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2018/01/15

 男女の違いを考えるとき、大きな差のひとつはコミュニケーションのありようだ。女性同士の話し合いでは、大きな声量と情熱で速射砲のように言葉が飛び交う。テーマを決めて始まった話し合いでも、基本的には思いついたことは何でも口にする。私はこのようなやり方は不効率だと思っていた。話し合いの前に、テーマ、目的、終了時のゴールイメージ等について合意してから始めるのが良いと思っていた。しかし、最近はその考え方が変わった。

 話し合いが始まるや、直接・間接に得た情報が短時間のうちに一気に出された方が、男性中心の事業に関する話し合い等でテーマから外れていると思い言わずにいたが、後になって多少テーマからずれたことも含めて考えた方が良いと分かり、再度話し合いを始めるよりも、ずっと効率的と言えることが分かったからだ。

 コミュニケーションのあり方よりも顕著な男女差は生殖器官の差だ。妊娠と出産は女性に課される大きな課題だ。10カ月前後の間、自分の体内で動く新しい命の躍動を感じ、夫や家族、親族、地域の人々の視線を感じつつ、行動を慎重にし、口にする物や環境にも配慮しなければならない。夫にとっても人生の重要事態であることに変わりはないものの、自分の体内に新しい命の存在を感じるわけでもなく、仕事や趣味に没頭しそのことをすっかり忘れることも可能だ。

 社会に男女の区別や性差の意識があるために役割分業も発生するから、男女を分ける制度を失くしてしまおうという考え方のもとに、男女の差異そのものを否定・相対化してしまおうと考えるジェンダーフリー思想の信奉者の中には、妊娠出産における男女差は微々たるものと主張する人がいるが、そんなことはあり得ない。

 「フリーセックスの結果、まちがって子どもができて、こっそり手術をしてもらうのも女だし、経口避妊薬の副作用で病気になるのも女だ。男ばっかりが得をする世界で、恋愛でだけ平等だとおもうのはよほど計算によわいのだ。」(松田道雄著『恋愛なんかやめておけ』)

 小児期の子どもが、心と体の性別が一致しない性同一性障害(性別違和)を抱いても、成人するまでに七~九割は解消するという。性の不一致に苦しむ子供に性別適合手術を受けさせ、その後「そのように思い込んでしまったが誤りだった」と後悔し、戸籍上は元の性に戻せたとしても、生殖の機能を取り戻すことはできない。

 同性婚が合法となり、本人たちはそれでよくても、同性カップルによる育児、つまり父親2人、または母親2人による育児を認めると、そのような特殊な環境を子供自身が選べるわけでもなく、情緒的な問題の発生が報告されているという。

 女性のコミュニケーション能力が男性よりも優れていると言われているが、右脳と左脳をつなぐ脳梁と呼ばれる部分が、女性の方が男性よりも大きいことがその原因らしい。男女の違いは、生理的、物理的な違いを中心において考えるのが賢明なようだ。
「永遠の〇」
 主人公の祖母が亡くなりその夫が深く悲しんでいる。しかし、主人公はその人が本当の祖父ではなく、自分の祖父が別にいたことを知り、ジャーナリストの姉と共に、祖父の人物像を知ろうとする。宮部久蔵という名前の祖父を知る人に会うと、決まって逃げ出す卑怯な人という評価を得るが、それでもさらに深く知ろうとしていく中で、死を恐れることなく自分の利益を超え妻子のために生きて帰ることにこだわっていた人物と知る。しかし、最終的には特攻隊に志願し亡くなっており、どうして志願したのかという疑問に至る。そのときはじめて、祖父と思っていた人が真実を語り始める。

「そして父になる」
 病院で6年前に、看護師の作為により男の子を取り違えられた2組の夫婦が、その事実を病院より知らされ、6歳になった息子が自分たちの息子でないことを知り悩む姿を描く。福山雅治演じるケイタの育ての父はエリートコースを歩んできたので、息子にも努力を厳しく要求するが、相手の気持ちを考えることを学んで、ようやく父親になっていく。

「ゼウスの法廷」
 鹿児島の大家族の中で育った女性中村惠がお見合いで東大法学部卒の裁判官加納と婚約をして一緒に生活をするが、すべてが法律的感性の夫に心が行かず、大学時代の元カレ山岡と再会し肉体関係にまで及ぶ。夫と別れてその元カレとアメリカへ行く話をしようとアパートを訪問すると、山岡は別の女性同伴で帰宅してきた。口論となり重過失により惠は山岡を死に至らせてしまう。その場を去ったものの警察に出頭した。
裁判所は判事の妻の犯罪ということでマスコミや世間の目を恐れる。それならと、加納は自らがこの案件の裁判官になると志願する。

「脳男」
 生まれながら感情や意欲を持つことなく、食事することすら言われなければしないものの、脳の力は異常なほど発達している男(脳男)の数奇な運命の話。爆発現場にいた脳男がとらえられ、その精神鑑定を女医が任される。異常な脳波や心電図から感情が起こるのが異常であることが分かる。女医はあなたはロボットなんかではないと人間性の回復を手助けしようとし、その出自を調べ始める。脳男の父母は交通事故で死に、祖父が世の中に復讐をしようと、感情を表さない孫に、殺人の方法を教えていく。そのようにして正義感あふれる殺人ロボットができたのだった。繊細な心理描写が秀逸な作品だ。

「バベットの晩餐会」
 デンマークの海に面した片田舎に、カトリックの神父と2人の美しい娘がいた。遠方から美しい娘を見にやってくるが、父親は娘たちは自身の両腕だとして嫁がせようとしない。姉には将来将軍になる軍人が思いを寄せ、妹にはパリの歌手が思いを寄せるが父親ゆえに自ら去っていく。年月が経ち、革命がおこったフランスからバベットという女性が革命で行き場を失い、パリの歌手からこの場所を紹介されたとして流れ着き姉妹とともに住み始める。この女性が、宝くじで得た大金をすべて使って、姉妹と村の住人のためにパリ最高級レストランの料理を、過去の料理長の経験を生かしてふるまう。心温まる映画だ。

