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2017/11/15

 「国際交流フェスティバル2017」が11月12日に富山駅とCiCビルで開催され参加した。

 富山駅一階の自由通路と2階の多目的デッキには、各国紹介ブースがあり、主催者が作成した「お礼のことばコレクション いろんな国のありがとう」という用紙を渡された。そこには「『ありがとう』ってなんていうの?」「ことば」「くに」を国ごとに順番に記載できるようになっており、30カ国を駆け足で回った。

 韓国は「カムサハミダ」の「カムサ」は「感謝」のハングル読み。中国の「シエシエ」(謝謝)」も同じ。さすが漢字文化圏で同根だ。オランダの「ベダンクトゥ」はドイツ語の「ダンケ」から来ており、ノルエゥーの「ツーセンタック」の「ツーセン」は「サウザンド(千)」のことで、一回の「タック」(感謝)だけでは足らず千回も感謝しているという言い方が慣例のようだ。ハンガリーのモニカさんが「けせねむ」とひらがなで読み方を併記してくれたのは、「KOSZONOM(3つのOにはウムラウトがつく)」。モルドバの「ムルツーメースク」を教えてくれたのは、私の事務所に来訪歴のある会社社長で、久しぶりとあいさつをした。アルバニアの「ファレミンデリット」を教えてくれたのは、アルバニア人の姉と弟だった。

 マレーシアのマレー語もインドネシア語も「テリマカシ」と同一だ。タイのタイ語「コープンクラプ」とカンボジアのクメール語「オークン」は文字の形が似ている。3年ほど前にタイ訪問を前にしてタイ語学習に挑戦したが文字に馴染めず断念したことを思い出した。ミャンマーの「ジェイズーデンバデー」の文字も丸っこいところがタイ語やクメール語に似ている。ベトナム語の「タンオン」は短く分かりやすい。ネパール語の「タンネバード」は英語のアルファベットで、モンゴリアンの「バヤララ」はア段の字だけで温かさを感じる。

 インドのベンガル語「ナマステー」を教えてくれたのは以前にも国際交流フェスティバルで会ったセンさんだった。パキスタンのブースで、唯一知っているウルドゥー語「アッサラームアライクム」(こんにちは)と声を掛けたら、良くご存知ですねと驚いてくれ、「シュクリア」を教えてくれた。エジプトのアラビア語「シュクラン」とよく似ている。ウルドゥー語もアラビア語もアラビア文字を使用している。

 イギリスは、オーストラリア、トリニダードトバゴ、ジャマイカ同様、もちろん「サンキュー」だが、イギリスはイングランドでなくUKであると初めて知った。ベナンはフランス同様フランス語の「メルシー」とフォン語の「アバイバオウ」。カナダは「サンキュー」と「メルシー」を使う。ブルキナファソはモレ語「バルカ」、ガーナはアカン語「ミダーシ」、ブラジルはポルトガル語「オブリガード」で、パラグアイはスペイン語の「グラシアス」だ。2時間で世界一周を満喫できて、「ありがとう」(日本語)。

 前号までは、分野ごとに紹介したが、一年前から鑑賞した映画は鑑賞の時系列で紹介する。

「イミテーション・ゲーム」
 コンピューターの理論の礎を作りながらも、同性愛者として罰せられ研究環境を持つことができなくて41歳で亡くなったチューリングの生涯を描いている。イギリスは半世紀後に特赦しその功績をたたえた。

「グッド・ライ~いちばん優しい嘘」
 南スーダンに住むマメデールと妹と他の兄弟は、兵士が村を襲い両親が殺され、エチオピアに歩いて向かい、その後ケニアに向かって歩き続け、カクマ難民キャンプにたどり着く。その途中で、マメデールの兄は兵士に注意を向けさせ兄弟を助け、弟のダニエルは病気で死ぬ。カクマ難民キャンプでアメリカへ行ける日を待、ついにアメリカに渡った。
 ケニアで自分たちを探している男性がいるとの情報を得て、もしかしたら自分を助けてくれた兄ではないかと思い、マメデールは難民キャンプへ行く。そこで兄と再会するものの、兄のアメリカ行きのビザを取得できない。兄にはビザが下りたと報告し、出国手続き直前で真実を話し、「自分は兄さんからもらった命なのだから自分のパスポートとビザで出国してほしい。自分は難民キャンプで医師として働くから」と「良い嘘」をつこうと言う。兄はアメリカに渡り、兄弟たちと喜びの再会をする。アフリカの人々の純情さに心動かされる感動的な映画だ。

「わたしを離さないで」
 臓器提供目的で人間のコピーを作ったが、その人間には通常の人間と全く同じ肉身と精神作用を持っている。そのようなコピー人間だけが集められ共同生活をするヘルシャム学校の3人の同期の男女が主人公のフィクション。昨年日本でテレビドラマとして放映された。2017年10月にノーベル文学賞を受賞した石黒一雄氏の作品。

「屋根の上のバイオリン弾き」
 ウクライナに住むユダヤ人一家とその地域の人々との交流を描くミュージカル。牛を飼い乳を売って生計を支える主人公の父親は、何よりも伝統を大切にする。しかし、長女は貧乏な仕立て屋と、二女は共産主義者と、三女はユダヤ教以外の宗教を信じる男性と恋に落ちる。ユダヤ人に対する迫害が始まり住み慣れた家を追われても、彼らはユーモアを忘れず力強く生きていく。

「私に会うまでの1600キロ」
 離婚や母親の死、自らの自暴自棄な生活で負った心の傷を癒すために、主人公のシェリルは数千マイルに及ぶPCT(パシフィック・クレスト・トレイル)をひとりで歩き通すことを決意した。人や自然との出会いごとに、過去の体験を思い出し感情を追体験しながら過去の思いを昇華し整理していく。かと思うと過酷な現実にも直面する。それらすべての過程を通してシェリルは大きく成長していく。

