Skip to main content.
*

2012/02/15

 われわれは東日本大震災によって、自然の力は人間の思いをはるかに超えた強力なものであることを思い知らされた。人間の「想定」など一瞬のうちに吹っ飛んでしまうほどだ。

 人間の「想定」活動の限界は自然災害に限ったことではない。日本の年金制度が設計されたのは1960年代だった。1969年の平均寿命は男性69歳、女性74歳だったが、早晩頭打ちになるだろうとの予測で制度設計されたようだ。しかし「想定」以上に平均寿命が延びて(2007年、男性79歳、女性86歳)、支給開始年齢を上げる方向で変更が検討されている。いずれも、リスクマネジメントの観点から、過去の津波の高さ等の状況に予断なく向き合ったり、負担が最大となるような寿命設定の上で対処すべきだった。

 また、日本では人間の存在を、物質の変化と適者生存という環境変化に伴う確率的現象の結果としてしか「想定」していない人が多いので、教育指導要領で、「生命に対する畏敬の念」を説いても、効果はないに違いない。東日本大震災直後に石原東京都知事が「(大震災は)日本人の我欲に対する天罰」とする発言などは、私は深く共感したが、強い反発にあって数日後に撤回せざるを得なかった。

 また、日本国民は、憲法の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という文言に呪縛されて、世の中には悪人などいないかのような「想定」を持っているように思われる。北朝鮮が大韓航空機を撃墜しても日本の航空機は大丈夫だろうと「想定」し、一般の日本人が拉致されたことを知っても、自分と家族だけは大丈夫だろうと「想定」しているように思われる。他国を脅して食料や金銭を出させたり自国の領土を拡張することが、国が生き延びていくための勇気ある手段であると思っていると考えざるを得ない国家指導者が今もいることを忘れてはならない。かつての日本もそうだったのだから現在、他国にそのような指導者がいてもおかしくはない。

 また、人間は死を「想定」せずに生きていることが多い。とりわけ健康な人は今日自分が死ぬことを「想定」しないで生きている。しかし、死と生は隣り合わせであり、今日死ぬかもしれない。若いころから禅に親しみ、昨年10月に死去した米アップルの創業者スティーブ・ジョブズ氏は、「自分もいつかは死ぬ。そのことを思い出すのは、私が人生で重要な選択を迫られ決断を下すときに、最も役立つ方法だった。」と考え、「『もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やろうとしていることを私は本当にやりたいだろうか』。それに対する答が『ノー』の日が何日も続くと、私は何かを変える必要があると思うようになる」という(En-ichi 2011.11)。

 どんなに考えることがいやなことでも、生起する可能性を無視せず直視して「想定外」から「想定内」へと引き寄せるところから、いつわりのない人生を送ることが始まるように思う。
所有の関係から見た株式会社の基本構造

 店主がひとりで経営する駅前のラーメン屋は通常、個人企業です。近所の街角で夫婦が一緒に八百屋を経営していれば、それは通常、共同企業です。会社法の改正によって、株主や取締役がひとりでも株式会社を名乗れるというようになりましたから、上記の個人企業も共同企業も、株式会社として経営することは可能です。しかし、株式会社を設立するには、定款の認証費用や設立登記のための登録免許税等の費用がかかり、運営していくにも法人住民税がかかるので、会社とせずに個人企業として経営している方が一般的です。

 このような企業は「ヒト」と「モノ」との間の単純な所有関係の上に成り立っています。ラーメン店主や八百屋の夫婦という「ヒト」が、ラーメンの麺や具または、店の中の野菜や果物という「モノ」を所有しています。店主が自分の店でラーメンを作って食べようが、夫婦が店に並べてある果物を食べようが、会計上は自家消費として記録に残しておいた方が良いということはあっても、法律上は何も問題は発生しません。

 一方、株式会社として組織されているスーパーマーケット・チェーンも物理的な視点から眺めてみれば、一方には株主という「ヒト」がおり、他方には会社資産という「モノ」があるという点では、個人企業や共同企業と異なるところはありません。しかし、「会社資産」の所有者は「株主」ではなく「会社」です。そして「株主」が所有しているのも「会社資産」ではなく「会社」です。「ヒト」である「株主」と「モノ」である「会社資産」との関係は、法人としての「会社」を中間項とした間接的なものに過ぎません。ですから、自分が株主であるスーパーマーケットのお店の前を通りかかったその株主が、スーパーマーケットの中に陳列してある果物を食べてお金を払わずに立ち去ると、警官が呼ばれて事件となって法律問題が発生します。「株主」は「会社」(具体的には「会社」としての財産的価値を細かい単位に分割した単位である「株式」)を所有していたとしても、陳列してある商品等の「会社資産」を所有しているわけではないからです。

法人の存在理由

 「株主」と「会社資産」の中間に位置する「会社」は、「株主」により所有される客体としては「モノ」ですが、「会社資産」を所有する主体としては「ヒト」です。「ヒト」という場合、「人間」も「ヒト」であり飲食や排せつ等の生理的機能を有し、社会的には権利義務等の主体ともなりますが、「法人」という「ヒト」は「人間」のような生理的機能は有しないものの、社会の中で権利義務の主体としてふるまいますので、「会社資産」を所有する主体となりうるわけです。

 もしもこの「法人」という制度がなければ、株主の数がどんなに多くなっても、夫婦が共同で所有する八百屋と同じように、複数の株主による共同企業となります。すると、共同所有者の誰かが病気や老齢で手を引いたり、あるいは死亡すると、原則的にはそれまでの契約は無効になり、新たに契約書を書き直さなければならなくなります。それは共同企業にも、外部の契約相手にも多大な費用と労力がかかる事態です。このような事態を避け、共同企業が外部の個人や企業と結ぶ契約関係を簡素化するために導入されたのが「法人」であるわけです。

