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2007/06/15

 ある事項についての私法の効力というのは、その事項の関係者の間に私法上の権利義務の取得・喪失・変更を生ずるということです。権利者が損害賠償を請求して相手方が素直に支払わなかったときには、請求権を主張して国家の保護、すなわち裁判を受けることができます。私法上の権利があるかないかは、国家、すなわち裁判の協力を得て結果を実現することができるか否かという点に帰着します。

私法上の無効は刑罰とは無関係

 1点について1,000円を支払う約束でマージャンをやって1,000点負けた者があるとします。このような賭博契約は、公の秩序、善良の風俗に反する事項を目的とする契約だから、民法90条によって無効です。その無効だというのは、勝った者から負けた者を相手として約束を理由として100万円の支払いを訴えても、裁判所はその契約は無効で100万円支払えという債権は生じないから、訴えを退けるということだけのことです。賭博した者が処罰されるということは刑法の問題、すなわち刑法の効力で、賭博契約が無効だということと関係がありません。

 食肉の売買の営業には食品衛生法による営業許可を受けなければならない、というような取締法があります。その場合に、許可を受けずに営業をしたときには、営業者は処罰されます。それなら許可を受けないで食肉を売った取引行為はことごとく無効になるのでしょうか。そうした取引行為を無効とすることは、人々の間の信義――約束は守るという信義――を乱すことになります。
ここでこのような取締法は、行為の現実に行われることを禁圧することだけを目的とするものですから、すでに行われた取引行為から生じた私法上の効力には影響がない、すなわち有効だ、と解するのが判例です。

犯罪と被害者に対する損害賠償

 人を殴ってケガをさせた者がある場合、国家は公権力を発動してその者を傷害罪として処罰します。ある行為を犯罪として処罰するのは、国家が社会全般のことを考えてすることであって、加害者、被害者の間の個人的関係を考えてのことではありません。そのことは、加害者が処罰されても被害者の被った損害は残ることを考えればすぐに分かります。

 刑罰として犯人が罰金刑を処された場合でも、その罰金は国の収入になり、被害者がもらえるのではありません。そこで、人を殴ってケガをさせた者が処罰された場合にも、その犯人(加害者)は、被害者に対して損害を賠償する義務を負う、という法律効果を別に考えなければならないことになります。そしてこの損害賠償の関係は、私人が不法な行為によって他人に加えた損害を補償するという、対等な者の間の財産的な関係だから、まさに私法の関係です。
(我妻榮『民法案内1私法の道しるべ』勁草書房を参考にしました)

2007/05/15

 「私法の効力」という概念は、普通には私法の効力の範囲、すなわち①成文の私法法規が制定・公布されると、いつから生じた事項に適用されるか(時に関する私法の効力) ②私法はいかなる人に適用されるか(人に関する私法の効力) ③私法はどこの区域に適用されるか(場所に関する私法の効力)などを意味します。

時に関する私法の効力

 およそ法律は、その効力を生じた時から後に生じた事項についてだけその効力を有し(適用され)、その時以前に生じた事項については効力を持たない(適用されない)のが原則です。これを法律の不遡及の原則と言います。

 しかし不遡及の原則は法律解釈の際の原則であって、立法の際に一定の規定を、その規定が効力を生ずる以前に生じた事項についても適用されるものと定めることは差し支えありません。

 戦後の民法の親族編と相続編の全面的改正については、「新法は別段の規定のある場合を除いては、新法施行前に生じた事項にもこれを適用する。但し、旧法及び応急措置法によって生じた効力を妨げない」と定め、遡及効を持つことを原則としました。これはこの民法の改正は日本国憲法の大理想に従う重要なものであって、その適用を新法施行後に生じた事項に限ったのでは、はなはだ不徹底となるからです。(その場合でも但し書きにより無制限に遡及効を認めることはできません。)

 しかし、人はその時の法律を知り、それから生じる効果を予期して行動するので、後からその予期と異なる法律効果を生ずるものとすることは、法律に対する国民の信頼を裏切り、社会の混乱を生ずる恐れがあります。特に刑法では罪刑法定主義の理想を貫徹するために、遡及効を与えることが許されないことは憲法で規定されています。