「やさしい本泥棒」
 ベストセラー小説の映画化。第二次世界大戦時のドイツが舞台で、ユダヤ人と分かれば連れていかれるヒトラー君臨する時代。主人公リーゼルは母親に連れられ養父母のもとへ連れていかれる。養父ハンスはリーゼルが文字を読めない子であることを知ると、リーゼルが盗み持っていた本を読み聞かせてあげて文字を教える。本の力、言葉の力を実感する作品だ。

2017/07/15

 平成12年から成年後見制度が始まった。被後見人の判断能力がすでに不十分になってから用いられる法定後見制度よりも、判断能力がまだ十分あるうちに将来の後見人との間で契約を結ぶ任意後見制度の方が、利用者の意思が反映されやすい制度と言えるだろう。

 任意後見契約で被後見人の療養看護と財産管理を任された任意後見人が実際にこれらの業務を開始するのは、被後見人の判断能力が低下したとされ、裁判所が後見人を監督する監督人を選任してからだ。後見人は被後見人から信頼されて財産管理等を任されるが、いつ魔がさして被後見人の財産を自己のために用いるか分からない。それで、後見人の業務を監督人が監督し裁判所に報告することで、被後見人の財産が正しく用いられるようにする。

 外国人の技能実習制度にも似たようなところがある。我が国の進んだ技術・知識を学んでもらい、修了後は母国の経済発展に尽力するという趣旨から離れ、人手不足を補う安価な労働力の確保のために用いられてきた経緯があるからと思われるが、本年11月より、外国人技能実習機構という新しい機構が作られ、極めて厳しい運用が開始されようとしている。

 協同組合が複数の組合員企業の依頼を受け窓口となり外国人技能実習生を呼び寄せ、実習実施機関で技能実習を行う場合、協同組合が実習実施機関を定期的に訪問し、当初計画した計画通りに実習がなされているかどうかや技能実習生の法的権利が侵害されていないかを監査する。しかし必ずしもすべての協同組合が適切な監査をしているとは限らず、協同組合の監査業務を監査する外部監査人を置くことが義務付けられることとなる。

 後見人を監督する監督人を置いたり、監査人を監査する外部監査人を置くということは、どんな人間や組織でも厳しくチェックされなければ安易な方に傾いたり魔がさしたりするという、現実を冷静に直視した現実志向の考え方に立脚している。このことにより、制度趣旨が担保されやすくなる。反面、共産圏国家の監視社会のような窮屈な社会になってしまわないだろうか。

 別のアプローチがあってしかるべきであり、それは人間の道徳性や倫理性を向上させることにより問題を解決していこうという理想主義的な志向だ。役人の仕事は現実志向でなければならずそれでいっこうにかまわないが、教育者や思想家、宗教家、又は家庭における親は市民や家族の心を開発し道徳性を高めなければならない。戦前は教育現場で教育勅語を生徒は覚え暗誦し、人として生きる道を学んだ。

 現実志向に則り制度運用を厳しくしても、道徳観が低ければ法の抜け道を捜そうとするだろう。また監督人や監査人ばかりの社会は面白みに欠ける。それよりは、「70にして己の欲するところに従えども矩を超えず」を理想とする社会に住みたいものだ。
「十二人の怒れる男たち」
 アメリカにおける陪審員たちの協議の様子を描く。真実を求めることと法の精神(疑わしきは罰せず)に忠実であろうとする人(主人公、建築士)、自分の趣味を最優先にはやく終了してしまいたい人(ブローカー)、自分の放蕩息子に犯人を重ね合わせて有罪にしたいと最初から考えている人(経営者)、スラム街に住む人はろくな者がいないと先入観を持っている人(経営者)、人間洞察と共感力に富む老人など個性が描かれていて興味深い。日本の裁判員制度は多数決で評決するが、陪審員制度は完全一致にならないと終了しないので、話し合いが必要になる。

「父の祈りを」
 アイルランドとイギリスの対立を背景に、冤罪で無期懲役を食らった父子が闘う過程を描いたもの。女性弁護士がとても素晴らしい。

「告発」
 1995年に公開されたアメリカ映画。 アルカトラズ島にあったアルカトラズ連邦刑務所で行われていた過剰な虐待を告発し、1960年代に同刑務所を閉鎖に追い込んだ実話を基にして製作された映画。

「ディアブラザー」
 アメリカでは冤罪が過去10年間で250件も発生しているそうだ。この映画も冤罪で男性が20年間投獄されていた実話をもとに作られた。
 幼いころから兄と大の仲良しだった妹が兄の無罪を信じ、夫と二人の子を持ちながら高校卒業から始め、大学入学、そして弁護士の試験に合格し弁護士として兄の無実を証明していく。長い年月がかかったので、証拠が捨てられているかもしれない状況の中、それを発見し、支援団体の支援を取り付け、兄の娘にも父の無実を伝える感動的な映画。妹はこのためにだけ弁護士となり、それ以降弁護士活動はしていないという。

「真実の行方」
 リチャードギアが演じる弁護士は、大司教殺害の容疑者の弁護を無償で買って出る。容疑者の素朴な表情に無罪を信じ調査する中で、大司教と容疑者やその女友達との間で行われたセックスプレイのビデオを発見する。それが端緒となって、容疑者の二重人格が殺害を引き起こしたとなり、刑場ではなく病院送りとなり、弁護は成功したかにみえた。しかし、実は容疑者の人格は残虐な方の人格で統一され、素朴な人格は作り出されたものだった。