 「法人」とは、個人と個人との間の契約によって作られた単なる「私的」な存在ではなく、社会的に承認されるようにと国家が法律によって制度化したものです。そういう意味では「会社は社会の公器」と言われるように、「公共的」な存在と言えます。

(岩井克人著、平凡社刊『会社はこれからどうなるのか』を参照しました)

2012/01/15

 動産でも不動産でも、所有者が生きていれば完全な所有権を行使でき管理もできる。その人がなくなると、当然のことながら所有権を失い、管理もできなくなる。死者の財産は死亡と同時に法定相続人により分割未完了の共有状態となるが、とりわけ不動産は共有のままだと使い勝手が悪いので、相続人により分割協議がされ、単独所有とすることが多い。

 相続人同士の仲が良かったり相続財産が多ければ、熾烈な争いとなることは比較的少ないが、相続人同士の仲が悪く、しかも相続財産が少ないと各相続人の生活の事情なども絡んできて、熾烈な争いとなりやすい。相続人が争う姿を子供に見せてしまうと、自分の相続の時に、相続人である子どもたちにそれが引き継がれて、醜い争いの連鎖が起こりかねない。

 それを防ぐ方法は遺言書を書くことである。推定相続人である子供たちから「遺言書を書いてください」と言われたときに「俺に早く死んでほしいと思っているのか」などと言う人は、愛も想像力もない人と言わざるを得ない。遺言書を書くことは、相続による争いを未然に防止し、国力を減退させないための神聖な行為である。

 日本は戦後の民法改正まで家督相続制度により、長子が親の扶養義務や介護、家業の盛りたて等のすべてを引き継ぎ、家長となる長子の責任は重大だった。この制度によって旧家は温存され、長子以外の子は最初から親の財産をあてにすることなく自分の生活基盤を外に求め、活力ある日本を作ってきた。

 しかし、戦後のGHQの占領政策によって家督相続制度が廃止され、子どもたちが平等に相続する均分相続制度となり、相続争いの種が日本国中に播かれてしまった。この争いを事前に防ぎ国力を維持するために遺言書を書くことが有効であることを政府は宣伝すべきであるのに怠ってきた結果、家庭裁判所に持ち込まれる相続をめぐる争いは年々増えている。

 遺言書に書く内容は、単に財産の分配についてだけではない。遺言書の後段の「付言」で、前段で示したように財産を分配した理由を記載すれば、付言を読むことで、残された者全体を考えて分配したのだと理解し、自分に不利な点があっても受け入れるようになる。

 相続人による遺産分割協議の結果が遺言の内容と異なっていれば、一部を除いて協議の結果の方が優先する。また、遺留分を侵害した遺言だと侵害された相続人の反発を招きやすい。妻子がありながら、全額愛人に遺贈する旨の遺言がそのまま実行されると、妻子が路頭に迷うことも起こるので、相続の発生があったことを知ってから1年以内であれば、法定相続分の半分は取り戻すことができる。

 人は生まれれば必ず死ぬ。生きている間に持つこととなった財産を、死ぬ前に誰の所有にするかを明確にして、死後に争いが起こらないようにするのは、人としての義務であり、愛の表現でもある。
 財務諸表は、会社が自分で作成するものです。会社がうその内容を財務諸表に記載すると、会社に対する信頼性が薄れ、出資する人がいなくなってしまいます。それで、会社とは独立した第三者的立場の公認会計士が、その財務諸表をチェックして、その内容が会計のルール通りに記載されていることを保証します。このことを「会計監査」と言います。日本全国には多くの会社がありますが、そのすべての会社について会計士が財務諸表のチェックを行うことは不可能です。それで、法律で、ある程度の規模以上の会社については、会計士が財務諸表の監査をするきまりになっています。大きな会社が財務諸表でうその情報を報告すると、社会的な影響が大きいからです。

売上債権回転期間と棚卸資産回転期間

 会計士はポイントを絞って調べます。
 ひとつは、「売上債権の資産性」です。「売上債権」とは、会社の営業取引から生じた債権のことで、勘定科目では「受取手形」と「売掛金」のことです。具体的には、存在しない売掛金が計上していないかとか、本当にその金額が将来入金されるのか、というようなところを見ます。

 通常は、3期分の貸借対照表と損益計算書から、3期分の「売上債権回転期間」を計算します。売上債権回転期間とは、年間の売上高を12で割った1カ月当たりの売上高で、売掛金と受取手形の合計額を割って算定した数値のことです。売上債権が何カ月分の売上高に相当しているかを見るもので、回転期間が長ければ長期にわたって売掛金が回収されずに滞留していることを示します。3期分を調べるのは、3期分を比較して何か異常がないかどうかを調べるためです。異常と感じられる時期があるときは、「売掛金の年齢表」(売掛金の残高について、得意先ごと、売掛金の発生時期ごとに、発生後何カ月経過しているかを表す資料)をもとに、危ない取引先を特定します。売上債権を相手先ごとに調べて、表示されている金額通り将来ちゃんと回収されるかどうかを判断します。その結果、回収されない金額だけ減額してしまいます。債権回収ができないことを貸倒れと言いますが、たとえ貸倒れが確定していなくても、将来貸し倒れる可能性が高いと思った場合には、会社の実態を表すために、その事実を財務諸表に反映させなくてはなりません。

