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2007/12/15

 世の中には人の心を動かすことに大きな価値や喜びを感じる人が大勢いる。漫才師や落語家には、人を笑わせることに無上の喜びを感じる人が適していると思う。面白い話やほのぼのとした話をして、驚かせたり共感させたりして笑いをとり、笑っている観客の姿に喜びを感じるのである。

 教育の分野においても、「人の心を動かす」つまり「感動させる」ことが大きな効果を生み出す。
予備校の数学講師、桜井進氏は、古今東西の数学者が失敗を繰り返しながら概念や定理の発見に至った軌跡を、映像と音楽を組み合わせた数学ショーとして伝えている。生徒は数式の背後にある人間ドラマに感動し、医学部志望の少人数クラス全員が数学科志望になった年もあるという(読売新聞、平成17年11月16日)。

 感動することで、そのことをもっと知りたくなるうえ、そのようにして得た知識はしっかりと身に付く。そのことはだれしも体験によって知っているのではなかろうか。「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではない」という言葉は、自然・環境教育の分野ではよく知られた言葉であるという。

 学校における道徳の授業においても、感動を通して「誠実」とか「寛容」等の価値の自覚を深めることが大切であるとされている(金井肇著『道徳授業の基本構造理論』明治図書出版)。その点から言えば、安倍内閣の教育再生会議が進めていた小中学校の道徳教育の正式教科化が実現されなったのは残念だ。

 前武蔵野大学教授の杉原誠四郎氏も著書『日本の道徳教育は韓国に学べ』(文化書房博文社)の中で、「たしかに『教育』というものを哲学レベルで考えたときは、道徳教育は不必要であるという見解も成り立つ場面がないではないが、現在の目前の子どもを見て、その健やかな成長を願うならば、このような見解はいささかも成り立たない」と、さらに「道徳は身近なテーマに関する議論ばかりではなく、子どもたちが偉人の逸話を通して、それを将来の生き方の目標とするような感動を得るということがより重要なのである」と主張しておられるが、同感である。

 霊の世界に通じマスコミでも人気の江原啓之氏の主張も、「人生の目的は経験と感動で人格形成をすることである。その内容が死後の世界へと連続していく」と明快で、人格形成における感動の重要性を説いている。

 県内在住のO氏は、学生時代に胸に響く宗教の教えを聴講し深く感動し、人のために生きる人生を送る決意をして、ヘビースモーカーで毎日酒を飲んでいたのに、両方とも欲しくなくなり自然と手にしなくなって30年近くたつという。

 感動によって人生を切り開いていけるような学校教育現場における仕組みの構築が願われるとともに、お互い身近な人同士が感動を与えあって喜びの中で生活していきたいものである。

2007/11/15

 今日の日本に熱心で優秀な官吏がいることを否定するものではないが、長期的・哲学的視点を欠いた施策がよく目につくのも事実である。

 中央教育審議会は「ゆとり教育」が行き詰ったことに関連して、授業時間を減らしすぎたと自己批判し、反省の姿勢を明確に打ち出した。反省点を具体的に示さなければ方針転換の理由が学校現場に伝わらないと判断したのがその理由だという。「過ちを改むるに憚ることなかれ」の諺にあるように、姿勢の明確化を歓迎したい。
 
 同じように、今日の青少年が性のモラルを喪失し軽率な性行為に至ることが多くなった主要原因のひとつが、戦後純潔教育委員会を作って青少年の純潔を守ろうとした当時の文部省の信念が弱く、途中で投げ出したことであることを明確に表明することができれば、新しい対策も考えやすくなるのではなかろうか。

 厚生労働省の医療や福祉に関する一連の施策にも哲学が感じられない。

 人間の生死の問題を、とにかく命があればよいというようなヘレニズム的観点だけからしか見ていないように感じる。文明の興隆は、ヘレニズムと、人間の物質的欲望やヒューマニズムを無条件では良しとしないヘブライズムの両方がバランスよく存在して、初めて成し遂げられることを見失っているとしか思えない。

 拓殖大学の渡辺利夫学長が「老化現象を生活習慣病と称して国民に検診を強要し、死の観念を希釈させて人間が幸福に生きられるとは思えない。むしろその逆が真実なのではないか」(産経新聞「正論」、平成18年12月14日)と述べておられるが、全く同感だ。