人に関する私法の効力

 ある国の法律は、その国の人民主権の効果としてその国の国民に適用されると共に、その国の領土主権の効果として、その領土内にいる全ての人に適用されるのを原則とします。

 しかしこの原則も、実際には色々の修正を加えないと不都合を生じます。例えば、日本人が相当永く外国に滞在し、そこで土地を借りたり建物を建てたり、貯金をしたりして相続財産の中に外国にある財産が含まれるとなると、日本の家庭裁判所で日本の法律に基づいて、調停・審判・判決が成立したとしても、それに基づいて強制執行をすることはできません。なぜなら、強制執行は主権に基づく命令・強制の関係であって、日本の主権は外国では行使し得ないからです。

 結局、日本人と外国人とが当事者となる私法関係も、日本人同士が当事者であっても、その事件の発生が外国であったり、関係する財産が外国にあったりしたような場合には、日本人には日本の私法を、という原則を修正して、関係ある外国の私法を適用することが適当だ、という場合が多いことになります。わが国では、その関係を法例という法律が定めており、学問としては国際私法がこれを取り扱っています。

(我妻榮『民法案内1私法の道しるべ』勁草書房を参考にしました)

2007/04/15

類推解釈と反対解釈

 「馬つなぐべからず」という立札がある時に、牛はつないでもよいでしょうか。他人を殺した者は「被害者の父母、配偶者及び子に対しては慰謝料を支払わなければならない」という規定がある時に(民法711条参照)、舅・姑に対しても慰謝料を支払わなければならないのでしょうか。

 牛はつないでも良いと解釈し、舅・姑に対しては責任がないと解釈するのが反対解釈であり、牛もいけないと解釈し、舅・姑に対しても責任を負うべきと解釈するのが類推解釈です。

 ある規定について類推解釈とすべきか反対解釈とすべきかは、その規定が網羅的、限定的なものであるなら、反対解釈をすべきであり、重要なものの例示的なものであるなら、類推解釈をすべきだ、とは言えます。法律の条文となると列挙は制限的なことが普通だということで、反対解釈をすることが多いものの、法文を作る際に考え漏らされたものもあり、また予想されなかったものが後に生ずることもあり、常にそうすべきだと決める訳にはいきません。

 つまり、規定の文字だけを根拠にして論争しても水かけ論になります。これを解釈するためには、その規定の立法の理由を検討しなければなりません。

類推解釈と拡張解釈

 類推解釈は、結果において条文を拡張したことになるから、拡張解釈の一種と考えても良いのですが、普通には拡張解釈は、文字の意味に含ませる場合であり類推解釈は、文字の意味に含まないものに拡張する場合です。

 前号で例示した「電気を盗むことは窃盗か」というテーマの場合、財物のうちに電気を含むと解釈するのが拡張解釈であり、財物には電気を含まないが、瓦欺を盗むのに準じて窃盗とすると解釈するのが類推解釈です。いずれの解釈によっても同一の結果が得られる場合が多いので、いずれであるかをやかましく言う必要はないと言えるでしょう。刑法では、類推解釈はできるだけ避けるべきだということが考えられねばなりません。

立法の理由が類推の根拠

 類推解釈について最も重要なことは、いかなる理由によって類推すべきかという点です。

 「馬つなぐべからず」とあれば馬をつないで悪い理由は、馬を離れた多少とも一般的なものでしょう。例えばその木を動揺させていためるとか、糞尿して困るとかです。そうすると、その一般的な理由が牛についても同様なら、類推することになります。もしそうでなくて馬を禁じていたのが、いななくためとか蹄で蹴るだけのためなら、牛については反対解釈をすることになります。

(我妻榮『民法案内1私法の道しるべ』勁草書房を参考にしました)