 もうひとつのポイントは、「棚卸資産の回転期間」です。製品や商品のうち販売した金額は「売上原価」という費用の科目として損益計算書に表示され、販売されずに期末に残っている金額は「棚卸資産」として貸借対照表に表示されます。実際以上に利益を大きく見せたいときには、商品が売れれば、その分だけ「棚卸資産」という「資産」から「売上原価」という「費用」に転換しなければならないのに、それをしないで在庫の水増しをするという手法が使われます。それで、売上債権の回転期間と同じように、「棚卸資産の回転期間」(1カ月当たりの売上高で、棚卸資産の合計額を割って算定した数値)を求め、同業他社や過去の推移と比較したりして異常がないかを見ます。

減価償却と減損会計

 「減価償却」とは、有形固定資産の原価を、将来の収益に対応させて、各会計年度に配分していく計算手続のことで、その費用のことを「減価償却費」と言います。一方、「減損会計」とは資産として計上されている固定資産の金額を減少させる処理のことを言います。固定資産を全く使わなくなった(遊休資産)場合や、固定資産の市場価格が著しく下落した場合などに、将来もたらす収益が減少したと判断して、損益計算書に「特別損失」として表示しなければなりません。

 利益を大きく見せようとするときには、この減価償却費を計上しなかったり、減損会計が行われていなかったりしますので、調査が必要です。

2011/12/15

 人間は成長過程において、先人がしていることを模倣することで能力を身につけていく。「武道」や「茶道」のような「道」に限らず、人と話すという日常的な事がらにおいても、やり方やタイミングを体感したり認識したりすることで、次第にひとつひとつの動作や発語の意味や重要性を理解するようになる。最終的な目的は、目に見えない心をみがくことであっても、まずは目に見える形から入っていくことが分かりやすく効果的でもある。

 一方、このように形から入っていこうとしても必ずしもうまくいくとは限らないこともある。近代の市民革命は「君主による支配」を否定して法律という形を伴うものを根拠として国政を行う「法治主義」を実現したにもかかわらず、ドイツではヒトラーの登場を許し、人権の甚だしい蹂躙をもたらしてしまった。それは、法治主義という形式を作ったことで安心して、人権の保障に敏感でなかったからではなかろうか。形式さえ作ればそれで良いというものでもないことを、われわれは学ばなければならない。

 ただ、「形を整えることによって自分の心構えをただし、内的価値を高めたい」という明確な動機があれば、形から入ることは大きな成果をもたらしてくれる。

 名著『修身教授録』の著者であり、立腰教育の提唱者である森信三氏も、「人間は心身相即的存在ゆえ、性根を確かなものにしようと思えば、まず躾から押さえてかからねばならぬ」と述べている。

 人間は、子どもを育て、文化を継承し、安らぎを得る場として家庭を作ってきた。単身世帯の増加によって、社会を家庭単位で構成するのではなく個人単位にした方が良いとか、結婚という事がらに行政は関与しない方が良いという意見が聞かれ始めた。夫婦の心が離れてしまっていれば、さっさと別れた方が子どものためにも良いという人もいる。

 しかし、家庭とか夫婦という形は人間が長年かけて最良のものとして作り上げたものであって、簡単になくしてしまうと将来に対する禍根が大きい。とりわけ、心が離れてしまった夫婦でも、子どもの幸福の観点からは離婚せずに維持した方が深刻度は低いというデータが出ている。当の夫婦各員にしても、愛する器を大きくする機会ととらえれば、維持することに積極的な意義を見出すこともできよう。恋愛結婚でも、もともと真の意味で愛があったという保障はないのだし、むしろ愛があるから結婚するというよりも、結婚することで愛を育んでいくと考えた方が当たっている気もする。動機が良ければ、形から入り形を守ることで、忍耐強く寛大な個人と安定した社会が作られるのではなかろうか。
税効果会計(会社の実態を反映するしくみ)

 税効果会計とは、「税務上の法人税等(法人税と住民税と事業税のこと)」を「会計上、計上すべき法人税等」に調整するための会計手法です。

 「税務上の法人税等」である納税予定額は、「益金」と「損金」の差額である「課税所得」に税率を掛けて計算されます。それに対して、「会計上、計上すべき法人税等」である税金費用は、会社の実態を表した「収益」と「費用」の差額である「利益」に税率を掛けて計算されます。「益金・損金」と「収益・費用」は、計上される範囲とタイミングが異なっています。例えば、会計上、問題がある売掛金に対して貸倒引当金を費用として計上することがあります。会社の実態を正しく表すためです。しかし、税金計算上は、貸倒引当金繰入額を、会計上の費用と同じタイミングで計上できないことがあります。税務上は、会社の実態ということとは全く関係なく税法とか国の政策的なことで計上のタイミングが決定されるからです。

 例えば、法人税等の税率を40%と仮定して、会計上は「収益500」と「貸倒引当金繰入額100」を費用として計上したものの、税務上は「貸倒引当金繰入額100」は今期はまだ「損金」として認められずに、「益金500」「損金0」とします。すると会計上は「収益500ー費用100」で「利益400」となるので、財務諸表に計上すべき税金費用は「利益400×税率40%」で「税金費用160」となります。それに対して税務上は、「益金500ー損金0」で「課税所得500」となるので、納税すべき法人税等は「課税所得500×税率40%」で「納税予定額200」となります。このように、「益金・損金」と「収益・費用」とに差異があると、「税務上の法人税等」と「会計上、計上すべき法人税等」とにかい離が生じます。

 税効果会計が導入される前は、「税引前当期純利益400」から、納税予定額である「法人税等160」を差し引いて「当期純利益240」というように表示されていましたが、税効果会計が導入されてからは、「税引前当期純利益400」から「法人税等160」を差し引き、「法人税等のマイナス40」を計上して「当期純利益280」と表示するようになりました。この「法人税等のマイナス」は、損益計算上は「法人税等調整額」という「費用」の科目で表すことになります。