「リーガル マインド」
 アルコール中毒で治療中の女性弁護士が、社会貢献活動として殺人犯の女性の弁護を引き受けることとなる。涙ながらに語る殺人犯の言葉を信じて調査を進めていくうちに、警察が証拠の改ざんや隠匿をし、検察もそれを知りながら起訴して仮釈放のない終身刑犯を作りあげたことを知った。資料を集め、また裁判官も犯人の人権を守ることが専門の人であったことも味方して、法廷で冤罪であることを証明し無罪放免となった。しかし、その事件にかかわる別の女性の話を聞くうちに、無罪放免となった女性が実は犯人であることを知り、一転していったんは無罪とした女性を有罪にするために法廷活動をする。仲間から、「あなたが立派である理由は勝訴の率が高いことではない、別のことだ」と言われ考え続けるが、あきらめないでやり続けることだと思うようになる。

2017/06/15

 小さい子にことばを教える時に、自動車のことを「ブーブー」と言ったり、祖父母のことを「ジージ、バーバ」と言ったりすることをよく見る。子どもにとって覚えやすいようにという配慮があってのことと思うが、子供にとれば日本語を覚えるのに二度手間になる。幼児語でなく最初から正しい日本語を教える方が良いと思う。

 大人は幼児や子供の精神程度が低く幼稚だと勝手に思い、幼児が通う園を幼稚園と名付けたりするものの、幼児や子供が幼稚とは限らない。むしろ、一人前であるとして、大人がするのと同じような体験をさせることもあった方が、早く成長できるのはないだろうか。

 オランダのある市では、政治教育の一環として、11~12歳の子どもたちが、初等学校から「選挙」で選ばれた「議員」として、本物の市議会会議場で現職の市長が議長となり自校の政策を決めているという。歌やダンスなどでの若い優れた才能を発掘するための「タレントショー」、市内の歴史を学ぶクイズを組み込んだ「タイムマシン計画」、自然体験を疑似体験できるスマートフォン向け「アプリの開発」、ゲームを通じた「お年寄りとの交流」等が提案される。1回目の投票でいずれも過半数を取れないときは、政策の良さを訴えたり質問し合い、多数派工作もして「タレントショー」が過半数を得て成立したという(読売新聞、平成27年12月26日)。 

 私は、富山に家族で住むバングラデシュ、パキスタン、ガーナの人々四十名ほどが集う会合に参加したところ、5歳から12歳くらいまでの男女が英語で「ディベート」するのを見た。「将来成功する上で教育は必要か」というテーマで、賛成意見の人と反対意見の人が順に発表するだけで、対立点を明確にして議論するところまでは至らなかったものの、皆母国語でもない英語を駆使して発表していた。最多得点を取ったパキスタンの女生徒の発表は、大人も顔負けするような立派な内容を流ちょうな英語で話しており、感銘を受けた。

 保育園を経営する横峯吉文氏が唱える教育法も素晴らしい。親は子供に教え諭してどうにかしようとする教育が一番良くなく、子供が成長する原動力である意欲・やる気・好奇心を大切にして、「教えない。子供が求めるようにわれわれが課題を準備する。その子に合った課題、その子にとってできることを与える。教えて育てるのではなく環境で育てていく」ことが大切だという。

 子供は親の言うことには従わないが、親のしていることは真似る。親や周囲の大人やテレビ等に出演する人がしていることを自分もしてみたいと思う。目を離すことなく、かといっておもねたり押し付けたりせず、模範を示し環境を準備することにより天賦の才能が引き出され有為な人材になるのではなかろうか。
「ベンハー」
 ジュダはユダヤ人でローマ人の父を持つメッサラとは親友で家族付き合いをしている。父の兄弟の娘エスターとの婚約も終えた。メッサラは司令官として出世し、ローマ皇帝を護衛する役を持ち、ジュダの家の前を通ったが、ジュダは事故でローマ皇帝を傷つけてしまった。メッサラは責任を問われ、ジュダをガレー船送りに、ジュダの母と妹は絞首刑にされることとなった。ジュダが漕ぐガレー船にアリウス提督が乗った時、海賊船に襲われ、提督と自分と二人だけが助かる。これが縁でジュダは提督の跡取りとなり、ローマの市民権と財産を得る。そして憎きメッサラに復讐することを考える。(上巻)
 故郷エルサレムに戻ったジュダはかつて自分と家族が住んでいた家を手に入れた。エスターにも会うが最初は自分を信頼してくれない。エスターはイエスキリストの教えを学び、人を許すことの大切さを知っていた。ジュダの母親と妹に偶然出会い、生きていたが死の病にかかっているのを見る。
 メッサラと、四頭立ての馬車での死をもかけた競争をすることとなる。ジュダはユダヤの民の代表として参加し優勝するが、メッサラは瀕死の重傷を負う。メッサラはジュダに母と妹が生きていることを告げ、ジュダに会うことを熱望するが、ジュダは会いに行こうとしない。次第にエスターの感化を受け、自分も許されていたことに思い至る。メッサラに会いに行く途中に、十字架を背負い歩くイエスキリストを助ける。(下巻)。

「コロンビアーナ」
 コロンビアは花と殺し屋の国。父母を殺害された少女はおじさんに会いにアメリカへ行き、殺し屋になることを望む。愛と平和を望みながらも、父母の復讐のため、犯人をおびき寄せようと、殺人現場にカトレアの花を残しておく。恋人がたまたま撮影した写真がFBIに流れ、殺人現場の人物と照合一致し家に踏み込まれるが、父母のかたきを取りに行く。

「名もなきアフリカの地で」
 ナチスの迫害から逃れたユダヤ人一家がアフリカのケニアでたくましく生き抜き、ドイツに戻るまでの様子を描く、心温まる映画だ。夫婦は愛し合いながらも自分の主張を通していく。最初アフリカが嫌いだった妻は次第に心惹かれていく。娘は最初からアフリカの人々になじみながら、その風習を受け入れていく。ドイツに敵対するイギリス人が通う学校で学ぶが、ユダヤ人はわずかで差別的な扱いもあるようだが、その中でたくましく生きていくようすが、アフリカの素朴な人々との交流の中で美しく描かれている。世界を肌で体験する娘の将来がとても興味深い。自己の有用感をアフリカでは感じられない夫は、ドイツでの判事の職を得る。帰国に当たり、家族が殺されたドイツに帰ることの怖さを感じながらも生まれ育った故国に惹かれていく。

