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2011/12/15

 人間は成長過程において、先人がしていることを模倣することで能力を身につけていく。「武道」や「茶道」のような「道」に限らず、人と話すという日常的な事がらにおいても、やり方やタイミングを体感したり認識したりすることで、次第にひとつひとつの動作や発語の意味や重要性を理解するようになる。最終的な目的は、目に見えない心をみがくことであっても、まずは目に見える形から入っていくことが分かりやすく効果的でもある。

 一方、このように形から入っていこうとしても必ずしもうまくいくとは限らないこともある。近代の市民革命は「君主による支配」を否定して法律という形を伴うものを根拠として国政を行う「法治主義」を実現したにもかかわらず、ドイツではヒトラーの登場を許し、人権の甚だしい蹂躙をもたらしてしまった。それは、法治主義という形式を作ったことで安心して、人権の保障に敏感でなかったからではなかろうか。形式さえ作ればそれで良いというものでもないことを、われわれは学ばなければならない。

 ただ、「形を整えることによって自分の心構えをただし、内的価値を高めたい」という明確な動機があれば、形から入ることは大きな成果をもたらしてくれる。

 名著『修身教授録』の著者であり、立腰教育の提唱者である森信三氏も、「人間は心身相即的存在ゆえ、性根を確かなものにしようと思えば、まず躾から押さえてかからねばならぬ」と述べている。

 人間は、子どもを育て、文化を継承し、安らぎを得る場として家庭を作ってきた。単身世帯の増加によって、社会を家庭単位で構成するのではなく個人単位にした方が良いとか、結婚という事がらに行政は関与しない方が良いという意見が聞かれ始めた。夫婦の心が離れてしまっていれば、さっさと別れた方が子どものためにも良いという人もいる。

 しかし、家庭とか夫婦という形は人間が長年かけて最良のものとして作り上げたものであって、簡単になくしてしまうと将来に対する禍根が大きい。とりわけ、心が離れてしまった夫婦でも、子どもの幸福の観点からは離婚せずに維持した方が深刻度は低いというデータが出ている。当の夫婦各員にしても、愛する器を大きくする機会ととらえれば、維持することに積極的な意義を見出すこともできよう。恋愛結婚でも、もともと真の意味で愛があったという保障はないのだし、むしろ愛があるから結婚するというよりも、結婚することで愛を育んでいくと考えた方が当たっている気もする。動機が良ければ、形から入り形を守ることで、忍耐強く寛大な個人と安定した社会が作られるのではなかろうか。

2011/11/15

 何かを学んで知識を増やすとともに、知恵も身につけたい。

 例えば歴史を学ぶ目的は知識を蓄えることではなく、学びから教訓を得て現代に生きる自分の生き方を豊かにする知恵を得ることにあると思う。カレーライスに例えれば、知識とはジャガイモ、人参、玉ねぎのような一つ一つの野菜であり、知恵とはそれらが混在して生み出す絶妙な味のようなものだ。良く煮込んであって野菜の形が見えないからといって、野菜が使われていないのではない。見えないながらも絶妙の味を生み出すのに貢献している。同じように、人はさまざまな学びから知識を得、その過程で気づきを深めることができれば、ひとつひとつの知識は忘れても、智恵を持つに至ることができるのではなかろうか。

 ある会合で、人間の本性は善か悪かが話題になった。博覧強記とあだ名されるA君は、孟子、荀子、ソクラテスやマキャベリ等の言葉を紹介した。しかし、参加者の一人から「君の知識が豊富なのは分かったが、君自身はどう思うの」と尋ねられた時、自分の意見を言えなかった。一方B君は、他者の意見を紹介することはしなかったが、「本性は善だと思う。人は人の心を傷つけたり悪事をすると良心がうずいて苦しむけれど、人の役に立つことや善行をしたからと言って邪心の力が働いて苦しむということは通常ないからだ」と言った。B君の発言が終わるや、知恵がもたらす心地よい沈黙が広がった。

 それでは、知識を得、自分の体験と結び付ける中でそれを知恵とするにはどうしたらよいだろうか。私はフランスの画家のゴーギャンが南太平洋のタヒチで描いた絵のタイトル「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」の質問を常に頭の隅に置きながら生活する中で、天から恵みのように与えられることがあるのではないかと思う。悠久な人間歴史の中に存在する自分という存在の実存的な意味を、宗教的・哲学的に考察することで、共に生きる同時代の人々との間で豊かな人格的交流がしやすくなる。