 税効果会計制度導入前は「損金」にならない「費用」は、費用計上しなくても納める法人税等は変わらないうえ、計上しない方が最終的な利益は多くなるので、計上したがらない会社経営者がいましたが、「税務」と「会計」をきちんと線引きするこのような「税効果会計」を導入することで、会計が会社の実態を表しやすくなりました。

国際会計基準(IFRS)

 会計の世界では、会計のルールを世界共通のものに変えるという流れがあります。会計基準をめぐり、アメリカとEUとの間で覇権争いがありましたが、両者が接近し、EUが打ち出したIFRSを日本も結果的には全面適用する方向に舵を切りました。会計ルールを国際共通のものとすることで、企業の財務戦略も国際化され、日本経済にも大きな影響を与える可能性があります。投資家も各国の会社の成績を比較検討し、安心して投資できるようになります。

 このIFRSで財務諸表が変わります。貸借対照表は「財務状態計算書」と、損益計算書は「包括利益計算書」と呼ばれることになります。「財務状態計算書」はさほどではありませんが、「包括利益計算書」は従前の損益計算書と比べ、大きな相違があります。最終的な利益の概念が従来の「純利益」から「包括利益」に変わりました。「包括利益」とは「資産・負債を時価評価した差額(の増減)」を、「純利益」に加えたものです。「時価評価」という概念を強く入れることで、より将来の情報を表すものにしました。

2011/11/15

 何かを学んで知識を増やすとともに、知恵も身につけたい。

 例えば歴史を学ぶ目的は知識を蓄えることではなく、学びから教訓を得て現代に生きる自分の生き方を豊かにする知恵を得ることにあると思う。カレーライスに例えれば、知識とはジャガイモ、人参、玉ねぎのような一つ一つの野菜であり、知恵とはそれらが混在して生み出す絶妙な味のようなものだ。良く煮込んであって野菜の形が見えないからといって、野菜が使われていないのではない。見えないながらも絶妙の味を生み出すのに貢献している。同じように、人はさまざまな学びから知識を得、その過程で気づきを深めることができれば、ひとつひとつの知識は忘れても、智恵を持つに至ることができるのではなかろうか。

 ある会合で、人間の本性は善か悪かが話題になった。博覧強記とあだ名されるA君は、孟子、荀子、ソクラテスやマキャベリ等の言葉を紹介した。しかし、参加者の一人から「君の知識が豊富なのは分かったが、君自身はどう思うの」と尋ねられた時、自分の意見を言えなかった。一方B君は、他者の意見を紹介することはしなかったが、「本性は善だと思う。人は人の心を傷つけたり悪事をすると良心がうずいて苦しむけれど、人の役に立つことや善行をしたからと言って邪心の力が働いて苦しむということは通常ないからだ」と言った。B君の発言が終わるや、知恵がもたらす心地よい沈黙が広がった。

 それでは、知識を得、自分の体験と結び付ける中でそれを知恵とするにはどうしたらよいだろうか。私はフランスの画家のゴーギャンが南太平洋のタヒチで描いた絵のタイトル「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」の質問を常に頭の隅に置きながら生活する中で、天から恵みのように与えられることがあるのではないかと思う。悠久な人間歴史の中に存在する自分という存在の実存的な意味を、宗教的・哲学的に考察することで、共に生きる同時代の人々との間で豊かな人格的交流がしやすくなる。

 私はそのためには、古今東西慕われている聖人の活動をより多面的に考察することが大きな力になると思う。イエスや釈尊の功績は良く論じられるが、彼らは何を悩んでいたのか、彼らがしようとしてできなかったことは何か、彼らがしようとしたことが全部できていれば人間は完全な幸福になれたのか、という点についてあまり論じられていないように思う。

 一方、イエスや釈尊は天に通じていたとすれば、彼らの役割はその時代の課題を解決しようとする「使命」にとどまらず、歴史の初めから存在している「天」の願いに呼応しようとする「天命」と言えよう。「なにごとのおはしますかしらねども かたじけなさに 涙こぼるる」(西行法師)という天の恵みを実感し、さまざまな学びから天の恵みの詳細を知る(知恵)ことができれば、天の願いに自分の命をお返しする(天命)ことができるかもしれない。
 DCF法(Discount Cash Flow Method)は、将来の異なる時点のキャッシュフローの金額を、現在という単一時点での価値(現在価値)へ割り引くことによって、投資機会(設備投資)を評価する方法です。つまり、投資物件の生み出すキャッシュフローの期待値を必要収益率である資本コストで割り引いた現在価値がその投資物件の価値である、という考え方であり、この考え方を応用して、企業を評価するための企業価値を求めることもできます。いずれも、「フリーキャッシュフロー(FCF)」という概念を用います。

「フリーキャッシュフロー」とは

 キャッシュフローのフリーは自由に使えるという意味です。企業の設備投資は本来、営業活動によるキャッシュフローの範囲内におさめるべきであるところから、フリーキャッシュフローは資本投資家に対して分配可能な(自由に使える)キャッシュフローと言い換えることもできます。

 このフリーキャッシュフローには二つの定義があります。
A…「営業キャッシュフロー」ー「投資キャッシュフロー」
B…「営業キャッシュフロー」ー「現事業維持のために必要なキャッシュフロー」

 「投資キャッシュフロー」には、①現事業維持のために必要なキャッシュフロー②未来投資③三か月を超える財務的な投資(定期預金や社債、長期での株式購入など)の三種類が含まれます。

 未来投資や財務的投資は自由に使えるお金、つまりフリーキャッシュフローから行われるべきものであり、それらをも差し引いた残りがフリーキャッシュフローだとみなすAの考え方だと、フリーキャッシュフローは企業の稼ぐ力を表す真の企業の実力値であるにもかかわらず、それを過小評価していることにもなりかねません。しかし、企業外部の人からは「現事業維持のために必要なキャッシュフロー」の額が分かりにくいことと、大多数の企業は未来投資額や三カ月を超える財務的投資の額がそれほど大きくないため、フリキャッシュフローとしてはAが一般的に用いられます。専門家はBを用いることが多いようです。

