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2014/04/15

 殺人などの刑事事件の容疑者には、疑わしきは罰せずという「推定無罪」の原則が適用され、起訴する側が容疑者が罪を犯したことを立証する責任を負う。それができなければ容疑者は無罪となる。

 STAP細胞の存在を説明する論文をめぐり理化学研究所の小保方晴子リーダーに改ざんや捏造等の不正があったかどうかが問題となっている。この場合、推定無罪の原則とは反対に「推定有罪(疑わしいときは正しくないとする)」とも言うべき原則が適用される。自説が正しいことの立証責任は小保方リーダーが負い、それができなければ「正しくない」とされてしまう。

 このように立証責任の原則が全く異なるのは、その原則によって何を守ろうとしているかと関連しており、社会的に認められているその価値を守るために、原則が定められていると言えよう。つまり、刑事事件の容疑者の容疑が間違っている可能性もあるのに有罪として罰してしまうと、日本国憲法が何よりも大切にしている人権が守れなくなってしまう。また、科学上の新説の十分な証明なくして正しいとしてしまうと、後に間違いと分かった場合大きな混乱が起きてしまうことが予想される。そのようなことが起こらないようにという観点から用いられる原則が定められていると言えよう。

 また、民法の過失責任の原則でも、どの条文をもとに判断するかによって、立証責任を負う立場が変わる。医師が医療ミスを犯し患者に損害が発生した場合、医師と患者の間に医療契約が結ばれていたと考え、債務不履行による損害賠償を定める415条をもとに判断すると、医師の過失が推定され、医師側が「過失はなかった」ことの立証責任を負う。
一方、不法行為があったとして不法行為による損害賠償を定める709条をもとに判断すると、患者側が医師の過失を立証する責任を負う。いずれの場合も、立証責任を負う側が立証できなければ、損害賠償を求める裁判では負けてしまうことになる。

 外国人が日本に入国するには、「一在留一在留資格」の原則に基づき、身分関連であれ就労関連であれ、どれか1つの在留資格を取得する必要がある。在留資格に応じて、身分関係、学歴や職歴、経済能力等について、入国管理局が求める基準を満たしていることを、申請人である外国人が立証しなければ、許可が下りない。もともと、外国人の日本への「入国の自由」は憲法上保障されていない。入国管理局としては、どれか1つの在留資格を選ばせることで入国目的を明確にさせ、基準を満たしていてこそ、その入国目的が達成できるとすることにより、無目的の外国人の入国を抑制し、犯罪を減らし安全で秩序ある日本社会の構築をすることが目的と考えられる。

 何か権利を主張するときなどは、立証責任が誰にあるか、それはどうしてそうなっているかを十分調べることが肝要と言えよう。

2014/03/15

 学習や普段の会議等で今や必需品となったスリーエム社のポスト・イット(付箋)誕生の経緯は興味深い。強力な接着剤の研究をしていた研究員のシルバーは、「良く付くが簡単にはがれる」という、奇妙で接着剤としては失敗作を作ってしまったが、それから五年後に同社の研究員のフライが、「讃美歌集のしおりとして使えるのではないか」と考え、実用化したところ、世界的な大ヒットとなったというのである。「すぐはがれる接着剤なんて利用価値がない」と思い込んでいては誕生しなかっただろう。

 今後の日本社会に関するマスコミ報道を見ていると、「女性の活躍できる場を増やそう、そのためには保育所の待機児童を減らすような施策をしなければならない」として、「待機児童数が多い=劣悪な社会環境」という図式が定着してしまっている。確かに、幼児を預かってもらえれば夫だけでなく妻も勤めに出られて、家計は安定することになるかもしれない。しかし、保育の現場では、預かる時間が長くなるにつれて親たちの中で子供に対する慈しみの思いが薄れていることが懸念されているという。

 保育ということが幼児ではなく親の都合や経済社会の視点からしか論議されていない中、元埼玉県教育委員会委員長の松井和氏の視点は、親が子を産み共に生きる中で幸福になるという、きわめて当たりであるが、最近忘れ去られている視点から子育て政策を提起しておられ、発想の転換を感じて興味深い。

 同氏によれば、幼児とは一人では生きていけないのに周囲の人を信じ頼り切り、それでいてとても幸福そうな人たちだ。大人はその様な存在とともにいると自分の中の善性が引き出されてくるし、相手の気持ちを考えて理解しようとするしかないので平和になっていく。「幼児から始まる幸福感」から子育ての施策を考えた方が、結果として国全体に良い影響を与えるというものだ(En-ichi 2012.2,2012.8)。

 また、日本の人口が減少し生産年齢人口も減少していく中、外国人受入れ政策については、あまり議論がなされていない。

 とりわけ外国人受け入れ反対の根拠として、「犯罪が増える」という理由があげられることが多いが、1985年から2008年にかけての外国人入国者数の伸び率が同期間の外国人犯罪の上昇率を大幅に上回っており、外国人が増えると治安が悪化するという説は正しくないようだ(毛受敏浩著『人口激減』新潮新書)。

 むしろ、異質な考えの人と接することによってものの見方や発想方法が多面的になって、日本人にとり革新的な成長の機会と考えた方が良いのではなかろうか。私が接しているパキスタンの方の中には、日本語が流暢な人が何人もいるが、学校で日本語を学んだのではなく、仕事をしていくうえで必要なので何度も質問していく中で覚えたという。なかなか英語が話せない日本人にとって、大きな発想の転換となるのではなかろうか。