 富山市の施策にも哲学が感じられない。

 私は、平成18年に答申された富山市の総合計画を審議する委員会の公募委員として議論に加わった。初めての経験であり熱心な議論がなされるものと期待していた。「アメリカでは、青少年のモラル向上のために街ぐるみで月間の徳目を決めて人格教育運動を推進している市があるようだ。富山市でも検討してはどうか」などと提案したが、実現可能性を検討するという雰囲気はなかった。

 市当局の方であらかじめ基本計画ができていて、委員の意見は部分的な修正や追加に用いられるにすぎないのではないかと想像してしまう。原案自体を委員たちで作り上げるゼロベースから始める手法をとらない限り、新しい風は吹きこめないと感じた。

 私は、行政等の社会の公益を担う部門は、国防と外交を除いて、民と官が協働して推進することを原則にするような、大胆な発想があってもよいと思う。指定管理者制度等、官業の民間への開放は始まったが、企画等行政の最初の段階から、民の息吹と知恵を加味して協働するようにしてはどうか。そうなれば、某代議士が某省を念頭に「忙しいふりをするのに忙しい」と指摘するような現状も改善されるのではなかろうか。

2007/10/15

 世の中の各分野で偉大な業績を残した人は、努力の結果であることは疑いないものの、「天賦の才能」という言葉があるように、神仏や宇宙の力を受けたと考えざるを得ないこともある。

 若くして亡くなったモーツァルトが書いた楽譜には一切の修正の跡がなかったという。そして、一つの音符でもそこになければ、完全な美は失われてしまうと考えていたようだ。作曲する前から完成した曲が頭の中に存在し流れていたということだろうか。

 自閉症の人で作曲をする人の中には、「落ちてくる音符を書きとめれば曲になる」という人がいるという。曲がどこかですでにできていたのだろうか。

 エジソンも「自分は世界の発明王などと言われているが、実際は自分が発明したのではなく、宇宙という大きな存在からメッセージを受け取り、自分なりの記録を取ったにすぎない。つまり、自分自身が自然界からのメッセージの受信機であった」と述べている。
宇宙は、天体の運行が簡単な数式で表すことができるほど美しい。また、宇宙の基本的な物理常数のほとんどが、宇宙誕生の初めから、人間が住むのに適した生活環境を作り出すために、恐るべき精度でもって「微調整」されているのだという。

 人の手による作品も、われわれが住むこの宇宙も、その青写真を描いた人格と知性を兼ね備えた存在がいて、最初からすべて分かっていたと考えると、これらのことは合点がいく。

 ほかならぬ人間自身はどうなのだろうか。

 われわれは学校で進化論を教わってきたので、多くの人は人間とは、単細胞生物だったものが物質次元の組み合わせや変化によって複雑化、高度化して存在するようになったと考えている。

 これに対して、神学にはこれまで進化論に対抗できる説得的な創造論がなかったが、最近では合理的で学術的な説明の伴う創造論も発表されている。

 それによれば、創造主である神の心の中では、まず自分の似姿である人間の設計図を標本として、それを捨象・変形して高等な動物の設計図を描き、さらにその設計図を捨象・変形して低級な動物の設計図を描き、以下順次、前段階の存在の設計図を捨象・変形して高級な植物、低級な植物、天体、鉱物、分子、原子、素粒子の設計図を描いていかれた。そして実際の現象世界の創造に当たっては、それぞれの設計図に従い、まず素粒子を創造し、次に原子を創造し、以下順次、分子、鉱物、天体、植物、動物を創造し、最後に人間を創造されたのだという。

 創造された結果物だけを見れば、あたかも前段階の存在が変化して次の存在になったと見えるけれども、各結果物はそれぞれ独自の設計図に基づいて創造されたというのが真実だというのである。

 人間が神仏に畏敬の念を持ったり、親であると感じたりするのは、そのような人知を超えた存在が最初からすべてご存じだからなのではなかろうか。

2007/09/15

 利息制限法で定める以上の利率で貸金業を行う消費者金融会社は、駅前の一等地に店を出し大きな利益を上げていた。しかし今日では、多くの利用者から過払い金の返還請求を受けている。なかには大勢の利用者から多額の請求を受け、分割払いにしてもらったり、倒産の危機に直面している会社もあるという。