投資機会の評価法

 DCF法の考え方を用いて、投資機会を評価する具体的な計算方法に正味現在価値法(NPV法))があります。これは、設備投資によって①将来得られるキャッシュフローをすべて現在価値に割り引き②その現在価値を合計し③その合計額から初期投資額を差し引いた値(正味現在価値)がプラスであるとき、その投資代替案を採用するという投資評価基準です。複数の投資代替案があるときは、値がプラスで最も大きな正味現在価値の投資案が採択されます。正味現在価値法は、キャッシュフローの現在価値を考慮している点で優れており、現時点では最も利用価値の高い投資評価基準のひとつと言えます。

企業価値の算定

 DCF法による企業価値の算定には、
A…企業価値を(株式価値+負債価値)として求める方法
B…企業価値を直接求める方法
の二つの方法があります。

 Aの株式価値は、配当金を株主資本の資本コストで除したものとして求めることができ、負債価値は負債利子額を負債利子率で除したものとして求めることができます。

 企業価値を直接求める方法は、企業がその事業から生み出すキャッシュフローの期待値(フリーキャッシュフロー)を事業の必要収益率で割り引くことで企業価値を求めるものです。

2011/10/15

 卒業論文を書いていた大学生の時、指導教官から「太田君、論文の目次ができたら半分できたようなものだよ」と言われたことを覚えている。目次は研究活動の枠組みを示しており、起承転結というパターンで論文を書くにしても、「これまでの研究の調査と問題点」「取り上げる事項とその理由」「実験方法とデータの評価方法」「残された問題」等がおおまかにでもイメージできなければ目次は作れない。指導教官にしてみれば、学生が持ってくる目次を見れば、どこまで分かっているかが分かるわけだ。

 法律を起草する人には透徹した枠組みの構想力が求められる。日本の民法は、国民生活全体を規律する一般法だが、わずか1000条あまりの条文で、さまざまなことが起こる国民の権利義務関係全般の枠組みを提示している。その構想力に敬服する。

 団体の活動をより積極的に行うためにワークショップを行って意見出しを行うことがある。「○○のために何をしたらよいか」というテーマで行う際、まず当初は、参加メンバー同士の話し合いを通して①そもそも自分たちは何を目的として活動しているのだろうか②個別のテーマの活動をしようとするならメンバーの誰に相談したり一緒に活動すればうまくいくのだろうか、ということが分かればOKだ。そのために、目的に対する思いを述べ合って相互理解を深めたり、個別テーマに対し同じ関心を持つ者同士が集まり活動の企画や設計を行う。このようなワークショップは講演会とは異なり、主催者は何度も準備のミーティングを行うのが通例だ。その過程で、ワークショップについてだけではなくその団体の活動の枠組みに対する認識も深まり構想が練られていく。

 限りある自分の人生をいかに行くべきかを考えるときにも、豊かな構想力があれば充実したものとなりやすい。人生には職業を中心とした使命分野と、家族を舞台とした愛の分野があるが、それぞれ何を基盤として枠組みを構想したらよいだろうか。

 職業は、心ひかれたり使命感を持てるものを選ぶことが肝要と思う。愛の分野は真理を知り体得することが大切だ。仏教では「十如是」(「相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等」)という出来事の正しい解明のための枠組みが示されていたり(石原慎太郎著『法華経を生きる』幻冬舎文庫)、キリスト教を基にした思想では、神相(普遍相・個別相)と神性(心情・ロゴス・創造性)という枠組みで、神の子たる人間を規定したりする。どのような宗教や教えであれ、人生の早いうちに何らかの真理に出会えば、自分を客観視し、自分の行動をその真理の基準によって反省し、成長の度合いを自己認識できるのではなかろうか。

 この「毎月ニュース」の号数は今月号から3ケタになった。より高次元で普遍的な世界観に支えられた内容の枠組みになるよう、さまざまな体験を積んで構想力を磨いていきたい。
設備投資型産業と流通業

 企業が事業活動をすれば経費の発生は避けられませんが、経費は固定費と変動費とに分けることができます。固定費とは、売上の増減に関係なく発生する費用です。このかなりの部分を占めるのが「減価償却費」です。減価償却費とは設備の投資など投資時に必要とする資金(いったん「資産」とされている)を、その使用期間に分けて「費用化」していくものです。それに対して変動費とは、売上高に応じて増減する費用です。

 鉄鋼業や電鉄、通信事業を行う企業は多額の設備投資を必要としており、減価償却費等の固定費が多くかかりますが、このような企業は概して変動費率(売上高に占める変動費の割合)が低く、ある一定の売上高を超えるとすごく儲かります。一方、卸売業や伝統的な商社などは、それほど多くの設備投資を必要としませんが、仕入などの変動費が多くかかるため、利鞘も限られています。

損益分岐点分析

 企業のあげる売上高のうち、「売上高と費用が一致する売上高」を損益分岐点売上高と言います。損益分岐点の位置は、「損益分岐点売上高÷実際の売上高」で計算されます。例えば、損益分岐点売上高が80で実際の売上高が100ならば、損益分岐点の位置は80%といいます。これは損益分岐点比率とも呼ばれます。そして「100%から損益分岐点比率を引いたもの」を安全率とか安全余裕率と呼びます。安全率とは「売上がどのくらい減ると赤字になるか」を示しています。