「アレキサンダー」
 ヨーロッパからインドにまたがる大帝国を築いた王様の話。マケドニアの王様である父は妻以外の女性を愛し、自分を愛し教育する半面、憎む妻の子ということで簡単には後継者にしない。ペルシャと闘って勝利しバビロンを手中に収めるが、現地部族の娘を王妃とする。この頃までは、魅力的な若王で、異文化を下に見る臣下に反発し東洋の古くからの文化に敬意を払う姿が美しい。さらに東へと遠征しインドに至り南下を試みる。結局傷つき敗退しバビロンに戻るが、毒殺される。毒殺した元臣下が周囲の者に書きとらせるという形で映画は進む。壮大で素晴らしい映画だ。

2017/05/15

 仕事柄、日本で単身で、あるいは夫婦で在留する外国人の方が、母国にいる子供を呼び寄せるための在留資格制度上の手続きをすることがよくある。

 母国で高校まで卒業しその後本人の意思で来日を決めた場合と異なり、親の意思や都合で呼ぶ場合は、母国でどの程度母語を習得しているかに配慮する必要がある。来日後、日本語で授業が行われる通常の学校に通うことが多いが、親の日本語能力が低い場合、学校で日本語で学んだことや、同級生と日本語で会話したことに関する疑問点や感じたことを親に理解してもらえずストレスがたまったり、感受性や理解能力の形成に支障をきたすこともあるようだ。周囲は日本語を話す人が多く自分の母語が少数派だと、自分の母語や母語を話す両親を大切に思う気持ちが阻害されることもある。

 脳の専門家は、母国語を子供の母語にしようとするなら、3歳までは他の言語と混ぜずにしっかり母語を伝えた方がよく、8歳の誕生日(言語脳の臨界期)までには母語の能力を仕上げておくことが大切だと言う(黒川伊保子著『日本語はなぜ美しいのか』集英社新書)。

 親の都合で来日した外国籍の子どもは、日本人の同級生となじみ生活上の日本語を修得するのに通常は1~2年かかる。しかし、生活上の日本語を話しているからといって、日本人の子どもと同じように日本語で学習できるようになったわけではない。通常は、学習言語能力の獲得には5~7年(~10年)年かかるとされている。

 言語少数派の子どもの言語能力は、場面依存度(ものを指す、目を使う、うなずく、ジェスチャーなどをどれだけ利用できるか)が低く、認知力必要度(要求される認知的負担の程度)が高い場面でも高めなければならず、学校の授業の前に母語による先行学習を準備する教育ボランティの方々たちの負担はとても大きい。

 私を含めほとんどの日本人は、日本語を話す両親に育てられ、日本語が通じる学校で学習する。日本国内のあたりまえの風景だが、子どもの言語能力をはじめとした多くの能力を高め、アイデンティティを形成するための母語能力の獲得という面からみると、極めて質の高い優れた環境であることが分かる。

 明治18年に初代文部大臣に就任した森有礼氏は、英語を国語にすることを提案したようだ。現在も、子どもの能力を高めるべく日本語よりも英語により多く触れさせようとする若い親が多いと聞くが、子どもの脳機能形成と豊かな人生を守るという観点から考えれば、これほど愚かなことはない。

 国際化社会に対応するための英語の早教育が叫ばれているが、12歳以降にしたほうが賢明なようだ。12歳までの子どもの脳はとても忙しく、外国語学習を余儀なくさせられると、脳の人間形成において必要なやるべき仕事の一部を放棄するしかないのだという。
「鑑定士と顔のない依頼人」
 ヒッチコックやガス灯を思わせるような心理劇の名作。主人公は孤児として育てられる中で絵画の真贋を見抜く鑑定士に付き添う機会があり、その技術をマスターし、今では絵画オークションをする重鎮鑑定士となる。しかし、女性との付き合い方が分からず、結婚歴もない。あるとき相続した家の中の骨とう品を売りたいので見に来てほしいという女性からの依頼を受け訪問するが何度もすっぽかされ、そのたび謝罪の連絡が来る。その女性は広場恐怖症という病気で人前に姿を現すことができない。何度もやり取りをし怒りと謝罪が繰り返されるうち、主人公は次第にひかれていき、顔を見せてくれた彼女を愛するようになり、絵画コレクションが収納され誰にも見せたことのない部屋に招き入れるまでに信頼する。しかし、オークションの仕事から帰ると、彼女はおらずコレクションすべてが持ち去られていた。

「ガス燈」
 心理描写が精緻な映画。主人公の女性は結婚することとなった男性と住む場所を考え、結果的に不審な死を遂げたおばさんの家に住むこととなる。しかし、男性が優しかったり冷たかったりすることで心理的に追い詰められていく。しかも、夜になると誰もいない屋根裏から音が聞こえたり、室内のガス燈がうす暗くなった後また明るくなった直後にいつも夫が仕事から帰ってくる。この家での事件に関心を持っていた刑事が男性に不信を抱き、家に乗り込み男性の陰謀を暴く。

「めまい」
 妻殺しで遺産を手に入れようとする男性の策略に乗ってしまう主人公だが、知恵と勇気と真実に対する追求心で道を切り開き、真実を突き止める。最初は仕事で主人公に接していた女性が主人公を愛するようになっていく展開は、「北北西に進路を採れ」(いずれもヒッチコック)と同じだ。