 複数の消費者金融会社から借りて、返済に窮して分割払いにしてもらったり自己破産せざるを得なくなった利用者と同じような立場に、今度は消費者金融会社自身が立っているのである。このような立場の逆転は、数年前には予想できなかったことだろう。

 二千年前にイスラエルの地にいた青年イエスの行動に対する処遇をローマの高官が決め、イエスは十字架への道を余儀なくされ殺害された。当時のユダヤ人たちは、立派なローマの高官の名前が歴史に残ることはあっても、「犯罪者」イエスの名前が歴史に残ることなどありえないと思っていたに違いない。

 しかし事実はそうではなかった。イエスの足跡は、そのベストセラーの言行録である聖書と共に人々に慕われ続け今日に至っている。反面、ローマの高官の名前は歴史に残ることがあるとすれば、聖人を死に追いやった憎むべき者としてであろう。当時のユダヤ人の中でこのことを予想した
人はいるだろうか。

 安倍首相が今月12日に首相を辞職したことに関して「無責任だ、敵前逃亡だ」と手厳しく批判する論者が多い中にあって、私の目にした新聞記事の中では丹羽宇一郎氏(伊藤忠商事会長)だけが安倍首相を評価していた。「トップには、あらゆる批判を承知の上で、誰にも相談せず、『撤退の決断』をしなければならない時がある。首相は猛烈に悩んだ末、最も難しいこの決断したのだろう。…(首相は)自分の命のことなど考えなかったはずだ。…首相は決断ができる腹のある人間だ。」(読売新聞、2007年9月13日)の同氏の見解に私も同感だ。

 政治家の仕事は国民の生活に責任を持つことと、国民に国家の理想やビジョンを提示することだ。このうち、政治家は後者をより重要視した方が、政治家と国民の関係はより幸福なものになると思う。生活上の要求はきりがないのに対して、理想やビジョンを示し政治家がそれを率先垂範していけば、国民は自立を志向し自分で問題を解決しようとするからだ。

 安倍首相は、憲法や教育基本法の改正という国の根幹にかかわる課題を提示することで、国のビジョンや青写真を共に議論する必要性を国民に訴えた。それは構造改革の必要性を訴える以上に重要なことなのではなかろうか。

 日本にとって最も重要なことを勇気を持って声高に主張した功績は正当に評価されてしかるべきだろう。

 失敗から多くを学んで再登板の機会が与えられれば、歴史に名を残す偉大な首相になるのではなかろうか。「人間万事 塞翁が馬」である。

2007/08/15

 2年ほど前のことだが、小学校の女性教師の一風変わった教育方法を巡るクラスの生徒やその父兄、教師たちの変化を描いたシリーズのテレビドラマ「女王の教室」を家族で興味深く見た。

 女性教師真矢は始業のベルと共に教室に現れ、遅刻や宿題を忘れた生徒に便所掃除などの厳しい罰を与える。優しい言葉やねぎらいの言葉は一切無く、笑う事も全くない。生徒は怯え萎縮し先生を変えて欲しいと希望する。

 見方によっては、教師による生徒の虐待とも見える。(実際ドラマの視聴者から番組中止の要請がテレビ局に寄せられたという。)教育委員会に通報が行き、真矢の授業を視察に来る。視察員の判断は、大人社会の暗い部分を過度に教えたり、体罰が行き過ぎという理由でやめさせられることとなる。

 しかし、生徒たちは真矢と対決してきた中で、自分たちが短期間で大きく成長してきたことを自覚し、真矢に続けて教えてほしいと熱望するようになる。過労のため倒れた真矢を介護した教師は、真矢の部屋の中で、生徒たちのデータを丹念に記録した資料や教育に関する膨大な量の書籍を目にして、真矢は生徒の事を真剣に考えている立派な教師であることを悟る。真矢は敢えて生徒の前に立ちはだかる壁となって、早く自分を乗り越えて行くようにと厳しくしている教師だったのだ。