全部原価計算と直接原価計算

 財務会計上、一般に公開されている損益計算書では「売上高」から「売上原価」「販売費及び一般管理費」「営業外損益」「特別損益」などを順に控除していき、最後に「当期純利益」を算出します。この損益計算書を作るやり方のベースになっているのが「全部原価計算」という考え方です。この全部原価計算には大きな欠点があります。

 全部原価計算の損益計算書では、「売上原価」は「製造原価」の中で「売れたもの」だけが売上原価になり、売れ残りは「棚卸資産」つまり在庫として貸借対照表の資産として計上されます。つまり、在庫分のコストは損益計算書には行かずに資産として貸借対照表に保留されるのです。このような計算方法だと、生産量が多くなればなるほど製品1個当たりの固定費が減少して、製品単価も減少するので、大量に作れば作るほど1個当たりの製造原価は下がり、損益計算上の利益は表面的に増えることになります。これでは、短期的に自分の製造部門の業績を上げたい工場長や、会社の利益をかさ上げしたい経営者は、この仕組みを悪用することにもなりかねません。

 この全部原価計算書の欠点を克服するのが「直接原価計算」という考え方です。外部に開示することを目的とした財務会計上の概念ではなく、企業内部でそのパーフォーマンスを把握するために開発された管理会計上の概念です。直接原価計算では、売上高から変動費を引いた額(「限界利益」)から固定費を全額引きます。そして最終的な利益を計算します。このようなやり方をすれば、固定費が資産に計上されませんので、操業度の変化にかかわらず損益が正確に把握できます。

 直接原価計算にはこのような大きなメリットがありますが、社外に開示することを目的とした財務会計では全部原価計算が用いられています。その理由は、財務会計には売上高の計上と費用の計上をできるだけ一致させようとする基本的な考え方があるからです。ですから、モノを製造しても仕入れを行っても、それを一旦すべて「棚卸資産(在庫)」に計上し、それらが売れた時点で費用化するという考え方が、全部原価計算の基本的な考え方なのです。

2011/09/15

 殺人でも痴漢でも冤罪の汚名を着せられて何年も投獄された人の悔しさは察するに余りある。「私はそういう人間ではない」と声を大にして叫びたいと思う。

 日本は戦後、マッカーサーの勧告を受けて、国務大臣松本蒸治を長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を発足させた。しかし、松本案は否定され、戦争放棄等のマッカーサー三原則を盛り込んだ憲法が急いで制定された。それ以来憲法は一度も改正されていない。同じ敗戦国であるドイツは占領下で憲法を制定せず暫定的に基本法を作ったが、そこには「この基本法は、ドイツ国民が自由な決定によって議決した憲法が効力を発する日において、その効力を失う」と規定している。マッカーサーはもしかすると、日本は独立回復後に自主憲法を制定するだろうと考えて、短期間のうちに憲法草案を作ったのかもしれない。「60年以上の長期間改正されることのないものとして作ったわけではない」と、死後の世界で驚いているかもしれない。

 高等宗教の聖人も「そういうつもりはない」と死後の世界で思っているのではないかと思われることがある。

 仏教の教えとされる輪廻思想は、人が何度も転生し、また動物なども含めた生類に生まれ変わるというものだ。私はこの思想になじめずにいた。自分が食したのと同じ種類の動物になるかもしれないというのは、何か気持ちが落ち着かない。亡くなった人しか知りえないことを知っている人がいる以上、生まれ変わりと考えるほかに考えようがないとも言われるが、亡くなった人が死後の世界から協助(情報提供)していると考えられないこともないのではないか。僧侶から牧師になった松岡広和氏によれば、「釈迦は決して人の死後の世界について言及しませんでした。」(『イエスに出会った僧侶――ありのままの仏教入門』いのちのことば社)という。そうであれば、釈迦は死後の世界で「私が輪廻思想を言ったと思われているけれどもそうではないんだ」と思っておられるかもしれない。

 また、イエス・キリストは独身のまま33歳で亡くなった。カソリックでは、神父や修道者は、ただ神に向かいイエスに倣って独身で生きる。そのように人々と教会に奉仕する潔さには敬服する。しかし、植物も動物も雌雄の相互作用によって繁殖し生存を継続しているが、そのような神の被造物である自然の姿からはかけ離れているのではなかろうか。旧約聖書の創世記にも「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(1章28節)、「人が独りでいるのは良くない」(2章18節)とある。「独身でいたのは結婚する前に殺されたからにすぎない。独身を勧めたわけではない」というイエスの声が聞こえてきそうだ。

 人間世界においては、創始者や出発者の思いがそのまま正しく伝わる保証はどこにもない。最初の状況に思いをはせるとともに、こだわりを捨て去ることが、正しい理解につながるのではなかろうか。
企業の安全性

 ある会社の財務諸表を見て、その会社の実力を見抜く場合には、優先順位があります。①安全性②収益性③成長性の順番です。最優先すべきは、短期的に倒産する懸念がないかどうかを見抜くことです。そのためには「流動比率」(流動資産÷流動負債)という指標を使います。流動負債(1年以内に返済義務のある負債)の返済が不能となると即座に倒産の可能性が高まりますので、流動負債をまかなうだけの流動資産があれば(流動比率が100%以上)、まず当面は大丈夫と考えます。ただし、この一般論は、商品を売ってから資金を回収するまでの期間(サイト)と、在庫などを買ってから支払を行うまでの期間が近い卸売業や製造業では当てはまりますが、販売後の資金回収が遅いなどの現金化が遅い会社では、流動比率が120%でも資金繰りがたいへんな会社もあります。

 企業の安全性をより厳格に見ようとするときは「当座比率」(当座資産÷流動負債)を用います。当座資産とは、流動資産の中から棚卸資産のようにすぐには現金化しにくい資産を差し引いたものであり、現預金、有価証券、売掛金及び受取手形から貸倒引当金(倒産等で回収が不能になる可能性が高いものの金額)を引いたものです。当座比率は一般的には90%以上あれば短期的な安全性には問題ないと言われています。