「ダイハード4」
 ハッカーのコンピューター侵入で社会基盤が狂うことを取り上げた報道番組で、ダイハード4が引用されていた。コンピューター制御をハッカーにより乗っ取られる危険性を指摘して相手にされなかった優秀な公務員が、腹いせか自己能力の誇示かのために、ファイヤー・セール(投げ売り)のサーバーテロを試み、交通機関(第1段階)、金融・通信(第2段階)、電気・ガス・水道・原子力(第3段階)を乗っ取ろうとする。彼の狙いは、通信網・交通網を遮断し、インフラも使えないようにして、社会を原始時代に逆戻りさせることだ。ニューヨーク市警のマクレーン警部がそれに立ち向かい、一人のハッカーの力を借りて、その試みを阻止する。もう一度見たい映画だ。

「アナザープラネット」
 人間の良心を見つめた韻文的で秀逸な作品だ。ローラはMITの優秀な女学生。しかし、飲酒運転で一家3人の人生を狂わせた。夫のジョーンは昏睡状態、妻と子は死亡という大事故を起こしたのだ。4年間の刑務所暮らしの後、同級生に溶け込めず清掃の仕事に就く。インターネットで被害男性の住所を見つけ、清掃の無料お試しとして訪問し、清掃をするが、謝罪の時期を失い少しでも幸福にしてあげたい一心で尽くしていく。巷では、地球と同じ様相の惑星に連絡ができ、その惑星への旅行希望者の募集が始まり、ローラは当選する。そのことを伝えにジョーンの所へ行くと、ジョーンは祝ってくれるが行かないでくれと懇願する。ローラは、自分の罪を告白する。怒ったジョーンに追い出されたローラはその惑星が見つかった時から地球とのシンクロが狂ってきていることを知り、ジョーンに宇宙旅行のチケットを譲る。

2017/04/15

 他者が主催する会合に参加することは多くあるが、自分で会を主催することは通常あまりない。準備と覚悟が必要だし、金銭的にも赤字が出るかもしれない。しかし、自分が関心のあるテーマを世にアピールし、人を募ることは刺激的で面白い。参加者から感謝されれば、冥途の土産としては最高だ。

 私は平成15年からこの毎月ニュースを書き始め、7年ほど経過した平成22年に、一般市民に公開講座開設の場を提供している「富山インターネット市民塾」に「自分新聞への挑戦」というテーマで六回シリーズの講座を準備した。新聞や広報誌の作成に個人として取り組んでもなかなか継続できない人が多いことを知っていたので、自分の経験が役に立てないかと思ったからだ。長野県の知り合いが20年以上にわたり家族で発行している家庭新聞を取り寄せたり、県内の銭湯が継続発行している広報誌をいただいたりして準備したが、結局誰からの反応もなく開講には至らなかった。お世話いただいた市民塾事務局の方には申し訳なく残念な反面、ほっとしもした。

 平成24年には知り合い数人を集めて「憲法研究会」を開催した。資料を準備し、輪読と討論をする会だったが、硬いテーマだったせいか参加者が少なくなり自然解散となった。ただ、現憲法のおかしなところが理解できた。第1章「天皇」に続く第2章が「戦争の放棄」となっているが、第9条の文言いかんにかかわらず、本来この章は「安全保障」とすべきだということが分かった。太平洋戦争直後であったとはいえ、あたかも公益テーマの会合で自分の幼少時の心情体験を一方的に吐露するのに似て、世界の中で日本を守る考え方を示さず、一方的な反省の念を述べて、それが世界全体にプラスになるとは思えないと感じた。

 平成25年に一般社団法人ビブリオ国際交流会を設立した。それまで自分が体験した国際交流は、相互の自己紹介と若干の言葉の学習と、料理の紹介ぐらいで、深い精神性までをも理解するための書物(ビブリオ)を通じた交流はなかったので、それを目指して設立した。まずロシア語とアラビア語の講座を開設した。ネイティブ講師をお願いし各言語10回シリーズで臨んだ。しかし、参加者はいずれの言語も1名で、経営的には失敗だった。今後は、今中高生などの間で流行しているビブリオバトル(書評大会)を開催したい。

 平成27年には、事務所近くの飲食店を会場としてお借りし、「英語のことわざ研究会」を作った。日英対照ことわざ集の資料を準備し、ワークショップ形式で、皆で話し合いたい英語のことわざを人気投票で選び、それについて英語で話し合うというものだ。各種シート類を準備し臨んだが、3~4回で終わってしまった。

 試みたことはいずれも開催に至らないか、数回で終わってしまった。成果には至らなくとも、苦楽の思い出と未来への種だけは残った。
「四分間のピアニスト」
 高齢の女性のピアノ教師クリューガーが刑務所内で服役する21歳の女性ハンナの中にピアノの才能を認め、特別に訓練する許可を得た。ハンナは3年前までピアノのコンクールで入賞する実力者だった。ハンナは親から犯され心を病み、素直に訓練を受けることができないが、次第に師弟の間に信頼関係ができていく。コンクール前日にハンナは同室の囚人に障害を負わせ、クリューガーは極秘のうちにハンナを刑務所から出してコンクールに参加させる。警察がコンクール会場に来るが、演奏の4分間だけ待ってほしいとクリューガーは頼みこむ。ハンナの演奏は型破りで、ピアノの鍵盤だけでなく他の部分も打ちならしまさにピアノと格闘しているようで迫力がある。終了後聴衆から万雷の拍手を得る。魂のぶつかり合いに息をのむ映画だ

「敬愛なるベートーベン」
 ベートーベンは神から与えられたメロディーが頭の中に詰まっている。4日後には第9の発表があるが、写譜してくれる人の助けを得る必要がある。アンナボルツという、ベートーベンに心酔する優秀な女性写譜がやってきて、その能力を発揮する。ベートーベンはアンナの中に才能を見出し、2時間ぶっ続けの指揮に自信がなくアンナの助けを得て無事に発表会をこなす。アンナは修道会に起居しながらも橋梁を設計する学生の恋人がいる。ベートーベンはその作品を評価せず彼の作品を公衆の面前で壊す。アンナは激怒するものの、ベートーベンの考えに共鳴してひかれていく。神と対話し本心に忠実なベートーベンの魂と、偽りなきアンナとの関係が素晴らしい。

