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2018/05/15

『津波の霊たち』(リチャード・ロイドパリー、早川書房、2018年)
 2011年3月11日、東日本大震災により大きな被害が発生した。宮城県石巻市の大川小学校では74人の児童と10人の教職員が津波に呑まれ亡くなった。在日20年の英国人ジャーナリストである著者は、徹底した取材により真相を描き出した。
 取材に応じてくれた被害児童の遺族たちの話を丹念に集め、分かりやすいように記述するとともに、その遺族たちの家を、北上川下流地域の釜谷地区の地図上に位置付け、取材事実とつなぎ合わせることにより、被害児童・教職員たちは津波のやってくる方向に向かって避難していたことが明らかとなる。亡くなった児童の何人かは、「先生、山さ上がっぺ。ここにいたら地割れして地面の底に落ちていく。おれたち、ここにいたら死ぬべや」と叫び裏山への避難を提案するが、実際にはその逆の方向へと避難を始めたことが、生き残った児童たちの証言で明らかになった。
 本書では、生き残った教職員らが、市が遺族たちに対して行った説明会での、普段はおとなしい東北の人たちの激しい追及と市当局の煮え切らない対応ぶりが描かれており、著者は「問題は津波ではなかった。日本が問題だったのだ」とする。
 また、死後の世界の子どもたちの様子を霊媒師が紹介しており、「戦争の犠牲者たちの魂を慰めに行きたい」と発言するなど魂の進化の様子を報告し、遺族たちは受け入れられない愛する者の死と折り合いを見つけていく。

『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(ラス・カサス、岩波文庫、1976年)
 インディアス(スペインが領有した南北両アメリカ大陸の地域、西インド諸島及びフィリピン群島)発見後、スペイン人は無辜の人々を殺害し、王国を破壊してきた。
 この地に50年以上にわたり過ごし残虐行為を目撃してきた司教であるラス・カサス氏が、スペインの皇太子フェリペ殿下にその内容を報告し、残虐行為を行う者たちが征服と呼んでいるたくらみを、今後容認したり許可したりすることがないよう依頼した文書。40年間で男女、子ども合わせて1200万人を超える人たちが、キリスト教徒の行った極悪無残な所業の犠牲となって生命を奪われたという。

『日本語はなぜ美しいのか』(黒川伊保子、集英社新書、2007年)
 赤ん坊が母親が話す「アサ、オハヨウ」という言葉に触れると、これと共にある情景、すなわち透明な朝の光や、肌に触れるさわやかな空気などが、抱き上げてくれた母親の弾むような気分と共に、脳の中に感性情報としてインプットされていく。人生の最初に出会ったことばと、後に習った外国語とでは、脳内で言葉に関連付けられた感性情報の量が圧倒的に違うようだ。
 それなのに母親の母語でないことばで子どもを育てると、言葉の語感と母親の意識、所作、情景がずれて、子どもの脳は混乱して、感性のモデル(仕組み)を作り損ねるという。母語でないことばで育てると、世界中どこへ行っても異邦人のように感じて生きることになってしまう。
 著者は大学の物理学科を卒業した後、コンピューターメーカーでAI(人工知能)開発に携わり、脳とことばを研究した。その中で、人間の精神活動において母語が決定的に重要であることに気付いたのだと思う。「わが子にことばを与えるということは、宇宙を授けるのと一緒」という。

2018/04/15

『日本の道徳教育は韓国に学べ』(杉原誠四郎、文化書房博文社、2007年)
 戦前の日本の学校には「修身」という道徳教育の教科があった。戦後の占領期に、ある日本の教育学者が「社会科」開設の話を占領軍に持ち込み、「社会科」は子供の社会生活を包む科目だったので、「修身」は民主主義と両立する優れた教科書であるとの認識が占領軍にあったにもかかわらず、「修身」の再開は必要がないと判断された。
 この「修身」廃止の過程を日本国民は認識することができず、「修身」は非民主主義教科であるため占領軍によって廃止させられたという誤解が生まれた。昭和33年に道徳教育を強化しようと特設「道徳の時間」を設け道徳教育再生の努力は続けられてきたが、この誤解を晴らしてなされたものではなかった。結果として、子どもたちは、議論はいろいろするが、行動規範や心に銘記すべき規範の明示はなく、そのために規範を身につける訓練の過程のない道徳教育となった。
 一方韓国では李朝末期、日本の統治下、日本に倣って編纂発行していた「修身」の教科書が用いられていた。戦後、戦前の過去の否定という動きが生じず、よいものはよいとして事実上「修身」の教育遺産が継承された。