 使命感に燃えて全身全霊を投入する人が、必要な事以外は話さないタイプである場合、周囲の人にはその人の真意が分からず、「悪い人」と見なすことが多い。

で きるなら「良すぎて悪く見える人」の真実の姿を早く知りたいものだ。不要の対立を避けることができるし、その人から早く多くのことを学ぶことができるようになるからだ。

 世の中には強烈な使命感や人類愛から行動し、周囲の理解を得られずに誤解、迫害を受ける人が実際いる。

 1900年に岐阜県で生まれた杉原千畝は、1940年リトアニアの領事館に領事代理として勤務していた時、ヒットラーの迫害から逃れんとするユダヤ人が押しかけてきた。ユダヤ人の命を守るために杉原は日本通過ビザの発給許可を得るために日本の外務省に三度電報を打つが、当時の日本は、日独伊三国同盟への配慮からドイツに敵対する行為は認められなかった。

 杉原は苦悩の末、本国の命令に従わずビザを発給し、約六千人の命を救った。その思いは「私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ、私は神に背く」という妻への言葉に表れている。

 杉原は戦後、外務省へ戻るが「例の件によって責任を問われている。省としてもかばいきれない」と言われ退職させられた。その後、1992年に国会で正式に名誉を回復したが、それは千畝が外国勤務を終えて日本に戻って45年後、また千畝の死後6年後のことだった。日本は半世紀近く、偉大な精神を省みなかった。

 われわれの周囲に「良すぎて悪く見える人」はいないだろうか。

2007/07/15

 人の死は日常的な出来事である。地元紙の死亡欄を見ると毎日何十人もの人が亡くなっていることがわかる。他人に起こって自分に起こらないはずはないし、これまでの人類の歴史を見ても人は100年内外生きて必ず死んできた。しかし、「死ぬるとは人のことかと思いしに俺が死ぬとはコリャたまらん」という川柳が生まれるなど、人は、特に若いときは、死を自分のこととして捉えることはあまりしない。

 親や教師は受験を間近に控えているなら、受験の準備をしなさいと言い、旅行業者は赤道を越えていく観光客に対して、夏と冬が逆転するからと、衣服の準備を怠らないようにアドバイスしてくれる。しかし、親は愛する子に対してさえ、死後の世界はこのような価値基準の社会だから、そこで評価されるよう準備しておきなさいとは、特別の信仰を持っている場合を除けば、言ってくれない。「人は死ねば意識もなくなってしまうから、生きているときのことだけを考えていればいい」と考えているから、死後の世界のことに言及しないという場合もあるだろうが、死後のことはよく分からないから言わない場合のほうがずっと多いのではなかろうか。

 今日の日本では、民も官も健康維持のための商品やサービスの開発に余念がない。「健康がなければしたいことができませんよ。健康あってこその人生ですよ」と、健康が人生における最大の価値であるかのように宣伝し、事実そのように考えている人が多い。

 しかし、健康を第一と考える健康信者になっても、人は必ず死に、遅くとも死の間際には健康を失ってしまうのだから、健康を第一と考える自分と、健康を失って死んでいく自分をどう折り合いをつければいいか分からず、無力感と絶望の中で死んでいかなければならないのではなかろうか。そのことに対し、健康を第一と宣伝した民も官も何もしてはくれない。自分で解決しなければならない問題なのだ。

 最近、死後における霊の世界の状況を描写する歌が流行したり、霊の世界を構造的に説明する人がマスコミでもてはやされている。WHO(世界保健機構)も、従来の健康の定義が身体的健康と精神的(心理的)健康と言われてきたのを修正し、これらに魂の健康すなわち霊的健康という言葉を加えた。大学で死を通して生を考える教育を行っている教授によれば、学生たちは自分を見つめ、さらには自分の生きがいを考えるようになったという。

 慎重な人は、自分の言動が他者にどう影響するかを予測できないうちは言動を控えがちだ。同じように、今生きているこの世界での生き方が死後の世界にどのように影響するかが分からなければ、毎日の生活が、自分のすべきことをしないで妥協して生きているとしか感じられず、生きること自体が苦しくなってくる。死と真剣に向き合うほど、そのような苦しみが解けてきて、生が充実してくるのである。

