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2013/12/15

 子どもが生まれると、親や家族は子の誕生を喜び、子の幸多かれと祈る。それなのにその子は長くて百年前後生きた後必ず死ぬ。子にしてみれば自爆装置を埋め込まれ「それ、生きていけ」と世界の中に投げ込まれたようなものだ。それは、他ならぬ自分自身のことでもある。

 しかも生き方が難しい。生き始めると死ぬのが恐くなり、しかも常に物質を供給してやらないと機能が停止して死に至る肉身というやっかいなものを持たされている。死なないまでも、感覚器官を持たされていて、寒い、暑い、痛い、痒い、臭いや、ひもじい等の感覚を感じて、そのたびに衣食住の欲求に対処するのにきゅうきゅうとする。現代社会では、自給自足は通常困難なので、現金収入を得られるだけの職業能力を身に着けるために四苦八苦することになる。

 しかも、自分が選んで生き始めたわけでもない、いわば背負わされた生命の維持のために、物質の確保や職業能力の向上に集中していると、「人生は物質や金だけではありませんよ。心や目に見えないものこそ大切ですよ」と指摘される。それで、すべての現実世界の欲望を捨てて修道院に入ったり出家して、質素で禁欲的な生活を始めても、影のようにつきまとう肉身の欲望にさいなまれる。

 しかも、時間は刻々と過ぎて自爆装置の作動が迫ってくる中で、やり直しがきかない一回限りの人生を、自己の責任で生きよと言われ、瞬間、瞬間に何かを選択しながら、複雑な社会や世界の中で、道を踏み外すことなく生きていけと言われる。「いったいどうしろというのだ」と叫びたくなる。

 このように何かの原因で、訳が分からないことが始まった中でも、気を取り直して生きていこうという意欲が湧いてくるし、その意欲を具体化していくための知性や情性を持っているから不思議だ。そのような知情意を備えた人間が地球上の各地に存在し、やれ侮辱したと言っては殺し合い、やはり平和が大切だといって、いろんな制度や組織を作ってきた。各人が備え持つ知情意は真理や美や愛を求め、各地域の風土の中で特色ある文化を生み出して、人はそれなりに味わい深い人生を送ってきた。

 ところが、たまに人知を超越した存在に通じたり、聖なる価値の実現に秀でた聖人という、突出して人心を集める人が出てくるので、それに権威を与え、それからはずれれば異端として弾圧したかと思うと、何百年もして、異端と決めつけたのは間違いでしたと表明して謝罪したりもする。「いったい何をしているのだ」と言いたくなる。

 このようなことを繰り返し人は生きてきたし、これからも生きていくのだろう。そんな中でも、地球は回転し、太陽は地球に熱と光を与えてくれる。訳が分からない人生だが、その人生に希望を持ったり、つぶやいている人がこれまでいたし、今もいるし、これからもいるだろうということだけは確実のようで、それがいつわらざる人生の実態に違いない。

2013/11/15

 自分はどこから来たのか、自分の先祖はどんな人たちか、自分の出発は何なのかが分からないと、生きていても安心できないことが多い。

 人工授精による精子提供で生まれた人には、生物学上の父親の情報開示は、「ドナーは匿名」の原則に基づき認められてこなかったが、1980年代より多くの国で認められるようになってきた。遺伝病等の不安を抱えて生きていた子どもにとっては朗報だろう。

 ケン・ジョセフ父子(シニア&ジュニア)著『【隠された】十字架の国・日本』は、日本人のルーツを示唆する刺激的な本だ。日本人と中近東のアッシリア人が、東方基督教である景教を媒介として古代からシルクロードでつながっていたと主張している。日本人は学校で、基督教が日本に伝わったのは16世紀のフランシスコ・ザビエルによると教わっているが、1~2世紀には原始基督教は日本に入っていたという。800年代には京都や奈良は、中国の長安と同様に大国際都市となり、街を歩くと黄色い人、白い人、褐色の人、黒い人に出会い、いくつもの基督教会、イスラム教会、仏教の寺が同居していたという。さらに、茶道など日本古来の文化と思われてきたものは、昔のキリシタンの聖さん式を摸したものであり、聖徳太子、光明皇后や空海などは景教に深く心酔していたとす
る。