「レイ」
 レイチャールズの一生を描く迫力ある映画。子どもの頃に盲目になり、母親がひとりで生きていけるようにと厳しく育てる。自作の曲をピアノで弾き語りをする。ときどきの自分の思いを歌に込めるので気持ちがこもっている。ヘロインに犯されながらも演奏を続けるが、発覚し逮捕され施設で克服する。ジョージア州で演奏禁止処分を受けたが、その後名誉回復(ジョージア州が謝罪する)する。彼の瞼の奥にはいつも厳しく優しい愛情豊かな母親と、小さい時に目の前で死んだ弟の姿があった。

「奇跡のシンフォニー」
 孤児の主人公は天から落ちてくる音や街中で耳にする音にすごく敏感だ。施設を抜け出て音に惹かれてさまよいながら、その音楽の才能を認められジュリアード音楽院に入り、数千人の観客を前にオーケストラの指揮をすることになる。父母を探しての歩みが実り、その場に前座でチェロを弾いた母親と母親に惹かれてきた父親が彼の指揮を見ることとなる。

「オペラ座の怪人」
 19世紀後半のパリが舞台。醜く生まれた少年が音楽の才能を活かして、パリオペラ座で思いを寄せる女性の魂に音楽を吹き込んでとりこにしていく。音楽と踊りを主体に美しく展開されるミュージカルダンス。

「サウンドオブミュージック」
 1930年代のオーストリアが舞台。修道院に身を置くマリアは、自然人で好奇心旺盛。7人の子を抱え妻を亡くした大佐の自宅に家庭教師として働き、子どもたちに慕われる。大佐は、婚約者がいながら、マリアの自由な大きな心に惹かれて求婚する。ヒトラーがオーストリアに勢力を伸張し迎合する人が多い中で、大佐は勇気を持って行動する。真実の愛と勇気のミュージカル。

2017/03/15

 現代日本では「経済的に豊かか貧しいか」、「健康か病気か」等の物質的満足における成功、失敗で人生の価値を判断しようとする平板化された価値観が支配的と言えよう。
 マズローの「欲求の五段階説」、つまり人間というものは「生理的欲求」「安全の欲求」「所属の欲求」「承認の欲求」「自己実現の欲求」の順に下位の欲求が満たされてからでないと、より上位の欲求に向かうことができない、という説が、各種資格試験の頻出テーマであることが、そのことを示唆しているように思える。

 一方、強制収容所の中でも、パンと優しい言葉を与え聖者の如くになった人間を目撃した『夜と霧』の著者フランクルは、人間は下位の欲求が満たされていなくても上位の欲求に向かうことはできると考え、学術誌で直接マズローに疑問を突き付けたところ、マズローはあっさりイエスと答えたという(幻冬舎新書『人生を半分あきらめて生きる』諸富祥彦著)。

 日本が長寿社会になる前は死は自然なこととしてもっと身近に感じられていただろう。70歳にもなってよく働けず家族に負担をかけながら立派な歯があることを恥として自ら石に打ち付け、息子に背負われて山に捨てられに行くことを心待ちにするような感性(映画「楢山節考」)は、はるか昔の異国のものであるかのようで、政治家が一言でもそのような悲しくも凛とした精神姿勢を肯定するなら、人権蹂躙として猛攻撃を受けかねない現代日本では、避け得ない死を客観的事実として受け入れた社会制度を作っていくことさえ困難になってしまったのかもしれない。

 渡辺利夫氏は、がん発生の原因となり検診結果が出るまで半病人のような気分にさせるがん検診を強制する厚労省は、浅はかな死生観を日本人に振りまいていはしないか、自省はいつ生まれるのかと警鐘を鳴らし、「私は私自身の人生をまっとうするために生きているはずなのに、病気のことにかかずらわって、短い人生の重要な時間を、これに『侵食』されるというのは『背理』ではないか」(光文社『人間ドックが病気を生む』渡辺利夫著)と喝破する。

 戦後日本は科学主義により実証性や論理性を基礎とした考え方は浸透したが、世界と歴史と自然を観察し感じる神秘性から超越者と自分との関係を深く考えたり、人間の存在理由を思い巡らす「内面の深み」や「魂のミッション」といった、平板化された水平的価値観とは独立な垂直的価値観を失ってしまった。

 物質は二次元や三次元の座標軸によりその存在のありかが規定できるように、霊肉を併せ持つ存在である人間も、物質的満足の水平軸と、希望と絶望を両極端とする意味を示す垂直軸の内に自己を置かなければ、自分が生きる同時代の支配的な価値観に引きずられて生き、自己の尊厳性を自ら捨て去ってしまうことにもなりかねない。

「楢山節考」
 木下恵介監督、田中絹江主演。昔の日本の農村の貧しく悲しい様子を描く。70歳になると家族の食いぶちを減らすために子供に背負われて山に行き、ひとりそこで死ぬのを待つ。主人公は、70歳になる正月に山へ行くと、楽しいことを待つような表情で家族に言う。息子もようやくそのことを受け入れてくれた。その年で30本近い歯がしっかりあることはむしろ醜いこと。主人公は自ら歯を石にぶつけて破損させる。息子に背負われていく道すがら、主人公はカラスが待ち構え、白骨が散乱するなかで死ぬところを息子に指示し、雪が降る中ただ両手を合わせて座って祈る。凛とした悲しさがある。息子は、いったんは母親を置き去りにして山道を下り、いたたまれず母のところに戻るが、意を決して家へ帰る。その場所は今「うばすて」という名前の電車の駅になっている。