2014/02/15

 法律にしろ社会の制度にしろ、原則を定め体系化して、それに基づいて合理的な社会運営をしようとする。しかし、思いもよらないことをする人が出てきたり、社会が大きく変化したり、もともと作った法律や制度が不備だったりして、現実を完全に整理することはできない。

 民法を初めて学習した時、わずか千条余りの条文で、社会の権利義務関係を整理していることに驚いた。「代理」「時効」「制限能力者」等の概念を設定して法律行為を見事に調整している。しかし、複雑な権利義務関係に網羅的に対応しているわけではない。

 例えば、人に対して何かを請求できる「債権」は、知り合いの人々の間でなされる「契約」によることが多いが、契約以外で債権が発生することもある。交通事故の被害者が加害者に損害賠償を請求できるのは「不法行為」により、また、強風で隣家の屋根がはがれそうになって危険な時に了承なく修理した後かかった費用を請求できるのは「事務管理」により債権が発生するからだ。同様に、正当な原因なく利益を得た故に他人に損失を与えた者がその返還の義務を負うのは「不当利得」により債権が発生するからである。しかし、この「不当利得」は、具体的な処理方法が民法に書かれておらず、裁判所の判例で問題を処理することが多く「民法のゴミ箱」と言われることもあるという。いわば、裏のルールで物事が進行していると言えよう。

 外国人の在留資格の制度にも奇妙なところがある。在留資格の多くは、外国料理の調理人は「技能」、通訳や翻訳をする人は「人文知識・国際業務」、日本人の配偶者としての活動をする人は「日本人の配偶者等」というように、活動内容や目的が分かるような名前を持っている。

 ところが「定住者」という在留資格は定住を目的とする人がもらえるというわけではない。日本人との血のつながりのある人に「定住者」の認定をする他に、日本人と結婚しその後離婚して日本人の実子を養護する立場にあるとか、日本人の実子がいなくても一定年数の日本人との結婚生活後離婚した場合には、「定住者」への変更が許可されることがある。

 このようなケースの判断基準は法務省発行の資料に見当たらず、当初から想定していたわけでもなかろう。現実の人間関係の中で様々なことが起き、人道上やその他の理由で日本に継続して在留することを求める外国人に、定住実績を一つの理由として許可しているに過ぎないものだ。この資格は、他の就労資格ではそれが規定する就労活動しかできないのに対し、様々な就労活動ができる点でとても魅力的な資格なのだが、何か民法の「不当利得」と同じような臭いを感じる。

法律も制度も、合理性がなければすぐにでも改められるだろう。しかし、合理性だけです べてを整理できるほど人間の活動の現実は単一的ではない。合理と現実のはざ間は、男女関係のすれ違いにも似て、とても人間臭くて興味深い

2014/01/15

 昨年は、訪日外国人の数が千万人を突破し、大勢の観光客が日本に訪れるようになってきた。ちなみに、私が住む富山県の在留外国人の中では、パキスタン人やロシア人の数が全国十位くらいに位置し、それぞれ日本全体の中ではそれぞれ3~4%を占めている。百分の一県と言われる富山県にしては、相対的に多いと言えよう(「平成20年版在留外国人統計」財団法人入管協会発行参照)。

 今後、短期滞在の訪日外国人であれ、中長期滞在の外国人であれ、イスラム教国出身の外国人と接する機会が増えるだろう。しかし、日本人は一般的にイスラムの人々と接する機会が少ない。私が知っているのも、豚肉は食べてはいけないとか、一日5回聖地に向かってお祈りをするとか、一か月続く断食月は日の出前から日没までは飲食してはならないきまりがあることぐらいだ。相互の文化をよく知るには観光旅行や文化交流だけでなく、仕事として外国で住みながら活動する人が増えると、さらにその活動が明確なミッションを伴っていると、日本人と相手国の人の生き方や深い精神性までも伝わり、深い交流ができそうだ。

 2012年8月20日に、世界の紛争地を取材、報道し続けたジャーナリストの山本美香氏が、滞在中のシリアで銃撃を受け亡くなった。2001年9月11日の米国同時多発テロ事件発生後、米国や英国らがアフガニスタンを空爆した頃には同国に滞在し取材と報道を続け、2003年3月に米国らがイラクに侵攻したときも、事前にバグダッド入りして取材を続けていた。危険地に赴く山本氏の思いは、「外国人ジャーナリストがいることで最悪の事態を防ぐことができる、抑止力」との直筆のメモに端的に表れている。とりわけ、男性優位社会であるイスラム圏では伝わりにくい女性社会の中に入り込み、女性の視点からイスラム社会の様子も伝えた。山本氏の生き方に影響されジャーナリストの道を志す女性も現れているという(『山本美香という生き方』、日本テレビ放送網株式会社)。

 イスラムの人々は日本人が考える以上に日本のことをよく知ろうとしている。ペルシャ湾岸の国UAEのアブダビ市の小学校では日本語クラスがあり、中央アジアのウズベキスタンなどでは日本語弁論大会が開かれ、トルコでは、日本研究の学会がトルコ人研究者たちにより、日本語を用いて定期的に開催されているという(宮田律著『イスラムの人はなぜ日本を尊敬するのか』新潮新書)。

 日本人はもっとアラビア語やトルコ語等を学ぶべきではなかろうか。私は一昨年、一般社団法人ビブリオ国際交流会(現在は休眠中)を設立し、昨年アラビア語講座を開設したが、参加者が少なく経営的には失敗だった。いずれ同志の人と集ってイスラム文化に親しみ交流し、イスラムの人々の中に日本ファンがもっとできるようになれば、日本の安全保障上も、また多文化社会を構築していくうえでも、良い方向に働くのではなかろうか。