2007/03/15

法律独自の立場から決定される文理解釈

 文理は法律の独自の立場を忘れずに、用いられている文字の常識的な意味を尊重します。

刑法で、窃盗とは他人の財物を窃取することだと定め(刑法235条)、その物とは有体物(民法85条参照)と考えるのが普通だと言われていました。そこで、電気を盗むことは窃盗か、という問題が起きたときに、物理学者は有体物は物質(液体・気体・固体)に限り、電気はエネルギーだから有体物ではないと言ったとしても、そのことが直ちに電気の法律上の意味を決定するのではなく、窃盗の目的を財物に限ったことの意義(立法理由)を検討することによって、刑法独自の立場から判断されなければなりません。つまり、法文の字句の解釈ということは、国語の字句や専門科学者の学説によって定められるものではなく、法律独自の立場から決定されるもので、そこに法律学としての独自の仕事があるのです。法律の文字の意味に従う解釈を文理解釈といいます。

法律の体系を破らない論理解釈

 全ての法律は、全体として一個の論理的体系を構成するものですから、各条文の解釈は常にその法律全体としての論理的体系の一部として理解されなければなりません。

 一例をあげると、炭鉱労働者が炭坑で粉じん作業に従事した結果、じん肺にり患した。り患後数十年経って、被害者が雇用者やこの政策を推進した国に対して、損害賠償を請求する場合に、「不法行為による損害賠償の請求権は、被害者又はその法定代理人が損害及び加害者を知った時から3年間行使しない時は、時効によって消滅する。不法行為の時から20年を経過したときも同様とする」と定める民法724条に照らして損害賠償請求権は消滅時効にかかっていないでしょうか。

 民法724条後段の20年の期間は、消滅時効と区別される除斥期間と言われ、通常その延長は認められません。しかし判例は、「加害行為が行われたときに損害が発生する不法行為の場合には、加害行為のときがその起算点となる」が、「身体に蓄積した場合に人の健康を害することとなる物質による損害……が発生する場合には、当該損害の全部又は一部が発生したときが除斥期間の起算点となると解すべきである。なぜなら加害者としても……相当の期間が経過した後に被害者が現れて、損害賠償の請求を受けることを予期すべきであると考えられるからである」と述べて、被害者の損害賠償の請求を認めました(最判平成16年4月27日)。この解釈は、学説の動向に従い、被害者の保護を図った論理解釈の例です。

拡張解釈と縮小解釈

 文理解釈と論理解釈との関係を言えば、一応各条文の文理解釈に立脚しますが、全体としての論理的体系の構成のために、個々の条文の文理が多少拡張的に解釈されたり、又は縮小的に解釈されたりする場合を生じます。
(我妻榮『民法案内1私法の道しるべ』勁草書房を参考にしました)

2007/02/15

 何か問題が生じた時に、そのことに関する法律はどんな形で定められているのか、という問題が生じます。それを法源(法が湧き出る泉)と言います。およそ法律には、文字で書かれたもの(成文法)と条文化されていないもの(不文法)とがあります。日本は、全ての法律について成文法主義をとっていますが、ことに私法には、民法、商法という二大法典があって、重要な法源となっています。

 民法なら民法について成文法が存在する場合にも、民法の対象となる事項に関する法律の法源を、その成文法だけに限ることは不可能です。いかに網羅的な成文法を制定しても、社会には限りなく新たに事件が生じ、自ずから独特な慣習が生まれ、やがて法律的な効力を取得して、成文法の間隙を埋めるだけでなく、成文法の規定を変更することも少なくありません。したがって、私法の法源としては、成文法の他に不文法として慣習法・判例法などの存在を認めねばなりません。

成文の私法と慣習私法

 民法の特別法としては、借地借家法、自動車損害賠償保障法、消費者契約法、製造物責任法、不動産登記法等があり、商法の特別法としては、信託業法、証券取引法、会社法等があります。商法の特別法は、商法に優先するから勿論民法にも優先します。これに対し、民法の特別法は民法に優先しますが、商法には優先しません。

 日本では、慣習法については、一般的に法令に規定のない事項についての補充的効力は認めますが、いやしくも法令に規定のある事項については、慣習法を優先させるという改廃的効力は認めていません。

