼らの会話に共鳴し、流れてくる善き人のためのソナタというドライマンのピアノ演奏に心奪われ、監視し上層部に報告することをやめ、むしろ彼ら反体制派の活動を見逃し、しやすくするようにしてあげるようになる。
 ベルリンの壁が壊れ、自分たちが完全監視のもとに置かれていたことを知ったドライマンは、資料館で調査する中で、ある人物が自分たちを陰ながら助けてくれていたことを知り、その人物にささげる「善き人のためのソナタ」という本を出版する。その人こそヴィースラー大尉だった。
 良心が抑圧される環境の中でも人はその叫びを抑えることはできない。むしろそのような過酷な環境こそが、人の心を健全にしてくれるのかもしれない。

「アメイジング・グレイス」
 18世紀のイギリスで、奴隷貿易廃止法案をめぐり、国会で対立的議論が繰り広げられていた。映画の主人公は、奴隷貿易廃止派の急先鋒議員であるウィリアム・ウィルバーフォース。将来牧師になるか国会議員になるか迷う氏に対し、かつて奴隷船の船長でその後牧師になったジョン・ニュートンは、現実を変える議員になることを勧めた。このジョン・ニュートンこそがアメイジング・グレースの歌詞を作った人だった。ジョン・ニュートンは映画の主人公ではないものの、映画の中ではアメイジング・グレイスが朗々と感動的に歌われる。

「アルゴ」
 1980年ころイランでは、欧米志向のパーレビ国王の腐敗に国民が怒り、ホメイニ氏による原理主義に回帰しようとし、アメリカ大使館が四四四日間閉鎖され、アメリカ人と分かれば殺されてしまうようになった。六人のアメリカ大使館員は、カナダ大使館に一年以上待機するが、いつ発見され殺されるかわからない。主人公のCIA職員は、六人が映画製作担当者であることとし、出国の2日前にイランに入り市場の様子を撮影し出国するという段取りをする。そのために、有名な映画監督を説き伏せ、イラン国民が共感するような悪者をやっつける脚本を捜し、配役の俳優を集めて新聞に取材させ資料つくりをする。イランに入り、イスラム文化推進官庁のお墨付きを得、大使館員を説得して決行の日を迎える。実話を基にした映画で緊張感を醸し出している。

「リンカーン」
 アメリカ合衆国16代大統領リンカーンの、奴隷解放をめぐる南北戦争の時から亡くなるまでを描く。このときに奴隷解放しなければこの先ずっと奴隷を抱えて行くことになり、戦争の火種を残したままになってしまうことをリンカーンは恐れ、反対派の心に訴えていく様子は胸を打つ。

「ビューティフルマインド」
 均衡理論の発見でノーベル賞を受賞した数学者ナッシュの生きた冷戦時代。彼の理論はソ連からの攻撃情報の暗号解読に役立つ。

「スパルタカス」
 世界史の授業でスパルタカスの反乱というのを習ったように思う。自由を求めて奴隷の立場から奴隷を集めてローマに立ち向かった勇敢な男の話。

2014/04/15

 殺人などの刑事事件の容疑者には、疑わしきは罰せずという「推定無罪」の原則が適用され、起訴する側が容疑者が罪を犯したことを立証する責任を負う。それができなければ容疑者は無罪となる。

 STAP細胞の存在を説明する論文をめぐり理化学研究所の小保方晴子リーダーに改ざんや捏造等の不正があったかどうかが問題となっている。この場合、推定無罪の原則とは反対に「推定有罪(疑わしいときは正しくないとする)」とも言うべき原則が適用される。自説が正しいことの立証責任は小保方リーダーが負い、それができなければ「正しくない」とされてしまう。

 このように立証責任の原則が全く異なるのは、その原則によって何を守ろうとしているかと関連しており、社会的に認められているその価値を守るために、原則が定められていると言えよう。つまり、刑事事件の容疑者の容疑が間違っている可能性もあるのに有罪として罰してしまうと、日本国憲法が何よりも大切にしている人権が守れなくなってしまう。また、科学上の新説の十分な証明なくして正しいとしてしまうと、後に間違いと分かった場合大きな混乱が起きてしまうことが予想される。そのようなことが起こらないようにという観点から用いられる原則が定められていると言えよう。