2017/12/15

 過ぎ行く日々の中で目標を定めて生きていても、うまくいかないことが多い。むしろそれが普通かもしれない。恋愛できても結婚できなかったり、結婚できても子供に恵まれなかったり、子供に恵まれても仕事がうまくいかなかったり、うまくいってもその仕事をやめて始めた事業がうまくいかなかったり、事業がうまくいっていると思っても事業環境が大きく変わって倒産してしまったり、激変する事業環境にうまく適応して会社が存続できても天災によって事業基盤をなくしてしまったり、人生何が起こるか分からず、何かを得ようと思って一所懸命に努力したからといって報われるとは限らない。

 そのときどうするか。いしだあゆみは、「泣くの歩くの死んじゃうの」(あなたならどうする)と、河島英五は「男は酒を飲むのでしょう。女は泪見せるのでしょう」(酒と泪と男と女)と歌った。

 ドストエフスキーは、「心から大切だと思える思い出が一つでもあるならば人は自分の人生を深いところで肯定することができるはずだ」と言い、ナチスの強制収容所に捕虜としてとらえられた経験を持つ『夜と霧』の著者フランクルは、収容所での悲惨な生活の中でも、聖者の如く優しい言葉をかけたり一片のパンを与えたり収容所のバラックの隅で祈りや礼拝をしている人々がいたと記しており、すべてに挫折しても生きる意味を得ることはできるとしている。

 神を信じて生きる者の中には、神は親のように自分を守り導いてくれると感じる人たちがいる。そういう人々の人生は次のエピソードのように常に神とあり、次の詩のように、常に神と人々に感謝する道が開かれている。

「エピソード」
 ある人が神と共に砂浜を歩き砂浜には2人分の足跡があった。ところが、困難に直面したころ通過した砂浜を見ると、足跡はひとり分しかなかった。「神様、あなたは私が困難の中にあるとき、私を置いて離れてしまったのですか」と尋ねたら、神は「その頃は私がおまえをおぶって歩いていたんだよ」と答えたという。

「無名の南軍兵士の祈り」
大事をなすための力を与えてほしいと神に願ったのに、従順さを学ぶようにと弱い人になった。
偉大なことができるようにと健康を望んだのに、より善きことができるようにと病弱さを与えられた。
幸せになるために富を求めたのに、賢くなれるようにと貧しさを授かった。
人々の賞賛を得ようとして力を求めたのに、神の必要を感じるようにと弱さを授かった。
生活を楽しもうとあらゆるものを求めたのに、あらゆることを喜べるようにと生命だけを授かった。
求めたものは何も与えられなかったが、願ったことはすべてかなった。
こんな私なのに、声に出して言わなかった祈りもすべてかなえられ、私は誰よりも豊かな神の祝福を受けた。
「それでも夜は明ける」
 19世紀中ごろのアメリカの、まだ奴隷制度があった頃の話。制度的には自由な黒人がいたものの、陰謀により売られていった先で奴隷として働くことを余儀なくさせられていた。主人公は、カナダ人の協力を得、自分の身分を明確にすることで解放される。

「素晴らしき哉、人生」
 1946年作のアメリカ映画。ジョージは心優しく優秀な青年。弟が9歳の時に池に落ちた時も助け出し、幼いころ薬屋でアルバイトしていた時に経営者が間違えて劇薬を処方していたことを知りそれを教えてあげ顧客の一命をとりとめた。
 親の作った会社再建のために跡を継ぐが、叔父のミスで不正経理の罪に問われそうになり、妻子に八つ当たりをして、自殺しようとする。そこに、天空から派遣された天使が現れ、自ら海に飛び込みジョージに救出させることでジョージを精神的に助ける。自分なんか生まれてこなかった方がよかったというジョージの発言で、天使はジョージが生まれなかった世界を再現させる。ジョージの弟が9歳で亡くなり、薬屋の経営者は罪に問われて刑務所に入り、母親さえ自分を知らないという。家族が住んでいる家に行ってもここは20年前から廃屋と言われ、独身の妻に会っても痴漢呼ばわりされる。自分が存在してきたことにより、世界が変わっていることを知り、自分の存在価値に気づく。

「ゼロ・ダーク・サーティ」
 2000年9月11日のアメリカの飛行機テロの犯人ウサマビンラディンの住んでいるところをCIAが探し出し、殺害のために軍用機でパキスタンのペシャーワルに入り、殺害して死体を持ち帰るまでを描く。CIAのマヤという主人公の職員が執念をもって追求していく。

「ダンス・ウイズ・ウルブズ」
 米国軍人として勇敢な行動で武功を上げた主人公ダンバーが、インディアン居住地区の近くに砦を作り、米軍の連絡を待つ。その間に、インディアンのスー族が偵察に来る。お互い相手がどのような人間で何を考えているのかわからない。スー族の格好をした白人女性が大怪我をして泣いているのを見つけ、彼らの居住地に送り届ける。その女性は幼いころ別のインディアンのポーニー族たちに家族を殺され、その後スー族に育てられたのだった。
 スー族の人々は頻繁に彼の元を訪れ、またダンバーも先住民族である彼らに白人文化を伝えようと試みることで徐々に互いの友好を深めていった。スー族が知りたい情報は、食用とするバッファローの大群が通過するのがいつか、白人はどれくらいやってくるのかだった。バッファロー通過の報をいち早くスー族に知らせたダンバーは英雄扱いされるようになった。スー族の聖人と見なされている「蹴る鳥」や「風になびく髪」と呼ばれる2人の男も、「拳を握って立つ女」と呼ばれる白人女性や「笑う顔」と呼ばれる女性も、スー族は皆このような名前で呼び合っていることを知る。ダンバーは砦でトゥー・ソックスと名付けた狼がダンバーと戯れていたところをスー族の男に目撃されたことから、部族民同様に「シュンカマニトゥタンカ・オブワチ(「狼と踊る男」)」というインディアン名をもらい、これまでの自分の名前に意味がなかった、これが本当の自分の名前なのではないかと感じる。異民族の共存を考えるとても貴重な映画だ。