 しかし、貸借対照表などの計算書は、決算から最低でも2ヶ月くらいたってから公表されますので、会社の倒産を左右する当面の資金繰りを考える上では古い情報となることも多くあります。その場合は、手元流動性((現預金+すぐに売れる資産+すぐに借りることのできる与信枠)÷月商)で判断します。手元流動性は月末などで、中堅企業で1.5カ月、中小企業で1.7カ月くらい持っていると安全です。

キャッシュフロー計算書

 企業は発展するのに必要なキャッシュフロー(現金や預金のこと)が得られなくなると、事業が発展できなくなります。さらに現事業を維持するだけのキャッシュフローさえ得られなくなると倒産ということにもなりかねません。

 キャッシュフロー計算書は、2000年3月期から始まった「連結決算制度」の変更時に導入された財務諸表のひとつです。それまでは、貸借対照表、損益計算書の2つが主な財務諸表でしたが、キャッシュフロー計算書の登場で「財務三表」の時代になりました。

 キャッシュフロー計算書は、「営業キャッシュフロー」「投資キャッシュフロー」「財務キャッシュフロー」の3つのセクションに分かれています。
「営業キャッシュフロー」は、企業が通常の営業活動でどれだけのキャッシュフローを得たか、あるいは失ったかを表しています。キャッシュフロー計算書で見ると、「税金等調整前当期純利益」から「資金の支出を伴わない費用」や「営業循環上の資金の動き」を調整して計算します。「資金の支出を伴わない費用」とは減価償却費や資産の評価損のことであり、いずれも費用として計上されますが実際にはお金は出ていかないものです。「営業循環上の資金の動き」とは、売掛金や買掛金、在庫などです。いずれも損益計算書ではとらえることのできない資金の動きです。

 「投資キャッシュフロー」は、企業が投資にどれだけのお金を使ったか、その投資からどれだけのお金を回収したかを表しています。普通は、減価償却費分ぐらいは再投資を行わないと企業は現事業の維持すらおぼつきません。「財務キャッシュフロー」は、財務活動でのキャッシュフローの動きを表します。具体的には、①借入、社債、増資などでの資金調達や資金償還②配当や自社株式買入などの株主還元を表しています。

2011/08/15

 人間が動物と違って素晴らしい文化を創ってきたのは、真・善・美・聖という価値を追求する欲望と、それを実現しようとする欲望が、原動力になっていると思う。

 古今東西の著名な科学者や哲学者は、読んでもよく分からない科学書や哲学書を体系的な一貫性を持って書くのだから、真理探究への情熱には敬服する。しかし、そのように価値追求に熱心だからといって、価値実現に熱心とは限らない。立派な書物を完成させても、そのことを周囲の人の幸福や人類の平和や福祉に結び付ける意欲を欠けば、変人と言われかねない。ある高名な哲学者は、大学で教壇に立ち学生を前に講義をする時間なのに、考えるのに忙しくて何十分も無言で立っていたという話を聞いたことがあるが、価値実現にもっと意欲を持ってほしいと思う。

 一方、あることの価値が最高だと信じて普及に熱心な人は、価値実現欲の旺盛な人と言えよう。24時間そのことを考え、早朝でも深夜でも普及活動に飛び回る価値実現の情熱には敬服する。しかし、そのように価値実現に熱心でも、価値追求欲が弱いと、自分が実現しようとしている価値を全体の中で位置付ける努力がおろそかになり、周囲との調和を欠いて、変人とみなされかねない。例えば、特定の宗教の普及活動に熱心なのは、そのこと自体は良いことでも、他の宗教もやはり同様の目的を持っているのだから、他の宗教を攻撃してまで自分の信じる宗教を普及させようとするのは、偏狭で自分勝手と言われても仕方がない。

 知り合いのМ氏は、両方の欲望のバランスがとれていて素晴らしい。大学時代に専攻科目以外にキリスト教と外国語に関心を抱き、熱心に学んだ。卒業後、米国等で10年以上住んで事業活動を行ったのち日本に戻り、貿易事業をし、その後地元の中小企業に優秀な外国人実習生を紹介する活動をしている。従業員を雇用する企業の経営者であるとともに、牧師として説教もする。貿易事業でロシアに行った時は、ロシアの同業者から酒と女性の提供の申し出を受けても固辞する「変わり者」で有名だったという。海外からやってくるバイヤーにも流暢な英語で、皇室などの日本文化の本質を分かりやすく説明し尊敬を集めている。

 М氏はなぜバランスがとれているのだろうか。海外生活を通して様々な価値観があることを知り、世界全体を包括的に把握するための精度の高い情報を得ようとすることが、価値追求に貪欲に向かわせているのではないか。とともに、キリスト教倫理を生活で体現しつつ企業経営することが、価値実現につながり、高次のレベルで相互補完しているのだと思う。

 創造主たる神は、人々が相互に啓発し合いながら幸福に向かうようにと価値実現欲を与え、向かうべき真・善・美・聖の価値がより高次元の普遍性を備えるようにと価値追求欲を人に埋め込まれたのだとすれば、両方の欲望をバランスさせることが、とても大切と思う。
資金調達

 企業の資金調達の源泉は、企業外部からの資金調達(外部金融)と企業内部からの資金調達(内部金融)に分けることができます。外部金融は、直接金融(株式や社債等の有価証券を発行することにより資本市場から直接資金を調達すること)、間接金融(金融機関等から資金を調達すること)、企業間信用(支払手形や買掛金を発生させることによる資金調達)に分類できます。内部金融は自己金融ともいい、事業活動によって自ら生み出した利益を内部留保することによる調達と、減価償却があります。外部金融のうちの株式発行と内部金融を合わせて自己資本と言い、株式発行以外の直接金融と、間接金融、及び企業間信用を合わせて他人資本と言います。自己資本とは純資産であり、他人資本とは負債のことです。