「女衒(ぜげん)」
 明治時代に香港やシンガポール等のアジアで女衒として活動した村岡伊平治を緒方拳が演じている。売春で稼いだ金を日本の親元に送れば納税できるのだから、娼館経営は国のためになるというのが村岡の理屈だ。第一次大戦の頃になると、売娼に対する国際世論が厳しくなり、経営ができなくなる。ひたすら愛していた倍賞美津子演じるしおを中国人のワンに取られ、それ以降は現地に基盤を作るためにひたすら子作りに励む。

「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」
 程久保高校野球部の部員は、監督との信頼関係もなく、過去の試合の人間関係を引きずり、皆やる気がない。甲子園出場なんて夢のまた夢。そこに、臨時のマネージャーをすることとなった南がまず向かったのが本屋だ。ドラッカーのマネジメントの本を購入し読み始める。「野球部の定義は何か」「野球部の顧客は誰か」を考え始め、「専門家は理解する人がいて初めて価値がある」「組織の外部を変えることがイノベーションである」等、現実に当てはめて理解を深める。そして、現実がそのようになっていく。みなみらの思いが監督と部員に伝わり、ブラスバンド部、チアガール部等も巻き込み、一年後甲子園出場がかなった。

「東京暮色」
 小津作品。山田いすゞ演じる次女が、母親がいない寂しさから問題行動をとり、最後は踏切で事故で死ぬ。原節子演じるその姉が、苦悶の中から、子が健全に育つには父母がそろっていることの重要性を悟り、実家へ戻り残してきた夫の所に帰る決意をするまでを描く。

「羅生門」
 芥川龍之介の作品「藪の中」をもとに、黒澤明監督が映画にした。一人の男が殺されているところを見た男の話を通して、三船敏郎が演じる関わり殺した男多襄丸(たじょうまる)や、殺された侍とその妻がどんな態度を取ったかが、話す人により異なっている様を描き、人間とは恐ろしいものだとする。
 多襄丸によれば、妻を手籠めにした後自分が侍を殺したという。目撃した男によれば、女が自分を強く愛する男のものになるとして両者を戦わせようとしたという。女の証言や、女を通して霊界から現れた侍の証言もまた異なっている。何が真実かは全く分からない。

「武士の家計簿」
 加賀藩で3代以上にわたって、そろばんを専門とする武士として生き続けてきた一門の物語。

2017/02/15

 将棋や囲碁と比べて、麻雀は勝敗が少なくとも短期的には運の要素に左右されやすいせいか、NHK等の公共放送にはあまり登場しない。この麻雀のイメージを悪くしていた「酒を飲む」「タバコを吸う」「お金を賭ける」を排除した「健康マージャン」が普及してきており、大会が行われると、小学生から高齢者までが参加するようになった。医師は認知症の予防に効果的だとして健康マージャンを勧めており、私も始めた。

 麻雀で用いる牌は、天宙と人生を示唆しているようで興味深い。字牌と数牌からなるが、字牌は「白」「発」「中」という三元牌と、「東」「南」「西」「北」という4種類の風牌により成り、数牌は「草子」「萬子」「筒子」の3種類が、それぞれ1~9の9種類がある。7種類の字牌と27種類の数牌は、いずれもそれぞれ4枚を擁し、136枚の牌を積んだり崩したりして遊ぶゲームだ。

 私見だが、「白」は陰性、「発」は陽性、「中」はその中和を表現し、この3種類で天を表わしている。「東」「南」「西」「北」は方角で張られる地を表す。「草子」は中性、「萬子」は女性、「筒子」は男性を表し、数字の最小値「1」と最大値「9」の間の27種類、108枚の数牌は、さながら数字と能力で彩られる男女間の人生模様を表しているようだ。

 卓を囲む四人は、最初配される13枚の牌を自己の前に並べ、一枚ずつ順番に持ってきて(自摸)不要牌を捨てる。役を作るのだ。めったにできず美しい並びの役は高価、ありきたりの役は低価で、一局が終了するたびに和了(役を完成させること)者は点棒を他の人より受け取る。

 中国で発祥した麻雀だが、日本に伝わってきて、その局で自分が捨てた牌と同じ種類の牌を他者が捨てても、それでは和了できない等の、より精緻なルールができて遊技としての質が高くなったようだ。

 麻雀を人生に置き換えれば、配牌は出自のようなものだ。役作りを構想し牌移動を繰り返すことは、人生の目標を定めて努力している様を想起させる。局と場は人生の区切りを示し、今日、今月、今年うまくいかずとも、再起を期してまた翌日、翌月、翌年への挑戦を繰り返す。

 同卓する3人は、半荘が継続する間、自分の打牌、和了、完成した役の内容を目撃する者で、自分の幼少時代、結婚時代、老後の時代を共にする家族や知り合いのようなものだ。

 勝負事なので結果に一喜一憂しがちだ。しかし、強くなければ生きていけないが、優しくなければ生きる意味がない人生と同様に、強くなければやり続けられないが、マナーを守り他者の和了を認める優しさがなければする意味がない。そして、優しさがあってこそ、真の強さともなる。

 人生の達人は、死期が近づくと「いろんな人にお世話になり、面白い娑婆だったちゃ」と感慨深く語るが、雀卓を離れる時には「お陰様で面白いゲームを共にできてありがとう」と言いたいものだ。
「誤診」
 幸福な一家に不幸が襲う。幼い次男がてんかんになり、病院で薬の投与を次々受けるが、どんどん悪くなる。病院は家族の思いを顧みることなく、科学的な治療を進めていく。母親は図書館に通っててんかん治療の方法を学び、食事療法が効果的であることを知る。次の日に脳の手術をするというときに、息子を連れ出そうとするが、病院に見つかる。夫の知り合いの医師の協力を得て、食事療法をしてくれる病院に飛行機で連れていき、断食から始まる食事療法により良くなり、3年間で完治する。科学的手法といいながら行われていた方法は、患者や家族を虐待していたと変わらない。最後の場面では、食事療法をしている病院への連絡方法を紹介し、その方法を用いて治った映画出演者を紹介していた。感動的な実話だ。