2017/11/15

 「国際交流フェスティバル2017」が11月12日に富山駅とCiCビルで開催され参加した。

 富山駅一階の自由通路と2階の多目的デッキには、各国紹介ブースがあり、主催者が作成した「お礼のことばコレクション いろんな国のありがとう」という用紙を渡された。そこには「『ありがとう』ってなんていうの?」「ことば」「くに」を国ごとに順番に記載できるようになっており、30カ国を駆け足で回った。

 韓国は「カムサハミダ」の「カムサ」は「感謝」のハングル読み。中国の「シエシエ」(謝謝)」も同じ。さすが漢字文化圏で同根だ。オランダの「ベダンクトゥ」はドイツ語の「ダンケ」から来ており、ノルエゥーの「ツーセンタック」の「ツーセン」は「サウザンド(千)」のことで、一回の「タック」(感謝)だけでは足らず千回も感謝しているという言い方が慣例のようだ。ハンガリーのモニカさんが「けせねむ」とひらがなで読み方を併記してくれたのは、「KOSZONOM(3つのOにはウムラウトがつく)」。モルドバの「ムルツーメースク」を教えてくれたのは、私の事務所に来訪歴のある会社社長で、久しぶりとあいさつをした。アルバニアの「ファレミンデリット」を教えてくれたのは、アルバニア人の姉と弟だった。

 マレーシアのマレー語もインドネシア語も「テリマカシ」と同一だ。タイのタイ語「コープンクラプ」とカンボジアのクメール語「オークン」は文字の形が似ている。3年ほど前にタイ訪問を前にしてタイ語学習に挑戦したが文字に馴染めず断念したことを思い出した。ミャンマーの「ジェイズーデンバデー」の文字も丸っこいところがタイ語やクメール語に似ている。ベトナム語の「タンオン」は短く分かりやすい。ネパール語の「タンネバード」は英語のアルファベットで、モンゴリアンの「バヤララ」はア段の字だけで温かさを感じる。

 インドのベンガル語「ナマステー」を教えてくれたのは以前にも国際交流フェスティバルで会ったセンさんだった。パキスタンのブースで、唯一知っているウルドゥー語「アッサラームアライクム」(こんにちは)と声を掛けたら、良くご存知ですねと驚いてくれ、「シュクリア」を教えてくれた。エジプトのアラビア語「シュクラン」とよく似ている。ウルドゥー語もアラビア語もアラビア文字を使用している。

 イギリスは、オーストラリア、トリニダードトバゴ、ジャマイカ同様、もちろん「サンキュー」だが、イギリスはイングランドでなくUKであると初めて知った。ベナンはフランス同様フランス語の「メルシー」とフォン語の「アバイバオウ」。カナダは「サンキュー」と「メルシー」を使う。ブルキナファソはモレ語「バルカ」、ガーナはアカン語「ミダーシ」、ブラジルはポルトガル語「オブリガード」で、パラグアイはスペイン語の「グラシアス」だ。2時間で世界一周を満喫できて、「ありがとう」(日本語)。

 前号までは、分野ごとに紹介したが、一年前から鑑賞した映画は鑑賞の時系列で紹介する。

「イミテーション・ゲーム」
 コンピューターの理論の礎を作りながらも、同性愛者として罰せられ研究環境を持つことができなくて41歳で亡くなったチューリングの生涯を描いている。イギリスは半世紀後に特赦しその功績をたたえた。

「グッド・ライ~いちばん優しい嘘」
 南スーダンに住むマメデールと妹と他の兄弟は、兵士が村を襲い両親が殺され、エチオピアに歩いて向かい、その後ケニアに向かって歩き続け、カクマ難民キャンプにたどり着く。その途中で、マメデールの兄は兵士に注意を向けさせ兄弟を助け、弟のダニエルは病気で死ぬ。カクマ難民キャンプでアメリカへ行ける日を待、ついにアメリカに渡った。
 ケニアで自分たちを探している男性がいるとの情報を得て、もしかしたら自分を助けてくれた兄ではないかと思い、マメデールは難民キャンプへ行く。そこで兄と再会するものの、兄のアメリカ行きのビザを取得できない。兄にはビザが下りたと報告し、出国手続き直前で真実を話し、「自分は兄さんからもらった命なのだから自分のパスポートとビザで出国してほしい。自分は難民キャンプで医師として働くから」と「良い嘘」をつこうと言う。兄はアメリカに渡り、兄弟たちと喜びの再会をする。アフリカの人々の純情さに心動かされる感動的な映画だ。

「わたしを離さないで」
 臓器提供目的で人間のコピーを作ったが、その人間には通常の人間と全く同じ肉身と精神作用を持っている。そのようなコピー人間だけが集められ共同生活をするヘルシャム学校の3人の同期の男女が主人公のフィクション。昨年日本でテレビドラマとして放映された。2017年10月にノーベル文学賞を受賞した石黒一雄氏の作品。

「屋根の上のバイオリン弾き」
 ウクライナに住むユダヤ人一家とその地域の人々との交流を描くミュージカル。牛を飼い乳を売って生計を支える主人公の父親は、何よりも伝統を大切にする。しかし、長女は貧乏な仕立て屋と、二女は共産主義者と、三女はユダヤ教以外の宗教を信じる男性と恋に落ちる。ユダヤ人に対する迫害が始まり住み慣れた家を追われても、彼らはユーモアを忘れず力強く生きていく。