 また、民法の過失責任の原則でも、どの条文をもとに判断するかによって、立証責任を負う立場が変わる。医師が医療ミスを犯し患者に損害が発生した場合、医師と患者の間に医療契約が結ばれていたと考え、債務不履行による損害賠償を定める415条をもとに判断すると、医師の過失が推定され、医師側が「過失はなかった」ことの立証責任を負う。
一方、不法行為があったとして不法行為による損害賠償を定める709条をもとに判断すると、患者側が医師の過失を立証する責任を負う。いずれの場合も、立証責任を負う側が立証できなければ、損害賠償を求める裁判では負けてしまうことになる。

 外国人が日本に入国するには、「一在留一在留資格」の原則に基づき、身分関連であれ就労関連であれ、どれか1つの在留資格を取得する必要がある。在留資格に応じて、身分関係、学歴や職歴、経済能力等について、入国管理局が求める基準を満たしていることを、申請人である外国人が立証しなければ、許可が下りない。もともと、外国人の日本への「入国の自由」は憲法上保障されていない。入国管理局としては、どれか1つの在留資格を選ばせることで入国目的を明確にさせ、基準を満たしていてこそ、その入国目的が達成できるとすることにより、無目的の外国人の入国を抑制し、犯罪を減らし安全で秩序ある日本社会の構築をすることが目的と考えられる。

 何か権利を主張するときなどは、立証責任が誰にあるか、それはどうしてそうなっているかを十分調べることが肝要と言えよう。
「技術」に該当する活動

 「技術」は、入管法で「本邦の公私の機関との契約に基づいて行う理学、工学、その他の自然科学の分野に属する技術又は知識を要する業務に従事する活動」と規定されています。例えば、機械の製作についていえば、機械を設計し又はその組立を指揮する活動、建物の建築では建物を設計しまたはその建築工事を指揮監督する活動です。

 自然科学の分野の科目を専攻して大学を卒業し、従事する業務が、技術職そのものでなくとも、自然科学の分野に属する知識を要する販売業務、いわゆる技術営業や、総合職的な業務であれば、「人文知識・国際業務」の在留資格ではなく、「技術」の在留資格に該当します。逆に、コンピュータソフトウエア開発は、一見して理科系分野の活動と見なされがちですが、人文科学の分野の科目を専攻して大学を卒業し、その専攻科目の知識を必要とするコンピュータソフトウエア開発などの業務に従事する場合は、「技術」ではなく「人文知識・国際業務」の在留資格に該当します。

「企業内転勤」

 「企業内転勤」は、企業活動の国際的展開に対応し、人事異動により外国の事業所から日本の事業所に転勤する専門技術者等を受け入れるために設けられた在留資格です。例えば、海外にある子会社や現地法人等の関連会社から日本の法人に出向してくる外国人、海外にある本社から日本支社に転勤してくる外国人等が想定されています。新たに外国人を雇用するよりも、外国人社員を転勤させた方が、適切で優秀な社員を確実に日本における業務に従事させることができ、人件費コストも安くなるというメリットがあります。また、海外の子会社における開発責任者や設計責任者等を日本において勤務させ、その間に、新製品や新技術の開発に従事させることもできます。「技術」や「人文知識・国際業務」で要求される学歴要件や実務要件は求められず、海外にある関連会社等で直前に継続して1年以上、「技術」や「人文知識・国際業務」に該当する業務を行っていれば足ります。

 「企業内転勤」は、一定の転勤期間を定めた活動であり、無期限に日本に滞在することを想定している在留資格ではありません。また、「技術」や「人文知識・国際業務」の在留資格を持ち在留している外国人は、別の会社に転職することができる可能性があるのに対し、企業内転勤では転職ができません。しかし、特定の事業所においてではあるものの、「技術」に基づき行うことができる活動と、「人文知識・国際業務」に基づき行うことができる活動の両方を行うことができます。