2007/06/15

 家庭は何物にも替えがたい尊い価値をもっている。

 家庭の中核である夫婦の間の心の動きがダイミックであると飽きが来ない。夫は妻に対して夫であるが、ある時は妻の父親のように指導力を発揮し、またあるときは息子のように素直であっても構わない。妻は夫に対して妻であるが、ある時は夫の母親のように寛容で、またあるときは娘のように甘えても構わないのではないか。夫婦間に娘が生まれれば、夫は妻も小さいとき娘のようにかわいかったのではないかと思い、妻の母と過ごせば、いずれ妻もそのように包容力のある女性になるのではないかと空想する。夫婦間に息子が生まれれば妻は夫も小さいときは息子のように天真爛漫だったのかと思い、夫の父と過ごせばいずれ夫もそのように柔和な男性になるのではと期待する。

 人は幼いときは親との関係が最も重要だ。兄姉を慕う気持ちや弟妹を守ろうとする気持ちは、愛する親が兄弟姉妹を愛しているので自分もそうしようという心情が動機となっているのではなかろうか。

 夫婦や兄弟姉妹という横の関係の中に、親子という縦の心情関係が変幻自在に現れては消えていく。心情のダイナミズムに彩られた思い出は忘れられない宝物だ。

 親から愛されて育てられたから自分も子を愛そうと思い、親が生き方の見本を示してくれたから自分も子に生き方の見本を示そうと思う。また、子どもから孝行の美を返されると、老いた親に孝行したいという気持ちが刺激される。心情の関係は、過去、現在、未来の時間を超えてめまぐるしく啓発し合う。これほど豊かで味わい深い心情関係が展開される場は、家庭をおいて他にはないだろう。

 戦後、家制度がなくなって親戚が遠くに住むことが多くなった。幼少の時にいとこやおじさん、おばさんなどと共通の体験をすれば、一つの家族だけでは味わえない立体的な心情関係が生まれ、それが生きる力を作ることにつながっていたのではないかと思う。戦後の民法改正によって、各人の権利は平等に保障されやすくなったであろうが、大勢で共に暮らすことによる恩恵が失われた。

 ものがあふれかえる環境の中で、子どもたちが小さいときから消費の主体としてものを選択することができるようになったことが、家族がバラバラになる大きな原因だと指摘され始めている。

 ものが豊かで生活が便利であることは望ましいことで、その恩恵を享受したいと思う。しかしそれによって家族がバラバラになって最も大切な心情関係まで失ってしまうのであれば、貧しさと不便のままの方がよい。どのような貧しさや不便さがあれば、失われがちなどのような心情関係を回復することができるだろうか、という途上国では思いもつかないような視点を、日本人は導入する時期に来ているのかもしれない。

2007/05/15

 富山にイエス・キリストが来たことがあるという。しかも、富山市内の呉羽山の東の山麓にある「皇祖皇太神宮」というところにその記録があるらしい。以前そのように聞いたことがある私は、一度訪れたいと思っていた。たまたま知人で文明評論家のH氏が富山に来られることとなり、好都合とばかり一緒に行ってみた。

 富山大学の自然観察学習センターの先で車を降りて、杉の大木や竹林の中の山道を5分ほど歩くと鳥居が現れた。鳥居の脇に「八幡山皇祖皇太神宮のいわれ」という看板が立っており、御祭神として神武天皇大神や裕仁天皇大神の名前などが並んでいる。奥に進み行くと、「空海、日蓮、親鸞、伏義、神農、釈迦、モーゼロミュラス、老子、孔子、孟子、徐福、キリスト、モハメットタイ等の聖者がこの地を訪れ、人の生きる道を神より教わった場所である。」と書いてある。「キリストだけでないんだ。す、すごい。」と思わず息をのんだ。

 このような記述の根拠は「竹内文書」にあるという。それによれば、今から数十万年前の超古代の日本列島は、世界の政治・文化の中心地で、世界の人々はこぞってこの地にある元宮にお参りに来たという。