「私に会うまでの1600キロ」
 離婚や母親の死、自らの自暴自棄な生活で負った心の傷を癒すために、主人公のシェリルは数千マイルに及ぶPCT(パシフィック・クレスト・トレイル)をひとりで歩き通すことを決意した。人や自然との出会いごとに、過去の体験を思い出し感情を追体験しながら過去の思いを昇華し整理していく。かと思うと過酷な現実にも直面する。それらすべての過程を通してシェリルは大きく成長していく。

「やさしい本泥棒」
 ベストセラー小説の映画化。第二次世界大戦時のドイツが舞台で、ユダヤ人と分かれば連れていかれるヒトラー君臨する時代。主人公リーゼルは母親に連れられ養父母のもとへ連れていかれる。養父ハンスはリーゼルが文字を読めない子であることを知ると、リーゼルが盗み持っていた本を読み聞かせてあげて文字を教える。本の力、言葉の力を実感する作品だ。

2017/07/15

 平成12年から成年後見制度が始まった。被後見人の判断能力がすでに不十分になってから用いられる法定後見制度よりも、判断能力がまだ十分あるうちに将来の後見人との間で契約を結ぶ任意後見制度の方が、利用者の意思が反映されやすい制度と言えるだろう。

 任意後見契約で被後見人の療養看護と財産管理を任された任意後見人が実際にこれらの業務を開始するのは、被後見人の判断能力が低下したとされ、裁判所が後見人を監督する監督人を選任してからだ。後見人は被後見人から信頼されて財産管理等を任されるが、いつ魔がさして被後見人の財産を自己のために用いるか分からない。それで、後見人の業務を監督人が監督し裁判所に報告することで、被後見人の財産が正しく用いられるようにする。

 外国人の技能実習制度にも似たようなところがある。我が国の進んだ技術・知識を学んでもらい、修了後は母国の経済発展に尽力するという趣旨から離れ、人手不足を補う安価な労働力の確保のために用いられてきた経緯があるからと思われるが、本年11月より、外国人技能実習機構という新しい機構が作られ、極めて厳しい運用が開始されようとしている。

 協同組合が複数の組合員企業の依頼を受け窓口となり外国人技能実習生を呼び寄せ、実習実施機関で技能実習を行う場合、協同組合が実習実施機関を定期的に訪問し、当初計画した計画通りに実習がなされているかどうかや技能実習生の法的権利が侵害されていないかを監査する。しかし必ずしもすべての協同組合が適切な監査をしているとは限らず、協同組合の監査業務を監査する外部監査人を置くことが義務付けられることとなる。

 後見人を監督する監督人を置いたり、監査人を監査する外部監査人を置くということは、どんな人間や組織でも厳しくチェックされなければ安易な方に傾いたり魔がさしたりするという、現実を冷静に直視した現実志向の考え方に立脚している。このことにより、制度趣旨が担保されやすくなる。反面、共産圏国家の監視社会のような窮屈な社会になってしまわないだろうか。

 別のアプローチがあってしかるべきであり、それは人間の道徳性や倫理性を向上させることにより問題を解決していこうという理想主義的な志向だ。役人の仕事は現実志向でなければならずそれでいっこうにかまわないが、教育者や思想家、宗教家、又は家庭における親は市民や家族の心を開発し道徳性を高めなければならない。戦前は教育現場で教育勅語を生徒は覚え暗誦し、人として生きる道を学んだ。

 現実志向に則り制度運用を厳しくしても、道徳観が低ければ法の抜け道を捜そうとするだろう。また監督人や監査人ばかりの社会は面白みに欠ける。それよりは、「70にして己の欲するところに従えども矩を超えず」を理想とする社会に住みたいものだ。
「十二人の怒れる男たち」
 アメリカにおける陪審員たちの協議の様子を描く。真実を求めることと法の精神(疑わしきは罰せず)に忠実であろうとする人(主人公、建築士)、自分の趣味を最優先にはやく終了してしまいたい人(ブローカー)、自分の放蕩息子に犯人を重ね合わせて有罪にしたいと最初から考えている人(経営者)、スラム街に住む人はろくな者がいないと先入観を持っている人(経営者)、人間洞察と共感力に富む老人など個性が描かれていて興味深い。日本の裁判員制度は多数決で評決するが、陪審員制度は完全一致にならないと終了しないので、話し合いが必要になる。

「父の祈りを」
 アイルランドとイギリスの対立を背景に、冤罪で無期懲役を食らった父子が闘う過程を描いたもの。女性弁護士がとても素晴らしい。

「告発」
 1995年に公開されたアメリカ映画。 アルカトラズ島にあったアルカトラズ連邦刑務所で行われていた過剰な虐待を告発し、1960年代に同刑務所を閉鎖に追い込んだ実話を基にして製作された映画。

「ディアブラザー」
 アメリカでは冤罪が過去10年間で250件も発生しているそうだ。この映画も冤罪で男性が20年間投獄されていた実話をもとに作られた。
 幼いころから兄と大の仲良しだった妹が兄の無罪を信じ、夫と二人の子を持ちながら高校卒業から始め、大学入学、そして弁護士の試験に合格し弁護士として兄の無実を証明していく。長い年月がかかったので、証拠が捨てられているかもしれない状況の中、それを発見し、支援団体の支援を取り付け、兄の娘にも父の無実を伝える感動的な映画。妹はこのためにだけ弁護士となり、それ以降弁護士活動はしていないという。

