Skip to main content.
*

2018/03/07

『イスラーム基礎講座』(渥美堅持、東京堂出版、2015年)

 この本には、「ムスリムが約束に関しルーズであるのは、約束が実現するのは天命によるものなので、面談約束をしたこととそれが実現することの間には連鎖性がないと考えているから」とか、「イスラーム世界では風紀警察という私服警官が街中を巡察し、婚約者でも同じ一族でもない男女が二人で歩いていたりお茶を飲んだりしていると、風紀警察本部に連れていかれ罰を受ける」という記述があるが、それらを興味本位で紹介することは著者の意に沿わないかもしれない。

 なぜなら宗教の理解には、その宗教に帰依している者の判断が正論であり、異教徒の価値判断は正論とはならないにもかかわらず、日本人が宗教に対峙する姿勢にはきわめて独特なものがあり、平気で他宗教へ介入し、自らの基準に照らし合わせて善悪の判断を下し、日本との格差の激しいものには、その格差を埋めるまであらゆる干渉・攻撃を行う、と著者は考えているからだ。著者は、日本人の宗教観は一つの世界観を形成していないと言う。確かに、クリスマスはキリスト教式で祝い、除夜の鐘は仏教徒として聞き、神社へは氏子(神社神道における信者に相当する総称)として初詣をするというのでは、宗教的世界観を有しているとは思えない。先が見通せる砂漠という環境と多民族共存という社会的環境の中で生きる人たちの強固な世界観に出会える一冊だ。

『宗教は科学の生みの親』(小林浩、光言社、2003年)

 ガリレオ・ガリレイの科学的業績は「宇宙という神が書いた書物を読む」という信仰があればこそ成し遂げられた。ケプラーやニュートンも同様で、「神が宇宙に整数関係の秩序を与えた」とか「万有引力は神に由来する物理的な原理である」という確信や思想があればこそ成し遂げられたものであるという。

 近代を主導した科学者たちは、宗教的偏見を打ち破り合理的な科学を建設したのではなく、キリスト教信仰という強烈なパラダイムがあったからこそ成し遂げられたものである。キリスト教は近代科学の子宮であるとする。

『新約聖書と歎異抄』(渡辺暢雄、PHP研究所、1991年)

 新約聖書27巻の内、13(14)通はパウロが紀元48~62年に書いた手紙だという。堅実なユダヤ教だったパウロはキリスト教徒迫害のためにダマスコへ赴く途中、復活したイエス・キリストとの劇的な出会いにより、驚異的な熱心さをもってキリストの福音を述べ伝える者へと生まれ変わった。そして以前の自分を「罪びとの頭」(テモテⅠ)と自称する。

 「歎異抄」は、親鸞の直弟子であった唯円が、師の死後30年ほどして、師の教えの解釈が当時乱れていたことに心を痛め、異端を嘆くという意味で著した。「善人でさえ弥陀の大悲によって浄土へ往生を遂げさせていただけるのであるから、悪人ならば尚更のことである」(悪人正機説)における「善人」とは、「自分の罪の醜悪さに気づかず人々をさばき蔑んでいるような自称善人のこと」だとする。

 パウロも親鸞も罪の自覚に敏感であるとともに、救いは従来言われてきた律法順守や行いによるのではなく、信仰により与えられるものであるとしているところが似通っている。一方で、パウロにとってイエスは救い主であったが、親鸞にとって救い主は人間釈尊ではなく経典中の神話的な阿弥陀如来であるという。

2018/02/15

『人間の正体と霊界との関わり』(那須聖、光言社、1996年)

 長年ニューヨークに在住し、明快な外交評論を行ってきた著者は、一方で超心理学の研究を続けてきた。

 著者は、近年の科学万能主義により自然科学的な方法でとらえられない神や霊界は存在しないと考えたり、その存在を説く人を野蛮人であるかのように考えたりする風潮が広まっていることに危機感を抱く。進化論は外面的、物質的、肉体的な面を検討の対象としており、その範囲では正しいものの、人間の人間たる主たる要素は内面的、精神的、霊的な面であるとし、神は旧約聖書の創世紀の記述のように宇宙を創造されたが、神の計画通りに生物を進化させて最後に神の息を吹き込み人間を創造されたのであり、進化論は神の創造と矛盾するどころか、むしろ神の創造の一環を説明するものであるとする。

 著者は「肉体と霊魂の関係」や「天界と地獄」の様相についても記述しており、本書の執筆に際しては数え知れないほどの霊感を受けたという。

『ダーウィンメガネをはずしてみたら』
         (安藤和子、いのちのことば社フォレストブックス、2007年)

 大阪大学や東京大学大学院で、そして米国に留学して生命科学を学び、その後研究所でも部長職で勤務するなど時代の最先端で研究してきた著者が、生物を殺して組織、細胞、分子レベルで追求する生物化学という研究手段では、生物を生きたもの、魂の入ったものとして見る視点が欠落しており、生命の本質についての答えを得ることができないと分かり、がくぜんとする。

 聖書は科学と矛盾すると考えていたが、聖書を読み込むうちに、そのような自分の考えや宗教は弱者が頼るものという世間の常識の間違いを知り、聖書は自然科学研究の百年も千年も先を歩み先導している事実を知る。そして、弱者を切り捨て強者だけ生き残る社会、どこから来てどこへ行くのかわからない生命観に立って、互いの存在と生命を尊ばない社会は、「いのちは自然に発生し、弱い者は滅んでいく」と、ひとつの仮説にすぎない進化論が唱える考えから派生していると確信する。まさに、学校教育でかけさせられたダーウィンメガネをはずしてみたら、真理と心豊かな世界への道が開けていくのである。

『それをお金で買いますかー市場主義の限界』
             (マイケル・サンデル、早川書房、2012年)

  ここ30年に起こった決定的な変化は市場と市場価値が、それらがなじまない生活領域へと拡大したことだった。ダラスの成績不振校は子供たちが本を読むたびにお金を払い、親が名門大学に寄付をして子供を入学させ、自国の戦争に傭兵を雇うようになった。このように行きていく上で大切なものに値段をつけるとそれが腐敗してしまう。子供はお金のために本をもっと読むようになるかもしれないが、読書は心からの満足を味わわせてくれるものではなく、面倒な仕事だと思えと教えていることになる。新入生となる権利を最高入札者に売れば、収益は増えるかもしれないが、大学の威厳と入学の名誉は損なわれる。自国の戦争に外国人の傭兵を雇えば、同胞の命は失わずに済むが、市民であることの意味が貶められる。

 市場はものを分配するだけではなく、取引されるものに対する特定の態度を表現しそれを促進する。これをどのように考えるかを、日本でも「ハーバード白熱教室」の名前でよくNHK教育テレビに登場した、米国ハーバード大学の法哲学の教授が問題提起する。