 同行のH氏は、「紀元元年からさかのぼって500年ほどの間(実存哲学者ヤスパースの言う枢軸時代)に、ユダヤにイエス、ギリシャにソクラテス、インドに釈迦、中国に孔子が現れて人の道を説いた。聖人クラスの人物が各地に同じ頃に現れるとは不思議だけれど、モーセかその弟子や子孫が世界各地にたどり着いて教えを広め、その地域にふさわしい表現方法で思想が開花したのかもしれない。皇祖皇太神宮の話は、日本中心主義という批判を受けるだろうから、外国人にそのまま伝えることはできないけれど、見方を変えれば宗教一致と世界平和に貢献できるかもしれないね。」と蘊蓄を傾けられる。

 そういえば昨年、石川県の宝達山に行ったら、モーセの墓なるものがあったことを思い出した。竹内文書によれば、モーセは律法を作った後、古くから聞いていた神国日本に向けて旅立ち、上陸したのが能登半島の宝達港だという。港から富山の皇祖皇太神宮にいたり、ここにこもって天皇から十戒を受けた後、シナイに帰ったという。そしてカナンにユダヤの人たちを安住させた後、再び日本に来て宝達山に居を定め583歳で永眠したという。

 まさかと思うようなことでも書いてあると、つい信じてしまいそうだ。真偽はさておき、時空を超越した話は楽しい。H氏と行った御皇城山(おみじんやま)の皇祖皇太神宮がある場所は、森の中でとても雰囲気がよい。場所が狭い上、他の訪問客もあるので長居はしにくいが、もう少し広ければ小一時間くらい瞑想していたいと感じるところだ。富山は不思議で面白い。

2007/04/15

 パスカルは『パンセ』の中で「人間は一本の葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である」と述べた。考えることこそ人間を人間たらしめるものだと言いたかったのだろう。

 考えるために最も重要なことは、読むことだ。読むことで知識を得、想像をめぐらし、人の人生まで追体験し、生きるエネルギーを得る。書くことも大切だ。考えたことの筋道を整え、書いたものを見ながら、更に思索を深めることもできる。

 先日、衆議院議員の岩國哲人氏の講演を聴き感銘を受けた。今年の3月までの十年間、毎週政治的主張や国際会議の報告、随想などを執筆し、「一月三舟」という名前のコラムとして「日本海新聞」や「大阪日々新聞」に掲載したという。

 同氏は、平成元年に出雲市の市長となり、市役所つまり「市民のお役に立つ所」と名乗り、住民サービス業と言うのなら、土曜日も日曜日も開けないといけないし、デパートやショッピングセンターの中にも店を開けなければならないと主張し、その通り実行した。このような実行力は、おそらく出会ったアイディアに筋道と輪郭を与える同氏お得意の「書くこと」を繰り返すことによって、形成されたのかもしれない。

 人間にとって「書くこと」は、人間の尊厳性や魂の問題であると認識させてくれるのは、「銀の雫文芸賞」を創設した雫石とみ氏(平成15年2月8日、享年91歳で死去)だ。

 同氏は明治44年、宮城の貧しい農家に生まれた。父は炭坑で働き、母も土木労働者だった。貧乏で学校にも十分通えなかった。相次ぐ両親の死後上京し、日雇いで生計を立て、結婚して母となるが戦争で全てを失い、天涯孤独の身となった。左目を失明し、女性浮浪者のための保護施設に入るが、そこで暴力やいじめを受けた。

 そういう中で、同氏は日記を書き始めた。良いことも嫌なことも、また自分の中にある感情も書かなければ自分を確認することができなかったという。拾ってきた辞書で漢字を覚え、日記を元に綴った作品が労働大臣賞を受けた。こつこつ貯めた金で家を建て、その家を売って文芸賞を創設した。

 同氏は「日記は友達だった」「書かなければ生きられなかった」と述懐し、「神様はいいこと授けてくれたと思いますよ。書くことは誰の手も借りずに一人でやれる」「天に生かされたんだね。だからズルズルと生きてはいけない」とも述べている。

 私は今月、「毎月ニュース」40号分(1号~40号)をまとめて『心情論理で生きる――愛と価値の四〇章』(文芸社刊)を上梓した。できた本を見て、「書くことは自分の正体を明らかにすること」だと感じた。自分の脳の中にあるものに、万人が見ることができる形を与えることで、今後自分を成長させる方向性が少し見えたような気がした。