「真実の行方」
 リチャードギアが演じる弁護士は、大司教殺害の容疑者の弁護を無償で買って出る。容疑者の素朴な表情に無罪を信じ調査する中で、大司教と容疑者やその女友達との間で行われたセックスプレイのビデオを発見する。それが端緒となって、容疑者の二重人格が殺害を引き起こしたとなり、刑場ではなく病院送りとなり、弁護は成功したかにみえた。しかし、実は容疑者の人格は残虐な方の人格で統一され、素朴な人格は作り出されたものだった。

「リーガル マインド」
 アルコール中毒で治療中の女性弁護士が、社会貢献活動として殺人犯の女性の弁護を引き受けることとなる。涙ながらに語る殺人犯の言葉を信じて調査を進めていくうちに、警察が証拠の改ざんや隠匿をし、検察もそれを知りながら起訴して仮釈放のない終身刑犯を作りあげたことを知った。資料を集め、また裁判官も犯人の人権を守ることが専門の人であったことも味方して、法廷で冤罪であることを証明し無罪放免となった。しかし、その事件にかかわる別の女性の話を聞くうちに、無罪放免となった女性が実は犯人であることを知り、一転していったんは無罪とした女性を有罪にするために法廷活動をする。仲間から、「あなたが立派である理由は勝訴の率が高いことではない、別のことだ」と言われ考え続けるが、あきらめないでやり続けることだと思うようになる。

2017/06/15

 小さい子にことばを教える時に、自動車のことを「ブーブー」と言ったり、祖父母のことを「ジージ、バーバ」と言ったりすることをよく見る。子どもにとって覚えやすいようにという配慮があってのことと思うが、子供にとれば日本語を覚えるのに二度手間になる。幼児語でなく最初から正しい日本語を教える方が良いと思う。

 大人は幼児や子供の精神程度が低く幼稚だと勝手に思い、幼児が通う園を幼稚園と名付けたりするものの、幼児や子供が幼稚とは限らない。むしろ、一人前であるとして、大人がするのと同じような体験をさせることもあった方が、早く成長できるのはないだろうか。

 オランダのある市では、政治教育の一環として、11~12歳の子どもたちが、初等学校から「選挙」で選ばれた「議員」として、本物の市議会会議場で現職の市長が議長となり自校の政策を決めているという。歌やダンスなどでの若い優れた才能を発掘するための「タレントショー」、市内の歴史を学ぶクイズを組み込んだ「タイムマシン計画」、自然体験を疑似体験できるスマートフォン向け「アプリの開発」、ゲームを通じた「お年寄りとの交流」等が提案される。1回目の投票でいずれも過半数を取れないときは、政策の良さを訴えたり質問し合い、多数派工作もして「タレントショー」が過半数を得て成立したという(読売新聞、平成27年12月26日)。 

 私は、富山に家族で住むバングラデシュ、パキスタン、ガーナの人々四十名ほどが集う会合に参加したところ、5歳から12歳くらいまでの男女が英語で「ディベート」するのを見た。「将来成功する上で教育は必要か」というテーマで、賛成意見の人と反対意見の人が順に発表するだけで、対立点を明確にして議論するところまでは至らなかったものの、皆母国語でもない英語を駆使して発表していた。最多得点を取ったパキスタンの女生徒の発表は、大人も顔負けするような立派な内容を流ちょうな英語で話しており、感銘を受けた。

 保育園を経営する横峯吉文氏が唱える教育法も素晴らしい。親は子供に教え諭してどうにかしようとする教育が一番良くなく、子供が成長する原動力である意欲・やる気・好奇心を大切にして、「教えない。子供が求めるようにわれわれが課題を準備する。その子に合った課題、その子にとってできることを与える。教えて育てるのではなく環境で育てていく」ことが大切だという。

 子供は親の言うことには従わないが、親のしていることは真似る。親や周囲の大人やテレビ等に出演する人がしていることを自分もしてみたいと思う。目を離すことなく、かといっておもねたり押し付けたりせず、模範を示し環境を準備することにより天賦の才能が引き出され有為な人材になるのではなかろうか。
「ベンハー」
 ジュダはユダヤ人でローマ人の父を持つメッサラとは親友で家族付き合いをしている。父の兄弟の娘エスターとの婚約も終えた。メッサラは司令官として出世し、ローマ皇帝を護衛する役を持ち、ジュダの家の前を通ったが、ジュダは事故でローマ皇帝を傷つけてしまった。メッサラは責任を問われ、ジュダをガレー船送りに、ジュダの母と妹は絞首刑にされることとなった。ジュダが漕ぐガレー船にアリウス提督が乗った時、海賊船に襲われ、提督と自分と二人だけが助かる。これが縁でジュダは提督の跡取りとなり、ローマの市民権と財産を得る。そして憎きメッサラに復讐することを考える。(上巻)
 故郷エルサレムに戻ったジュダはかつて自分と家族が住んでいた家を手に入れた。エスターにも会うが最初は自分を信頼してくれない。エスターはイエスキリストの教えを学び、人を許すことの大切さを知っていた。ジュダの母親と妹に偶然出会い、生きていたが死の病にかかっているのを見る。
 メッサラと、四頭立ての馬車での死をもかけた競争をすることとなる。ジュダはユダヤの民の代表として参加し優勝するが、メッサラは瀕死の重傷を負う。メッサラはジュダに母と妹が生きていることを告げ、ジュダに会うことを熱望するが、ジュダは会いに行こうとしない。次第にエスターの感化を受け、自分も許されていたことに思い至る。メッサラに会いに行く途中に、十字架を背負い歩くイエスキリストを助ける。(下巻)。

「コロンビアーナ」
 コロンビアは花と殺し屋の国。父母を殺害された少女はおじさんに会いにアメリカへ行き、殺し屋になることを望む。愛と平和を望みながらも、父母の復讐のため、犯人をおびき寄せようと、殺人現場にカトレアの花を残しておく。恋人がたまたま撮影した写真がFBIに流れ、殺人現場の人物と照合一致し家に踏み込まれるが、父母のかたきを取りに行く。