「技能」に該当する活動

 「技能」の在留資格は、日本経済の国際化の進展に対応し、熟練技能労働者を外国から受け入れるために設けられたものです。具体的には、外国料理の調理、外国で考案された工法による住宅の建築、宝石・貴金属・毛皮の加工、動物の調教、航空機の操縦、スポーツの指導、ぶどう酒の品質の鑑定・評価等の熟練した技能を要する業務に従事する外国人がこの在留資格で在留しています。

 「技術」と「技能」の区別については、「技術」は一定事項について学術上の素養等の条件を定めて理論を実際に応用して処理する能力をいい、「技能」は一定事項について主として個人が自己の経験の蓄積によって有している能力を指します。上陸許可基準のうち「技術」や「技能」の習得判定基準としては、いずれも十年の実務経験(「技能」の一部ではより短期間でも可能)が必要としていますが、「技術」については当該技術もしくは知識に係る科目を専攻して大学を卒業していることでも満たしているとしています。

2014/03/15

 学習や普段の会議等で今や必需品となったスリーエム社のポスト・イット(付箋)誕生の経緯は興味深い。強力な接着剤の研究をしていた研究員のシルバーは、「良く付くが簡単にはがれる」という、奇妙で接着剤としては失敗作を作ってしまったが、それから五年後に同社の研究員のフライが、「讃美歌集のしおりとして使えるのではないか」と考え、実用化したところ、世界的な大ヒットとなったというのである。「すぐはがれる接着剤なんて利用価値がない」と思い込んでいては誕生しなかっただろう。

 今後の日本社会に関するマスコミ報道を見ていると、「女性の活躍できる場を増やそう、そのためには保育所の待機児童を減らすような施策をしなければならない」として、「待機児童数が多い=劣悪な社会環境」という図式が定着してしまっている。確かに、幼児を預かってもらえれば夫だけでなく妻も勤めに出られて、家計は安定することになるかもしれない。しかし、保育の現場では、預かる時間が長くなるにつれて親たちの中で子供に対する慈しみの思いが薄れていることが懸念されているという。

 保育ということが幼児ではなく親の都合や経済社会の視点からしか論議されていない中、元埼玉県教育委員会委員長の松井和氏の視点は、親が子を産み共に生きる中で幸福になるという、きわめて当たりであるが、最近忘れ去られている視点から子育て政策を提起しておられ、発想の転換を感じて興味深い。

 同氏によれば、幼児とは一人では生きていけないのに周囲の人を信じ頼り切り、それでいてとても幸福そうな人たちだ。大人はその様な存在とともにいると自分の中の善性が引き出されてくるし、相手の気持ちを考えて理解しようとするしかないので平和になっていく。「幼児から始まる幸福感」から子育ての施策を考えた方が、結果として国全体に良い影響を与えるというものだ(En-ichi 2012.2,2012.8)。

 また、日本の人口が減少し生産年齢人口も減少していく中、外国人受入れ政策については、あまり議論がなされていない。

 とりわけ外国人受け入れ反対の根拠として、「犯罪が増える」という理由があげられることが多いが、1985年から2008年にかけての外国人入国者数の伸び率が同期間の外国人犯罪の上昇率を大幅に上回っており、外国人が増えると治安が悪化するという説は正しくないようだ(毛受敏浩著『人口激減』新潮新書)。

 むしろ、異質な考えの人と接することによってものの見方や発想方法が多面的になって、日本人にとり革新的な成長の機会と考えた方が良いのではなかろうか。私が接しているパキスタンの方の中には、日本語が流暢な人が何人もいるが、学校で日本語を学んだのではなく、仕事をしていくうえで必要なので何度も質問していく中で覚えたという。なかなか英語が話せない日本人にとって、大きな発想の転換となるのではなかろうか。