「マイフェアレディ」
 イギリスを舞台に、音声学(発声学)の教授が下品な花売り娘に会い、花屋さんの売り子になりたいという娘の要望に応じて、音の発音から矯正し上品な娘に改造していく。舞踏会で皇太子からダンスを求められるほどに美しく変貌していく。ことばにこだわりを持つイギリスならではの作品。オードリヘップバーンが、当初は下品に振る舞い、次第に洗練された姿を演じ分けているところが見どころ。

「ビッグフィシュ」
 幻想的な部分も含む、男の仕事と家族との人生の話。社交好きで多くの人に好かれる父親がする話は荒唐無稽な作り話が多い。息子は、小さい時は本当のことと思っていたが、長ずるに従いうそが多いことを知る。しかし、その動機は人々を喜ばせようというもので、死に面している父親の過去を調べると、多くの人に尽くしてきたことを知る。父から聞く5メートルもの巨大な魚の話を、息子は作り話として好きではなかったが、父の死後自分も息子にその話をしている。

「コーリング」
 医療活動のために、身重の身でありながら奥地に入って活動していた妻が、バス事故で死亡する。夫で医師の主人公は悲嘆にくれる。妻の元患者などから自分へのメッセージを受け、さらに直接妻が霊的に現れ、事故現場へと調査に行く。バスが落ちた湖に飛び込み、運び込まれたであろう村に入っていくと、そこに妻が生んだ女児がいた。妻は、そのことを知らせるために、私を探してというメッセージを死後送り続けていたのだった。

「アイアムサム」
 知能指数が7歳の父親が、娘のルーシーを育てることは許されるかどうかをめぐり、法廷闘争となる。養親となった夫婦も最後には、ルーシーはサムによって育てられるのが良いと考えるようになる。

「インサイダー」
 タバコ製造会社に勤めながらも喫煙の害をよく知る化学博士が、良心ではたばこの害を世間に訴えることの重要性を理解しながらも、家族と経済的利益を守るために苦悶する。その人を支援するマスコミ人が主人公。マスコミ人の正義と誇りを考えさせられる。実話を元にした作品

「ホテルルワンダ」
 ルワンダにおける、フツ族がツチ族を百万人殺害した実話をもとにした話。ツチ族の妻を持つフツ族のホテル支配人が、国連軍、政府軍、警察、フツ族の殺戮者集団、ツチ族の反乱軍の力関係の中で、勇気と知恵をもってホテルにやってきた1200人以上の命を守った実話。

2017/01/15

 今も昔も人間社会では対立が起きてきた。個人の次元では各人が意思と欲望を持ち、民族や国家の次元では帰属意識や誇りを持つ以上、仕方がないことだ。しかし、戦争の愚を人類は歴史を通して学んできており、和解の努力を続けてきた。オバマ大統領が広島を、安部首相が真珠湾を訪問し、「和解」の可能性や力に言及したのは、人類の方向性を示している。

 誤解による対立の場合は、簡単に和解に至ることがある。姉妹が一つしかないミカンをめぐり所有を主張した時、一方が美容のためにミカンの皮を、他方が栄養補給のためにミカンの実を欲しがっていることが分かれば、解決は簡単だ。兵士が武器を持ち対峙する民族的・国家的対立の場合は簡単にいかない。しかし、戦場で殺し合いをしていてもクリスマス停戦があるのを見ても、本当は無益な戦争などしたいと思っていないことが分かる。

 30代の若さで「世界が尊敬する日本人25人」(ニューズ・ウイーク日本版)に選出された瀬谷ルミ子氏の職業は武装解除だ。アフガニスタンなどの世界各地の紛争地帯に出向き、兵士を除隊させ武器を回収する。しかし、紛争地に兵士以外の職業がない場合、除隊させることは職業を奪うことになる。武装解除後の仕事のための職業訓練や生活構築も併せて進めて行く現実的視点が不可欠だ(朝日出版新聞『職業は武装解除』瀬谷ルミ子著)。

 和解交渉は裁判でも行われる。離島に赴任した若い裁判官が奮闘するテレビドラマを見たことがある(『ジャッジ〜島の裁判官奮闘記〜』)。現地調査や資料研究により、とても創造的な和解案を提示する様子が描かれており、裁判官のイメージが一変した。判決と和解の件数の上でも、以前と違い現在では、和解で解決する事件は判決よりも多くなったという(講談社現代新書『和解という知恵』廣田尚久著)。「和解の力」が見直されているのだろう。

 前掲書著者の弁護士廣田氏は、金銭の貸し借りやマンション建設による日照権侵害をめぐるトラブルの解決を任され知恵をめぐらす。そして、「和解」とは「譲歩」や「妥協」で行うものではなく、「規範」を使ってするものだと主張する。日本では「和解学」や「紛争解決学」という学問の歴史は浅く、1990年代に考えられ始めているようだ。瀬谷ルミ子氏も紛争解決学の修士課程で学んだのはイギリスの大学だった。

 20~30年ほど前に核に反対する人々が反核デモをするのを見て、感情の表出だけでは目的は達せられないだろうと思ったことがある。欧米のように判決で白黒を決するより調停での解決を求めることの多い日本でこそ、精緻な「和解学」が生まれるのではないか。

 廣田氏が言うように、和解で中心的役割を果たすのは言葉だと思う。同氏の「言葉を届け合う幸せ」は含蓄のある素敵な言葉だ。相互に理解していることを伝え合い、知恵を出し合うことは人間の崇高な使命だ。