「名もなきアフリカの地で」
 ナチスの迫害から逃れたユダヤ人一家がアフリカのケニアでたくましく生き抜き、ドイツに戻るまでの様子を描く、心温まる映画だ。夫婦は愛し合いながらも自分の主張を通していく。最初アフリカが嫌いだった妻は次第に心惹かれていく。娘は最初からアフリカの人々になじみながら、その風習を受け入れていく。ドイツに敵対するイギリス人が通う学校で学ぶが、ユダヤ人はわずかで差別的な扱いもあるようだが、その中でたくましく生きていくようすが、アフリカの素朴な人々との交流の中で美しく描かれている。世界を肌で体験する娘の将来がとても興味深い。自己の有用感をアフリカでは感じられない夫は、ドイツでの判事の職を得る。帰国に当たり、家族が殺されたドイツに帰ることの怖さを感じながらも生まれ育った故国に惹かれていく。

「アレキサンダー」
 ヨーロッパからインドにまたがる大帝国を築いた王様の話。マケドニアの王様である父は妻以外の女性を愛し、自分を愛し教育する半面、憎む妻の子ということで簡単には後継者にしない。ペルシャと闘って勝利しバビロンを手中に収めるが、現地部族の娘を王妃とする。この頃までは、魅力的な若王で、異文化を下に見る臣下に反発し東洋の古くからの文化に敬意を払う姿が美しい。さらに東へと遠征しインドに至り南下を試みる。結局傷つき敗退しバビロンに戻るが、毒殺される。毒殺した元臣下が周囲の者に書きとらせるという形で映画は進む。壮大で素晴らしい映画だ。

2017/05/15

 仕事柄、日本で単身で、あるいは夫婦で在留する外国人の方が、母国にいる子供を呼び寄せるための在留資格制度上の手続きをすることがよくある。

 母国で高校まで卒業しその後本人の意思で来日を決めた場合と異なり、親の意思や都合で呼ぶ場合は、母国でどの程度母語を習得しているかに配慮する必要がある。来日後、日本語で授業が行われる通常の学校に通うことが多いが、親の日本語能力が低い場合、学校で日本語で学んだことや、同級生と日本語で会話したことに関する疑問点や感じたことを親に理解してもらえずストレスがたまったり、感受性や理解能力の形成に支障をきたすこともあるようだ。周囲は日本語を話す人が多く自分の母語が少数派だと、自分の母語や母語を話す両親を大切に思う気持ちが阻害されることもある。

 脳の専門家は、母国語を子供の母語にしようとするなら、3歳までは他の言語と混ぜずにしっかり母語を伝えた方がよく、8歳の誕生日(言語脳の臨界期)までには母語の能力を仕上げておくことが大切だと言う(黒川伊保子著『日本語はなぜ美しいのか』集英社新書)。

 親の都合で来日した外国籍の子どもは、日本人の同級生となじみ生活上の日本語を修得するのに通常は1~2年かかる。しかし、生活上の日本語を話しているからといって、日本人の子どもと同じように日本語で学習できるようになったわけではない。通常は、学習言語能力の獲得には5~7年(~10年)年かかるとされている。

 言語少数派の子どもの言語能力は、場面依存度(ものを指す、目を使う、うなずく、ジェスチャーなどをどれだけ利用できるか)が低く、認知力必要度(要求される認知的負担の程度)が高い場面でも高めなければならず、学校の授業の前に母語による先行学習を準備する教育ボランティの方々たちの負担はとても大きい。

 私を含めほとんどの日本人は、日本語を話す両親に育てられ、日本語が通じる学校で学習する。日本国内のあたりまえの風景だが、子どもの言語能力をはじめとした多くの能力を高め、アイデンティティを形成するための母語能力の獲得という面からみると、極めて質の高い優れた環境であることが分かる。

 明治18年に初代文部大臣に就任した森有礼氏は、英語を国語にすることを提案したようだ。現在も、子どもの能力を高めるべく日本語よりも英語により多く触れさせようとする若い親が多いと聞くが、子どもの脳機能形成と豊かな人生を守るという観点から考えれば、これほど愚かなことはない。

 国際化社会に対応するための英語の早教育が叫ばれているが、12歳以降にしたほうが賢明なようだ。12歳までの子どもの脳はとても忙しく、外国語学習を余儀なくさせられると、脳の人間形成において必要なやるべき仕事の一部を放棄するしかないのだという。
「鑑定士と顔のない依頼人」
 ヒッチコックやガス灯を思わせるような心理劇の名作。主人公は孤児として育てられる中で絵画の真贋を見抜く鑑定士に付き添う機会があり、その技術をマスターし、今では絵画オークションをする重鎮鑑定士となる。しかし、女性との付き合い方が分からず、結婚歴もない。あるとき相続した家の中の骨とう品を売りたいので見に来てほしいという女性からの依頼を受け訪問するが何度もすっぽかされ、そのたび謝罪の連絡が来る。その女性は広場恐怖症という病気で人前に姿を現すことができない。何度もやり取りをし怒りと謝罪が繰り返されるうち、主人公は次第にひかれていき、顔を見せてくれた彼女を愛するようになり、絵画コレクションが収納され誰にも見せたことのない部屋に招き入れるまでに信頼する。しかし、オークションの仕事から帰ると、彼女はおらずコレクションすべてが持ち去られていた。

「ガス燈」
 心理描写が精緻な映画。主人公の女性は結婚することとなった男性と住む場所を考え、結果的に不審な死を遂げたおばさんの家に住むこととなる。しかし、男性が優しかったり冷たかったりすることで心理的に追い詰められていく。しかも、夜になると誰もいない屋根裏から音が聞こえたり、室内のガス燈がうす暗くなった後また明るくなった直後にいつも夫が仕事から帰ってくる。この家での事件に関心を持っていた刑事が男性に不信を抱き、家に乗り込み男性の陰謀を暴く。