負債と純資産の調達コスト

 資金調達には当然のことながら、調達コストがかかります。負債の調達コストは「金利」です。負債には借入金や社債等の有利子負債と、買掛金など金利のかからない無利子負債がありますが、有利子負債の金利が調達コストです。無利子負債を含めた負債全体での調達コストは一~二%程度の企業が多いと思われます。

 純資産の調達コストは「配当」と考えてもよいのですが、現在のファイナンス理論では「株式の期待収益率」と考えられています。この値は、CAPMという資本資産価格評価モデルと市場リスクの尺度であるβ(ベータ)係数を用いて算出されます。負債の調達コストよりも、この純資産の調達コストの方がずっと高い値です。

 負債と純資産という複数の資金調達源泉がある場合、調達源泉別のコストの総額が資金調達の総額に占める割合(加重平均資本コスト(WACC))が、その会社の資金調達コスト(資本コスト)となります。

調達コストと利益率の関係

 企業はコストをかけて資金を調達して事業を行うので、その資本コスト以上の利益率を出さなければ意味がありません。WACCは資産をまかなうための資金の調達コストであり、資産を使って得られるべき利益もそれに応じて高くなければなりません。資産を使った利益率は、ROA(総資本営業利益率=営業利益÷総資本)です。このROAがWACCより高くなければなりません。

 WACCと比較する際の利益率としてROE(自己資本利益率=当期純利益÷自己資本)を用いるという考え方もありますが、経営者の経営姿勢という観点からは、ROAの方が良いように思われます。資産をまかなうために負債と純資産で資金調達しているわけですから、経営者はその負債と純資産の双方に対して責任があり、それに見合ったリターンを出す必要があります。それがROAです。ROEと比較するというのは、自己資本つまり純資産にだけ見合ったリターンを出していればよいということであり、負債を提供する社債権者や銀行に失礼な考え方だとも言えます。 

 なお、ROAでは他社比較をする場合、「利益」は「営業利益」でも「経常利益」でも「純利益」でもかまいませんが、ROEに関しては必ず「純利益」です。ROAを計上するときの「利益」を「純利益」とすれば、ROEはROAに(資産÷純資産)、つまり自己資本比率の逆数を乗じた値になります。自己資本比率が高ければ企業の中長期的な安定性に貢献するのですが、ROEが低くなり株価が低迷しがちで買収のターゲットになりやすくなります。ROEを高めようとすれば、負債を増やすなどして自己資本比率を小さくすればよいのですが、負債のこの「てこ」のような役割に注目して、自己資本比率の逆数である(資産÷純資産)を「財務レバレッジ」と言います。

2011/07/15

 私という存在は偶然的なことがらなのか、それとも何らかの前提なり計画があって存在するようになった必然的なことがらなのだろうか。

 例えば、数千年も前に地球に巨大な隕石が偶然に衝突した影響で生態環境が全地球的に一変し、それまで地球の覇者だった恐竜が絶滅して人間の先祖の哺乳類が生き延びた結果、人間が誕生した、という説がある。その説を信じる人にとっては、人間の存在は偶然の存在にすぎないだろう。

 また、形質が突然変異し環境に適応したものが生き残る、というダーウィンの進化論を信じる人にとっては、人間の手足の指が4本でも6本でもなく5本であることは、たまたま五本指のものが生き残ることに適していた結果であり、偶然のできごとと考えるのではなかろうか。

 一方、私が存在していることは必然であるとする考え方もある。

 神が貸してくれた宇宙製造機械には重力や電磁気力の大きさを変えることができるツマミがついていて、そのツマミの調整がきわめて正確なので、われわれはこの宇宙に住んでいるのであって、少しでも狂うとこの宇宙は興味ある何物も生み出さない不毛のものとなる、という「人間原理」という考え方がある。この考え方によれば、「この宇宙があって人間がいるのではない、人間がいるから、いや、人間がこの宇宙を認識するから、この宇宙は『こういう宇宙』になっている」(長沼毅著『宇宙がよろこぶ生命論』ちくまプリマー新書)という。この考え方によれば、あたかも神は人間の存在を前提に宇宙を創造したともとれ、人間は偶然の産物とは対極にある必然の極致となり、特別な存在となる。

 このような形而上学の議論に対しては、興味を抱く人たちがいる半面、何の関心も示さない人も多い。「自分の存在が偶然だろうが必然だろうが、生きている現実を直視して日常の責任を果たし楽しく生きていけばそれで良いではないか」という意見が聞こえてきそうだ。

 ちなみに私は、自分の存在や日々の活動の内実が偶然と考えるよりは、必然と感じて生きる方が、使命感を感じやすく充実した人生を送れるのではないかと思う。

 例えば、何か特定の職業についているとして、いろいろな職業に偶然に出会って、採用条件や雇用環境に自分が適合した職場にたまたま勤めていると考えるよりは、職業とはcalling(「召命」転じて「天職」)、つまりその仕事をすべく神から呼ばれたものであって、自分でしか世界に貢献できない内容があるとして、何らかの必然性を感じながら職責を全うしていこうとする方が、自己の価値を感じられるのではないか。

 人生における偶然を全否定するものではないが、その際も、「『偶然』は自由の徴(しるし)であって、目的がないこととはちがう」(ジョン・ポーキングホーン著『科学者は神を信じられるか』講談社ブルーバックス)ことを肝に銘じておきたい。