 成文法の国では、成文を正面から否定する態度は避けなければなりません。しかし一方で、従来の慣習になかったことが法律に定められた場合、とりわけ身分関係の事柄については、社会の実際は、容易に法律のこの要請に従わないことがあります。そこで、成文の規定に解釈を加えて慣習法と調和する余地を作る操作をすることになります。

判例私法と条理

 裁判所が具体的な事件について裁判をすると、これによって抽象的な私法の規定は具体的内容を明らかにします。ある事柄について、そういうことが繰り返されるうちに、そのことについて慣習法の存在と内容が明確になり、裁判によって明らかにされた規範が法源としての効力を持つことになります。これが、判例私法です。地方裁判所や高等裁判所の判決は、最高裁判所の判決に倣う傾向を持っているので、判例法は主として、最高裁判所の判決によって形成されると考えられます。裁判所自体は、あくまでも具体的な判断をするにとどまり、抽象的な法則を定立する意識を持ちませんが、その具体的判断が集積して、そこからある程度の抽象的な法則が客観的に構成されていく、という限りにおいてのみ、判例法は抽象的な法規となり得るのです。

 条理とは物事の筋道であって、我々の理性に基づいて考えられるところのものです。裁判所は、法律がないと言って裁判をしない訳にはいきません。そこで、裁判所は自ずから条理に従って判断する他はないことになります。

(我妻榮『民法案内1私法の道しるべ』勁草書房を参考にしました)

2007/01/15

公法と私法

 法律は公法と私法に大別されます。私たちの社会生活には、国家を構成し維持し、または直接にその保護を受ける関係(国民としての生活関係)と、直接に国家とは関係のない関係(人類としての生活関係)とがあります。国家の組織、主権の所在、国会の構成、刑罰権の運用、納税の義務、訴訟の取扱いなどは前者に属し、親子夫婦の関係、衣食住に対する財産とその取引の関係などは後者に属します。前者を規律する法律が公法であり、後者を規律する法律が私法です。
 
 国民としての生活関係、すなわち公法関係は極めて多岐に分かれますが、私法関係は身分と財産の関係と言っても構いません。この私法のほとんどを占める法律は、民法と商法です。商法は、商取引(営利性が強調される)関係に関わる特殊の法律であり、普通の取引関係を規律する民法から区別するようになりました。その結果、財産関係は商法の適用を受けない場合には、民法の適用を受ける(商法は民法の特別法)こととなりました。労働法、経済法、消費者法、及び知的財産法も私法であり、民法の特別法です。

公法の基本原理と私法の基本原理

 公法の基本的な原理は命令・強制です。立憲政治では、命令・強制をする主権そのものも、国民の総意に基づいて構成・運用されるものとし、立法・司法・行政の全ての分野において、できるだけ国民の意思が参与するものとなってきたものの、いったん決められたことについては、規律される国民の意思を顧みないで命令し、強制します。

 私法の基本的な原理は、自由・平等です。個人に自由を与え、平等な立場に置くことで、各個人の創意が刺激され、精神的・物質的な向上に努め、社会は生気にあふれたものとなり、文化の発達を望むことができるからです。

 しかし、各個人に無制限な自由を許すと、力の強い者の自由ばかり大きくなって、他の者の自由が脅かされ、従ってまた平等も保ち得なくなります。全ての人に自由を保障し平等を保つために、個々人の自由を制限することは最小限度必要です。

 今日の富の不平等をそのままにしておいて形式的な自由を認めたのでは、貧困者は日本国憲法の唱える「健康で文化的な最低限度の生活」(25条1項)を営むことはできません。日本国憲法のこの現定は、財産関係における自由・平等の原理の修正を暗示するものということができるでしょう。

 事実、終戦後行われた、労働関係の諸立法、農地改革、財閥解体というような政策は、いずれも、特殊な財産関係について、当事者の自由にまかせずに、命令・強制の原理を入れたものと見ることができます。
(我妻榮『民法案内1私法の道しるべ』勁草書房を参考にしました)