2007/03/15

 地球の温暖化等、環境問題は深刻だ。南太平洋の人口9万9千人の小国キリバスは、平均の海抜高度は2㍍で、最も高いところでも高度は5㍍しかない。温暖化で海面が上昇すると、国土の多くの部分が水没してしまう。日本も同じ島国であり、人ごとではない。

 経済発展を鈍化させてまで温暖化対策を取ることはしないとしていたアメリカのブッシュ大統領も、議会や一部の産業界の声に押されてか、10年間でガソリン消費を20%削減させる目標を打ち出した。

 地球温暖化の問題に限らず、環境が守られるかどうかは、一人一人が危機意識を持ち行動に移すかどうかにかかっている。

 世界の国々を歩き回って、環境問題に取り組む各国の状況を映像におさめ、日本で紹介している松本英揮さんは、車は使わない。富山市で夕方講演を聴いたが、翌日の講演会場の石川県へも自転車で行くという。特殊な折り畳み可能な愛用の自転車に乗ったり持ち歩いたりして、公共交通機関も利用して全国で活動しておられる。

 森の保全も重要だ。森は炭酸ガスを吸収し、有機物を作り、酸素を放出する。台風、地震、大火、津波などの災害を防ぎ、環境を保全してくれる。死んだ材料だけの技術革新と刹那的な経済の豊かさのみを追求している現状に危機感を抱く宮脇昭氏(横浜国立大学名誉教授)は、日本国内外の1500箇所で3000万本以上の幼木を植えてきた。生態学的に見て、その土地本来の植生をもとにした「本物の森」作りを目指して活動中だ(『いのちの森を生む』NHK出版、宮脇昭著)。

 環境問題について書いたり発言するには勇気がいる。「こうすれば地球環境を守れる」という主張をすることになる場合が多いが、「それならあなたは何かしているのか」と逆に問われることを想定するからである。

 「混ぜればゴミ、分ければ資源」だからとゴミの分別をするにも関心と労力が必要だし、ビニール袋の消費を減らすために個人用の買い物籠を持ち歩くことも、意識していないと忘れてしまう。

 まして、自動車をやめて自転車を使うことにしようと思えば、寒さや降雨対策、両手を自由にするためのリュックサックの準備、さらに時間に遅れないように早めに家を出たりしないといけないし、何よりも自分の体力を考えて綿密に移動計画を立てないといけない。犠牲が伴うのである。

 しかし、地球環境の現状は座視してはおれないところまで来ているようだ。私も自転車出勤日を作ることを検討しよう。富山県人は「先用後利」(先に用いてもらい後で利益を得る)という偉大な商売の理念を生み出したが、これからは「先犠後喜」(先に犠牲となって後で喜ぶ)という、地球と共生する生活理念を実践していく必要がありそうだ。

2007/02/15

 生命の誕生の前には夫婦の愛がある。連綿と続いてきた人間の歴史の中で、いつも生命の前には愛があった。それでは、(人間の)最初の生命の前にも愛はあったのか。

 この問いに対して、日本の学校教育では明確な答えを生徒に与えていない。無方向な変異と自然選択を唱えるダーウィンの唯物的な進化論を真理として教えているにすぎない。最近、人間を超えた何か偉大な存在(サムシング・グレイト)を想定しないと、人間や宇宙の存在を説明できないという主張が科学者の間から出てきて、共鳴する人が増えているが、これは進化論に対する逆説と見ることができる。もしも、この逆説が正しいとすれば、日本は人類の出現に関して国家を上げて虚偽を学ばせていることにならないか。同じく唯物論的な共産主義理論を国家運営の基本と定め、70年余りの実験の結果崩壊したソ連と同じように、人間の起源に関し、生命の前の愛に言及しない唯物的な理屈を教わるだけでは、日本人の精神は崩壊してしまわないだろうか。

 ある組織神学では、神(サムシング・グレイトと同義と考えて構わない)による人類始祖の創造と、生命の前の愛の関係を次のように説明している。「対象を愛することにより喜びを得ようとする情的な衝動によって、神は人類を創造せざるを得なかった。神が人類を見て喜びを得るためには、その人類も喜んでいなければ、真の喜びにはならない。人類を喜ばせ愛するために神は、地球上に山川草木や多くの種類の動植物を作り、宇宙に無数の星を作った」と。