「めまい」
 妻殺しで遺産を手に入れようとする男性の策略に乗ってしまう主人公だが、知恵と勇気と真実に対する追求心で道を切り開き、真実を突き止める。最初は仕事で主人公に接していた女性が主人公を愛するようになっていく展開は、「北北西に進路を採れ」(いずれもヒッチコック)と同じだ。

「ダイハード4」
 ハッカーのコンピューター侵入で社会基盤が狂うことを取り上げた報道番組で、ダイハード4が引用されていた。コンピューター制御をハッカーにより乗っ取られる危険性を指摘して相手にされなかった優秀な公務員が、腹いせか自己能力の誇示かのために、ファイヤー・セール(投げ売り)のサーバーテロを試み、交通機関(第1段階)、金融・通信(第2段階)、電気・ガス・水道・原子力(第3段階)を乗っ取ろうとする。彼の狙いは、通信網・交通網を遮断し、インフラも使えないようにして、社会を原始時代に逆戻りさせることだ。ニューヨーク市警のマクレーン警部がそれに立ち向かい、一人のハッカーの力を借りて、その試みを阻止する。もう一度見たい映画だ。

「アナザープラネット」
 人間の良心を見つめた韻文的で秀逸な作品だ。ローラはMITの優秀な女学生。しかし、飲酒運転で一家3人の人生を狂わせた。夫のジョーンは昏睡状態、妻と子は死亡という大事故を起こしたのだ。4年間の刑務所暮らしの後、同級生に溶け込めず清掃の仕事に就く。インターネットで被害男性の住所を見つけ、清掃の無料お試しとして訪問し、清掃をするが、謝罪の時期を失い少しでも幸福にしてあげたい一心で尽くしていく。巷では、地球と同じ様相の惑星に連絡ができ、その惑星への旅行希望者の募集が始まり、ローラは当選する。そのことを伝えにジョーンの所へ行くと、ジョーンは祝ってくれるが行かないでくれと懇願する。ローラは、自分の罪を告白する。怒ったジョーンに追い出されたローラはその惑星が見つかった時から地球とのシンクロが狂ってきていることを知り、ジョーンに宇宙旅行のチケットを譲る。

2017/04/15

 他者が主催する会合に参加することは多くあるが、自分で会を主催することは通常あまりない。準備と覚悟が必要だし、金銭的にも赤字が出るかもしれない。しかし、自分が関心のあるテーマを世にアピールし、人を募ることは刺激的で面白い。参加者から感謝されれば、冥途の土産としては最高だ。

 私は平成15年からこの毎月ニュースを書き始め、7年ほど経過した平成22年に、一般市民に公開講座開設の場を提供している「富山インターネット市民塾」に「自分新聞への挑戦」というテーマで六回シリーズの講座を準備した。新聞や広報誌の作成に個人として取り組んでもなかなか継続できない人が多いことを知っていたので、自分の経験が役に立てないかと思ったからだ。長野県の知り合いが20年以上にわたり家族で発行している家庭新聞を取り寄せたり、県内の銭湯が継続発行している広報誌をいただいたりして準備したが、結局誰からの反応もなく開講には至らなかった。お世話いただいた市民塾事務局の方には申し訳なく残念な反面、ほっとしもした。

 平成24年には知り合い数人を集めて「憲法研究会」を開催した。資料を準備し、輪読と討論をする会だったが、硬いテーマだったせいか参加者が少なくなり自然解散となった。ただ、現憲法のおかしなところが理解できた。第1章「天皇」に続く第2章が「戦争の放棄」となっているが、第9条の文言いかんにかかわらず、本来この章は「安全保障」とすべきだということが分かった。太平洋戦争直後であったとはいえ、あたかも公益テーマの会合で自分の幼少時の心情体験を一方的に吐露するのに似て、世界の中で日本を守る考え方を示さず、一方的な反省の念を述べて、それが世界全体にプラスになるとは思えないと感じた。

 平成25年に一般社団法人ビブリオ国際交流会を設立した。それまで自分が体験した国際交流は、相互の自己紹介と若干の言葉の学習と、料理の紹介ぐらいで、深い精神性までをも理解するための書物(ビブリオ)を通じた交流はなかったので、それを目指して設立した。まずロシア語とアラビア語の講座を開設した。ネイティブ講師をお願いし各言語10回シリーズで臨んだ。しかし、参加者はいずれの言語も1名で、経営的には失敗だった。今後は、今中高生などの間で流行しているビブリオバトル(書評大会)を開催したい。

 平成27年には、事務所近くの飲食店を会場としてお借りし、「英語のことわざ研究会」を作った。日英対照ことわざ集の資料を準備し、ワークショップ形式で、皆で話し合いたい英語のことわざを人気投票で選び、それについて英語で話し合うというものだ。各種シート類を準備し臨んだが、3~4回で終わってしまった。

 試みたことはいずれも開催に至らないか、数回で終わってしまった。成果には至らなくとも、苦楽の思い出と未来への種だけは残った。
「四分間のピアニスト」
 高齢の女性のピアノ教師クリューガーが刑務所内で服役する21歳の女性ハンナの中にピアノの才能を認め、特別に訓練する許可を得た。ハンナは3年前までピアノのコンクールで入賞する実力者だった。ハンナは親から犯され心を病み、素直に訓練を受けることができないが、次第に師弟の間に信頼関係ができていく。コンクール前日にハンナは同室の囚人に障害を負わせ、クリューガーは極秘のうちにハンナを刑務所から出してコンクールに参加させる。警察がコンクール会場に来るが、演奏の4分間だけ待ってほしいとクリューガーは頼みこむ。ハンナの演奏は型破りで、ピアノの鍵盤だけでなく他の部分も打ちならしまさにピアノと格闘しているようで迫力がある。終了後聴衆から万雷の拍手を得る。魂のぶつかり合いに息をのむ映画だ