 私はそのためには、古今東西慕われている聖人の活動をより多面的に考察することが大きな力になると思う。イエスや釈尊の功績は良く論じられるが、彼らは何を悩んでいたのか、彼らがしようとしてできなかったことは何か、彼らがしようとしたことが全部できていれば人間は完全な幸福になれたのか、という点についてあまり論じられていないように思う。

 一方、イエスや釈尊は天に通じていたとすれば、彼らの役割はその時代の課題を解決しようとする「使命」にとどまらず、歴史の初めから存在している「天」の願いに呼応しようとする「天命」と言えよう。「なにごとのおはしますかしらねども かたじけなさに 涙こぼるる」(西行法師)という天の恵みを実感し、さまざまな学びから天の恵みの詳細を知る(知恵)ことができれば、天の願いに自分の命をお返しする(天命)ことができるかもしれない。

2011/10/15

 卒業論文を書いていた大学生の時、指導教官から「太田君、論文の目次ができたら半分できたようなものだよ」と言われたことを覚えている。目次は研究活動の枠組みを示しており、起承転結というパターンで論文を書くにしても、「これまでの研究の調査と問題点」「取り上げる事項とその理由」「実験方法とデータの評価方法」「残された問題」等がおおまかにでもイメージできなければ目次は作れない。指導教官にしてみれば、学生が持ってくる目次を見れば、どこまで分かっているかが分かるわけだ。

 法律を起草する人には透徹した枠組みの構想力が求められる。日本の民法は、国民生活全体を規律する一般法だが、わずか1000条あまりの条文で、さまざまなことが起こる国民の権利義務関係全般の枠組みを提示している。その構想力に敬服する。

 団体の活動をより積極的に行うためにワークショップを行って意見出しを行うことがある。「○○のために何をしたらよいか」というテーマで行う際、まず当初は、参加メンバー同士の話し合いを通して①そもそも自分たちは何を目的として活動しているのだろうか②個別のテーマの活動をしようとするならメンバーの誰に相談したり一緒に活動すればうまくいくのだろうか、ということが分かればOKだ。そのために、目的に対する思いを述べ合って相互理解を深めたり、個別テーマに対し同じ関心を持つ者同士が集まり活動の企画や設計を行う。このようなワークショップは講演会とは異なり、主催者は何度も準備のミーティングを行うのが通例だ。その過程で、ワークショップについてだけではなくその団体の活動の枠組みに対する認識も深まり構想が練られていく。

 限りある自分の人生をいかに行くべきかを考えるときにも、豊かな構想力があれば充実したものとなりやすい。人生には職業を中心とした使命分野と、家族を舞台とした愛の分野があるが、それぞれ何を基盤として枠組みを構想したらよいだろうか。

 職業は、心ひかれたり使命感を持てるものを選ぶことが肝要と思う。愛の分野は真理を知り体得することが大切だ。仏教では「十如是」(「相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等」)という出来事の正しい解明のための枠組みが示されていたり(石原慎太郎著『法華経を生きる』幻冬舎文庫)、キリスト教を基にした思想では、神相(普遍相・個別相)と神性(心情・ロゴス・創造性)という枠組みで、神の子たる人間を規定したりする。どのような宗教や教えであれ、人生の早いうちに何らかの真理に出会えば、自分を客観視し、自分の行動をその真理の基準によって反省し、成長の度合いを自己認識できるのではなかろうか。

 この「毎月ニュース」の号数は今月号から3ケタになった。より高次元で普遍的な世界観に支えられた内容の枠組みになるよう、さまざまな体験を積んで構想力を磨いていきたい。

2011/09/15

 殺人でも痴漢でも冤罪の汚名を着せられて何年も投獄された人の悔しさは察するに余りある。「私はそういう人間ではない」と声を大にして叫びたいと思う。

 日本は戦後、マッカーサーの勧告を受けて、国務大臣松本蒸治を長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を発足させた。しかし、松本案は否定され、戦争放棄等のマッカーサー三原則を盛り込んだ憲法が急いで制定された。それ以来憲法は一度も改正されていない。同じ敗戦国であるドイツは占領下で憲法を制定せず暫定的に基本法を作ったが、そこには「この基本法は、ドイツ国民が自由な決定によって議決した憲法が効力を発する日において、その効力を失う」と規定している。マッカーサーはもしかすると、日本は独立回復後に自主憲法を制定するだろうと考えて、短期間のうちに憲法草案を作ったのかもしれない。「60年以上の長期間改正されることのないものとして作ったわけではない」と、死後の世界で驚いているかもしれない。