 最近、サムシング・グレイトの存在に言及する人が多くなったのは、この組織神学の理論ほど明確ではないにしろ、生命の前の愛を本性的に察知した日本人の、進化論に対する反抗のような気がしてならない。

 一方、進化論のような唯物論的な考え方を認める人の多くは魂を認めないので、人は死ねばそれで全てが終わると考えている。しかし、生命の前の愛の存在を認める立場では、生存中に築いた家族や知人友人間の愛の関係がある時点を境に全て消滅してしまうことに納得できない。「人は死んでも(死後の世界で)生きている。そしてそれは永遠に続く」という説明の方に、心がひかれるのだ。

 私は、自殺者が高水準で推移していることや、経済格差の拡大等に伴う今日の日本の閉塞状況は、生命の前に愛を認めず、生命の後に永遠を認めない考え方を日本人が持ってしまったことが、大きく関係しているような気がする。

 国政選挙において、米国などでは、家庭の価値とか、妊娠中絶の是非等、精神的なことが争点となりやすいのに対して、日本では、年金とか雇用等、人間の生存中の物質的なことばかりが争点になる。人生とは、肉体の寿命がある時だけというとても窮屈な考え方が基にあるから、そうなるのではなかろうか。生命の前の愛と生命の後の永遠を見つめることで、人はもっと自由に生きることができると思う。

2007/01/15

 30~40年前に、日本で文明史上の大事件が起きた。人類史始まって以来それまでは、人類は常に物の不足に悩まされる物不足社会を生きてきた。しかし、30~40年前に日本社会は物余り経済に突入したのである。

 販路構造における力関係を見てもそれは歴然としている。物不足社会では、メーカー、卸し、小売り、消費者という連鎖の中で、メーカーに近いところに位置している方が有利だ。消費者よりも小売り、小売りよりも卸し、卸しよりもメーカーにいた方が交渉を有利に進められ、小売りが頼んでも「そうは問屋(卸し)は卸さない」と言われた。

 それが物余り経済になると、力関係は逆転した。消費者は販路構造における最強の王様となり、物が豊かな生活を享受できるようになった。とともに、物が不足していれば感じやすい感謝の念も持ちにくくなってしまった。文明史上の大事件というのは、物の需要供給のバランスの問題だけにとどまらない。そのことによって、本来ならば物を主管(愛し管理すること)する立場にあるはずの心が、逆に物に主管されてしまう懸念が強まってきたのである。

 日本の進路についての研究会で、知り合いの経済学者のK先生が、「池田内閣の所得倍増計画は失敗だった」と発言されるのを聞いて驚いた。日本人の所得を倍増するという計画は、期間前に達成されたと聞いていたからだ。K先生の主張は、「物の豊かさの倍増を目指すのであれば、心の豊かさの倍増も合わせて目指さなければならないのに、そのことについては明確ではなかった」との趣旨だった。

 お金は車社会におけるガソリンのようなものだ。仕事や勉強や遊びのために出かけようと思っても、それがないと身動きが取れない。その意味ではとても大切なものだ。しかし、使い方を間違えると身を滅ぼしたり火事になったりと危険だ。使い方が肝心だ。

 タバコの吸いすぎは健康に良くない。それでタバコのケースには「健康のため吸い過ぎに注意しましょう」と書いてある。しかし、タバコ一本一本に書いておいた方が効果が上がるのではなかろうか。お金も同様だ。紙幣一枚一枚に「幸福のため持ち過ぎに注意しましょう」と、書かれていれば、適正な使い方をする役に立つかもしれない。

 キリスト教の宣教師パウロは、「私は、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法があって、…肢体に存在する罪の法則の中に、私をとりこにしているのを見る。私はなんというみじめな人間なのだろう」と、欲望を治めることの困難さを嘆いた。このパウロの告白は、古今東西すべての人間の悩みであるが、物余り社会ではさらに困難さは強まるのではないか。

 文明史上体験したことのない環境だけに、人類が豊かな物に囲まれて自滅しないという保証はない。そのような環境の中でいかに身を処すかは、すべての人が真剣に考えるべきテーマではなかろうか。