「敬愛なるベートーベン」
 ベートーベンは神から与えられたメロディーが頭の中に詰まっている。4日後には第9の発表があるが、写譜してくれる人の助けを得る必要がある。アンナボルツという、ベートーベンに心酔する優秀な女性写譜がやってきて、その能力を発揮する。ベートーベンはアンナの中に才能を見出し、2時間ぶっ続けの指揮に自信がなくアンナの助けを得て無事に発表会をこなす。アンナは修道会に起居しながらも橋梁を設計する学生の恋人がいる。ベートーベンはその作品を評価せず彼の作品を公衆の面前で壊す。アンナは激怒するものの、ベートーベンの考えに共鳴してひかれていく。神と対話し本心に忠実なベートーベンの魂と、偽りなきアンナとの関係が素晴らしい。

「レイ」
 レイチャールズの一生を描く迫力ある映画。子どもの頃に盲目になり、母親がひとりで生きていけるようにと厳しく育てる。自作の曲をピアノで弾き語りをする。ときどきの自分の思いを歌に込めるので気持ちがこもっている。ヘロインに犯されながらも演奏を続けるが、発覚し逮捕され施設で克服する。ジョージア州で演奏禁止処分を受けたが、その後名誉回復(ジョージア州が謝罪する)する。彼の瞼の奥にはいつも厳しく優しい愛情豊かな母親と、小さい時に目の前で死んだ弟の姿があった。

「奇跡のシンフォニー」
 孤児の主人公は天から落ちてくる音や街中で耳にする音にすごく敏感だ。施設を抜け出て音に惹かれてさまよいながら、その音楽の才能を認められジュリアード音楽院に入り、数千人の観客を前にオーケストラの指揮をすることになる。父母を探しての歩みが実り、その場に前座でチェロを弾いた母親と母親に惹かれてきた父親が彼の指揮を見ることとなる。

「オペラ座の怪人」
 19世紀後半のパリが舞台。醜く生まれた少年が音楽の才能を活かして、パリオペラ座で思いを寄せる女性の魂に音楽を吹き込んでとりこにしていく。音楽と踊りを主体に美しく展開されるミュージカルダンス。

「サウンドオブミュージック」
 1930年代のオーストリアが舞台。修道院に身を置くマリアは、自然人で好奇心旺盛。7人の子を抱え妻を亡くした大佐の自宅に家庭教師として働き、子どもたちに慕われる。大佐は、婚約者がいながら、マリアの自由な大きな心に惹かれて求婚する。ヒトラーがオーストリアに勢力を伸張し迎合する人が多い中で、大佐は勇気を持って行動する。真実の愛と勇気のミュージカル。

2017/03/15

 現代日本では「経済的に豊かか貧しいか」、「健康か病気か」等の物質的満足における成功、失敗で人生の価値を判断しようとする平板化された価値観が支配的と言えよう。
 マズローの「欲求の五段階説」、つまり人間というものは「生理的欲求」「安全の欲求」「所属の欲求」「承認の欲求」「自己実現の欲求」の順に下位の欲求が満たされてからでないと、より上位の欲求に向かうことができない、という説が、各種資格試験の頻出テーマであることが、そのことを示唆しているように思える。

 一方、強制収容所の中でも、パンと優しい言葉を与え聖者の如くになった人間を目撃した『夜と霧』の著者フランクルは、人間は下位の欲求が満たされていなくても上位の欲求に向かうことはできると考え、学術誌で直接マズローに疑問を突き付けたところ、マズローはあっさりイエスと答えたという(幻冬舎新書『人生を半分あきらめて生きる』諸富祥彦著)。

 日本が長寿社会になる前は死は自然なこととしてもっと身近に感じられていただろう。70歳にもなってよく働けず家族に負担をかけながら立派な歯があることを恥として自ら石に打ち付け、息子に背負われて山に捨てられに行くことを心待ちにするような感性(映画「楢山節考」)は、はるか昔の異国のものであるかのようで、政治家が一言でもそのような悲しくも凛とした精神姿勢を肯定するなら、人権蹂躙として猛攻撃を受けかねない現代日本では、避け得ない死を客観的事実として受け入れた社会制度を作っていくことさえ困難になってしまったのかもしれない。

 渡辺利夫氏は、がん発生の原因となり検診結果が出るまで半病人のような気分にさせるがん検診を強制する厚労省は、浅はかな死生観を日本人に振りまいていはしないか、自省はいつ生まれるのかと警鐘を鳴らし、「私は私自身の人生をまっとうするために生きているはずなのに、病気のことにかかずらわって、短い人生の重要な時間を、これに『侵食』されるというのは『背理』ではないか」(光文社『人間ドックが病気を生む』渡辺利夫著)と喝破する。

 戦後日本は科学主義により実証性や論理性を基礎とした考え方は浸透したが、世界と歴史と自然を観察し感じる神秘性から超越者と自分との関係を深く考えたり、人間の存在理由を思い巡らす「内面の深み」や「魂のミッション」といった、平板化された水平的価値観とは独立な垂直的価値観を失ってしまった。

 物質は二次元や三次元の座標軸によりその存在のありかが規定できるように、霊肉を併せ持つ存在である人間も、物質的満足の水平軸と、希望と絶望を両極端とする意味を示す垂直軸の内に自己を置かなければ、自分が生きる同時代の支配的な価値観に引きずられて生き、自己の尊厳性を自ら捨て去ってしまうことにもなりかねない。