 高等宗教の聖人も「そういうつもりはない」と死後の世界で思っているのではないかと思われることがある。

 仏教の教えとされる輪廻思想は、人が何度も転生し、また動物なども含めた生類に生まれ変わるというものだ。私はこの思想になじめずにいた。自分が食したのと同じ種類の動物になるかもしれないというのは、何か気持ちが落ち着かない。亡くなった人しか知りえないことを知っている人がいる以上、生まれ変わりと考えるほかに考えようがないとも言われるが、亡くなった人が死後の世界から協助(情報提供)していると考えられないこともないのではないか。僧侶から牧師になった松岡広和氏によれば、「釈迦は決して人の死後の世界について言及しませんでした。」(『イエスに出会った僧侶――ありのままの仏教入門』いのちのことば社)という。そうであれば、釈迦は死後の世界で「私が輪廻思想を言ったと思われているけれどもそうではないんだ」と思っておられるかもしれない。

 また、イエス・キリストは独身のまま33歳で亡くなった。カソリックでは、神父や修道者は、ただ神に向かいイエスに倣って独身で生きる。そのように人々と教会に奉仕する潔さには敬服する。しかし、植物も動物も雌雄の相互作用によって繁殖し生存を継続しているが、そのような神の被造物である自然の姿からはかけ離れているのではなかろうか。旧約聖書の創世記にも「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(1章28節)、「人が独りでいるのは良くない」(2章18節)とある。「独身でいたのは結婚する前に殺されたからにすぎない。独身を勧めたわけではない」というイエスの声が聞こえてきそうだ。

 人間世界においては、創始者や出発者の思いがそのまま正しく伝わる保証はどこにもない。最初の状況に思いをはせるとともに、こだわりを捨て去ることが、正しい理解につながるのではなかろうか。

2011/08/15

 人間が動物と違って素晴らしい文化を創ってきたのは、真・善・美・聖という価値を追求する欲望と、それを実現しようとする欲望が、原動力になっていると思う。

 古今東西の著名な科学者や哲学者は、読んでもよく分からない科学書や哲学書を体系的な一貫性を持って書くのだから、真理探究への情熱には敬服する。しかし、そのように価値追求に熱心だからといって、価値実現に熱心とは限らない。立派な書物を完成させても、そのことを周囲の人の幸福や人類の平和や福祉に結び付ける意欲を欠けば、変人と言われかねない。ある高名な哲学者は、大学で教壇に立ち学生を前に講義をする時間なのに、考えるのに忙しくて何十分も無言で立っていたという話を聞いたことがあるが、価値実現にもっと意欲を持ってほしいと思う。

 一方、あることの価値が最高だと信じて普及に熱心な人は、価値実現欲の旺盛な人と言えよう。24時間そのことを考え、早朝でも深夜でも普及活動に飛び回る価値実現の情熱には敬服する。しかし、そのように価値実現に熱心でも、価値追求欲が弱いと、自分が実現しようとしている価値を全体の中で位置付ける努力がおろそかになり、周囲との調和を欠いて、変人とみなされかねない。例えば、特定の宗教の普及活動に熱心なのは、そのこと自体は良いことでも、他の宗教もやはり同様の目的を持っているのだから、他の宗教を攻撃してまで自分の信じる宗教を普及させようとするのは、偏狭で自分勝手と言われても仕方がない。

 知り合いのМ氏は、両方の欲望のバランスがとれていて素晴らしい。大学時代に専攻科目以外にキリスト教と外国語に関心を抱き、熱心に学んだ。卒業後、米国等で10年以上住んで事業活動を行ったのち日本に戻り、貿易事業をし、その後地元の中小企業に優秀な外国人実習生を紹介する活動をしている。従業員を雇用する企業の経営者であるとともに、牧師として説教もする。貿易事業でロシアに行った時は、ロシアの同業者から酒と女性の提供の申し出を受けても固辞する「変わり者」で有名だったという。海外からやってくるバイヤーにも流暢な英語で、皇室などの日本文化の本質を分かりやすく説明し尊敬を集めている。