『道徳の練習帳』(ミシェル・ボーバ、原書房、2005年)
 多くの子どもたちが深刻な問題を抱えている原因は、彼らが道徳力を身につけられなかったせいであることが分かったとして、7つの徳目の重要性とチェックシート、身につけさせるための3つのステップを徳目ごとに説明する。
 7つの基本的徳性は、共感、良心、自制、尊敬、親切、寛容、公平であるとし、最初の3つ、とりわけ共感が、特に重要であるとする。例えば共感力を高めるには、①意識を高め、〝気持ちを表す語彙”を増やす②人の気持ちを感じ取る感受性を高める③ほかの人の考えに対する共感を育てる、というステップを示している。そして、アリストテレスが「われわれは自らが繰り返して行うことの産物である」と言っているように、親が徳目の大切さを何度も言い聞かせ、子どもに道徳的行いを反復練習をさせることが重要で、そうして初めて親の手を離れていくことができるのだとする。
 著者は全米で最も信頼される教育コンサルタントで、国内外で主催したワークショップの参加者は50万人を超えるという。

『「人格教育」のすすめ』(上寺久雄監修、コスモトゥーワン、2003年)
 本書は「どうすれば有意義で充実した人生を生きられるか」「人間が幸福になるためには何が必要か」「家庭や学校、地域社会において、子どもにどのような教育を与えれば、人間として成長し本当の幸福を獲得できるか」という本質的で重要な問題に対し、深く詳細な調査結果をもとに論述されている。パート1「高まる人格教育への課題」では、人格教育の核心は個性重視ではなく人格重視であるとし、道徳的価値が普遍性を持つための基準(民主主義的コンセンサス、哲学的検証、比較文化による論証、人間の本性的根拠、自然法的根拠)を説く。
 パート2「家庭は愛の学校」の結婚のための準備を説明するなかでは、未熟な愛と成熟したIとの識別方法を説明し、パート3「青少年が直面する性の脅威」では、婚外の性行為がもたらす影響を説明する、極めて良心的で示唆深い内容が盛り込まれている。

2018/03/07

『イスラーム基礎講座』(渥美堅持、東京堂出版、2015年)

 この本には、「ムスリムが約束に関しルーズであるのは、約束が実現するのは天命によるものなので、面談約束をしたこととそれが実現することの間には連鎖性がないと考えているから」とか、「イスラーム世界では風紀警察という私服警官が街中を巡察し、婚約者でも同じ一族でもない男女が二人で歩いていたりお茶を飲んだりしていると、風紀警察本部に連れていかれ罰を受ける」という記述があるが、それらを興味本位で紹介することは著者の意に沿わないかもしれない。

 なぜなら宗教の理解には、その宗教に帰依している者の判断が正論であり、異教徒の価値判断は正論とはならないにもかかわらず、日本人が宗教に対峙する姿勢にはきわめて独特なものがあり、平気で他宗教へ介入し、自らの基準に照らし合わせて善悪の判断を下し、日本との格差の激しいものには、その格差を埋めるまであらゆる干渉・攻撃を行う、と著者は考えているからだ。著者は、日本人の宗教観は一つの世界観を形成していないと言う。確かに、クリスマスはキリスト教式で祝い、除夜の鐘は仏教徒として聞き、神社へは氏子(神社神道における信者に相当する総称)として初詣をするというのでは、宗教的世界観を有しているとは思えない。先が見通せる砂漠という環境と多民族共存という社会的環境の中で生きる人たちの強固な世界観に出会える一冊だ。

『宗教は科学の生みの親』(小林浩、光言社、2003年)

 ガリレオ・ガリレイの科学的業績は「宇宙という神が書いた書物を読む」という信仰があればこそ成し遂げられた。ケプラーやニュートンも同様で、「神が宇宙に整数関係の秩序を与えた」とか「万有引力は神に由来する物理的な原理である」という確信や思想があればこそ成し遂げられたものであるという。

 近代を主導した科学者たちは、宗教的偏見を打ち破り合理的な科学を建設したのではなく、キリスト教信仰という強烈なパラダイムがあったからこそ成し遂げられたものである。キリスト教は近代科学の子宮であるとする。

『新約聖書と歎異抄』(渡辺暢雄、PHP研究所、1991年)