 父の研究を引き継いだケン・ジョセフ・ジュニアは、日本生まれで、小学校に上がるまで自分は日本人と思っていたが、日本人離れした容貌を持つことを自覚し、自分は
日本国にとってはただの「お客さん」に過ぎないと思っていた。ところが、自分の先祖であるアッシリアの人々が大昔の日本にやってきて日本の町々を建て上げたことを知り「ここは自分の国でもあるんだ。ここにいていいんだ」と思えるようになったという。

 ルーツを知ることは、国際関係の改善に寄与する可能性もある。今日の日韓関係は、韓国が政治的な思惑から歴史問題を蒸し返し取り上げ、複雑な関係になっている。ところが、七世紀の朝鮮半島で、新羅による武力侵攻を受けた百済の国の人々が大挙して日本に渡来し、日本書紀や古事記の成立に大きな影響を与えただけでなく、天皇家との血統的なつながりまで指摘されるようになってきた。日本の成立自体に韓国(朝鮮半島)が大きな影響を及ぼしており、新羅と百済の関係が韓国と日本の関係に投影されているともいえよう。

 当時から今日までの間に日韓の間にはさまざまなことが起きているので、当時の関係だけをもってして、日韓関係を論じることはもちろんできないものの、日韓融和の端緒となる希望を感じる。

 時間軸と空間軸の中に自分を位置付けると、点にもならないような浮草のような存在であっても、自己のよってきたるルーツを知れば、しっかりと大地に足を付けて生きていけるような気がする。

2013/10/15

 ボランティア活動のひとつに傾聴ボランティアがある。主に高齢者のそばでその人の人生体験や時々の思いに耳を傾け、きいてさしあげることである。「聞」ではなく「聴」の字を用いているように、きくのは情報ではなく、語る人の心に耳を傾けるのである。

 コーチングセミナーに参加しても、最初に言われることは傾聴である。その人が誇りに思っていることも、人を恨んだりしているマイナスの感情も、これからの人生に対し積極的な思いも消極的な思いも、共感して聞いてあげることで、語る側は安心感を持つことができる。マイナスの感情に共感を示すことはその様な感情を増長させることになるからよくないのではないかと思われがちだが、そうではないようだ。人間の良心の働きで、マイナスの感情も受け止めてもらうことで消滅し、次の段階に進むことができるようだ。

 共感してほしい、心に寄り添ってほしいと思うのは凡人に限らない。聖人といわれる人も例外ではない。小説『イエスの涙』(アートヴィレッジ発行、ピーター・シャビエル著)は、イエス・キリストの「私の心は誤解されてきた。私の心情を理解してほしい」という霊界からの啓示を受けた一女性の証言等が、カソリックやキリスト教の他の会派の司祭が集う会議の場で紹介され、イエスの心情の内容それ自体のみならず、教義の解釈や聖職者の結婚問題にも関連していく様子を心のひだに沿うような繊細なタッチで描く、秀逸な作品である。

 とりわけ問題となるのは、イエスが十字架に磔にされて殺されたことが神とイエスの最初からの願いであり、十字架上の死は必然的なものであったのかどうかという点だ。

 伝統的なキリスト教の解釈では、イエスが十字架で苦難を受けることを預言されたとき、これを止めるペテロを見て、「サタンよ、引き下がれ」と言われたこと等を引用し、必然的なものであったとする。

 それに対し、この著書のもう一人の主人公である神父は、その様な解釈では、神が必然として予定されたことを実行に移したユダヤ教信徒や、イエスを逮捕に導いたユダがその後悲惨な運命をたどっている事実を説明できないとして、イエスの十字架上の死は必然的なものではなかったこと、とりわけイエスの運命が決まる前にゲッセマネで祈られたときに、三弟子が心を一つにできずイエスを守ることができなかったことにより、イエスは十字架への道を行かざるを得なくなったのであり、生きて伴侶を得、家庭のあるべき姿を示すことが本来の使命であったのではないかとする意見に与する。

 人類救済の願いを持ちながらも、神の期待に応えることができない無念の思いと、十字架に対する後世の誤解に対する切ない心情が吐露されている。人の心情により歴史が動いてきたのであれば、もっと心情に寄り添うことで、各種の問題解決が図れるかもしれない。