 新約聖書27巻の内、13(14)通はパウロが紀元48~62年に書いた手紙だという。堅実なユダヤ教だったパウロはキリスト教徒迫害のためにダマスコへ赴く途中、復活したイエス・キリストとの劇的な出会いにより、驚異的な熱心さをもってキリストの福音を述べ伝える者へと生まれ変わった。そして以前の自分を「罪びとの頭」(テモテⅠ)と自称する。

 「歎異抄」は、親鸞の直弟子であった唯円が、師の死後30年ほどして、師の教えの解釈が当時乱れていたことに心を痛め、異端を嘆くという意味で著した。「善人でさえ弥陀の大悲によって浄土へ往生を遂げさせていただけるのであるから、悪人ならば尚更のことである」(悪人正機説)における「善人」とは、「自分の罪の醜悪さに気づかず人々をさばき蔑んでいるような自称善人のこと」だとする。

 パウロも親鸞も罪の自覚に敏感であるとともに、救いは従来言われてきた律法順守や行いによるのではなく、信仰により与えられるものであるとしているところが似通っている。一方で、パウロにとってイエスは救い主であったが、親鸞にとって救い主は人間釈尊ではなく経典中の神話的な阿弥陀如来であるという。

2018/02/15

『人間の正体と霊界との関わり』(那須聖、光言社、1996年)

 長年ニューヨークに在住し、明快な外交評論を行ってきた著者は、一方で超心理学の研究を続けてきた。

 著者は、近年の科学万能主義により自然科学的な方法でとらえられない神や霊界は存在しないと考えたり、その存在を説く人を野蛮人であるかのように考えたりする風潮が広まっていることに危機感を抱く。進化論は外面的、物質的、肉体的な面を検討の対象としており、その範囲では正しいものの、人間の人間たる主たる要素は内面的、精神的、霊的な面であるとし、神は旧約聖書の創世紀の記述のように宇宙を創造されたが、神の計画通りに生物を進化させて最後に神の息を吹き込み人間を創造されたのであり、進化論は神の創造と矛盾するどころか、むしろ神の創造の一環を説明するものであるとする。

 著者は「肉体と霊魂の関係」や「天界と地獄」の様相についても記述しており、本書の執筆に際しては数え知れないほどの霊感を受けたという。

『ダーウィンメガネをはずしてみたら』
         (安藤和子、いのちのことば社フォレストブックス、2007年)

 大阪大学や東京大学大学院で、そして米国に留学して生命科学を学び、その後研究所でも部長職で勤務するなど時代の最先端で研究してきた著者が、生物を殺して組織、細胞、分子レベルで追求する生物化学という研究手段では、生物を生きたもの、魂の入ったものとして見る視点が欠落しており、生命の本質についての答えを得ることができないと分かり、がくぜんとする。

 聖書は科学と矛盾すると考えていたが、聖書を読み込むうちに、そのような自分の考えや宗教は弱者が頼るものという世間の常識の間違いを知り、聖書は自然科学研究の百年も千年も先を歩み先導している事実を知る。そして、弱者を切り捨て強者だけ生き残る社会、どこから来てどこへ行くのかわからない生命観に立って、互いの存在と生命を尊ばない社会は、「いのちは自然に発生し、弱い者は滅んでいく」と、ひとつの仮説にすぎない進化論が唱える考えから派生していると確信する。まさに、学校教育でかけさせられたダーウィンメガネをはずしてみたら、真理と心豊かな世界への道が開けていくのである。

『それをお金で買いますかー市場主義の限界』
             (マイケル・サンデル、早川書房、2012年)

  ここ30年に起こった決定的な変化は市場と市場価値が、それらがなじまない生活領域へと拡大したことだった。ダラスの成績不振校は子供たちが本を読むたびにお金を払い、親が名門大学に寄付をして子供を入学させ、自国の戦争に傭兵を雇うようになった。このように行きていく上で大切なものに値段をつけるとそれが腐敗してしまう。子供はお金のために本をもっと読むようになるかもしれないが、読書は心からの満足を味わわせてくれるものではなく、面倒な仕事だと思えと教えていることになる。新入生となる権利を最高入札者に売れば、収益は増えるかもしれないが、大学の威厳と入学の名誉は損なわれる。自国の戦争に外国人の傭兵を雇えば、同胞の命は失わずに済むが、市民であることの意味が貶められる。

 市場はものを分配するだけではなく、取引されるものに対する特定の態度を表現しそれを促進する。これをどのように考えるかを、日本でも「ハーバード白熱教室」の名前でよくNHK教育テレビに登場した、米国ハーバード大学の法哲学の教授が問題提起する。