 М氏はなぜバランスがとれているのだろうか。海外生活を通して様々な価値観があることを知り、世界全体を包括的に把握するための精度の高い情報を得ようとすることが、価値追求に貪欲に向かわせているのではないか。とともに、キリスト教倫理を生活で体現しつつ企業経営することが、価値実現につながり、高次のレベルで相互補完しているのだと思う。

 創造主たる神は、人々が相互に啓発し合いながら幸福に向かうようにと価値実現欲を与え、向かうべき真・善・美・聖の価値がより高次元の普遍性を備えるようにと価値追求欲を人に埋め込まれたのだとすれば、両方の欲望をバランスさせることが、とても大切と思う。

2011/07/15

 私という存在は偶然的なことがらなのか、それとも何らかの前提なり計画があって存在するようになった必然的なことがらなのだろうか。

 例えば、数千年も前に地球に巨大な隕石が偶然に衝突した影響で生態環境が全地球的に一変し、それまで地球の覇者だった恐竜が絶滅して人間の先祖の哺乳類が生き延びた結果、人間が誕生した、という説がある。その説を信じる人にとっては、人間の存在は偶然の存在にすぎないだろう。

 また、形質が突然変異し環境に適応したものが生き残る、というダーウィンの進化論を信じる人にとっては、人間の手足の指が4本でも6本でもなく5本であることは、たまたま五本指のものが生き残ることに適していた結果であり、偶然のできごとと考えるのではなかろうか。

 一方、私が存在していることは必然であるとする考え方もある。

 神が貸してくれた宇宙製造機械には重力や電磁気力の大きさを変えることができるツマミがついていて、そのツマミの調整がきわめて正確なので、われわれはこの宇宙に住んでいるのであって、少しでも狂うとこの宇宙は興味ある何物も生み出さない不毛のものとなる、という「人間原理」という考え方がある。この考え方によれば、「この宇宙があって人間がいるのではない、人間がいるから、いや、人間がこの宇宙を認識するから、この宇宙は『こういう宇宙』になっている」(長沼毅著『宇宙がよろこぶ生命論』ちくまプリマー新書)という。この考え方によれば、あたかも神は人間の存在を前提に宇宙を創造したともとれ、人間は偶然の産物とは対極にある必然の極致となり、特別な存在となる。

 このような形而上学の議論に対しては、興味を抱く人たちがいる半面、何の関心も示さない人も多い。「自分の存在が偶然だろうが必然だろうが、生きている現実を直視して日常の責任を果たし楽しく生きていけばそれで良いではないか」という意見が聞こえてきそうだ。

 ちなみに私は、自分の存在や日々の活動の内実が偶然と考えるよりは、必然と感じて生きる方が、使命感を感じやすく充実した人生を送れるのではないかと思う。

 例えば、何か特定の職業についているとして、いろいろな職業に偶然に出会って、採用条件や雇用環境に自分が適合した職場にたまたま勤めていると考えるよりは、職業とはcalling(「召命」転じて「天職」)、つまりその仕事をすべく神から呼ばれたものであって、自分でしか世界に貢献できない内容があるとして、何らかの必然性を感じながら職責を全うしていこうとする方が、自己の価値を感じられるのではないか。

 人生における偶然を全否定するものではないが、その際も、「『偶然』は自由の徴(しるし)であって、目的がないこととはちがう」(ジョン・ポーキングホーン著『科学者は神を信じられるか』講談社ブルーバックス)ことを肝に銘じておきたい。

2011/06/15

 会議等での決定事項が実践され、次の段階へ円滑に移行するためには何が肝要だろうか。

 コミュニケーションを研究する会合などでは、「ふりかえり」をとても大切にする。話し合いの最後に、メンバーが話し合いに参加していて気づいたことを順番に述べて行くのである。「こんな考えに出会って驚きました」「Aさんの発言はこんな局面に活かせると思いました」「前に学んだ考えとの共通性に気づきました」など、フランクに気づいたことを述べる。新たな気づきが生まれることが多く、楽しい時間である。

 ファシリテーターの養成を目的とする会合では、その場のファシリテーターを選んで会を進める。話し合いが終わると、ファシリテーターが効果的なファシリテーションを行っていたかを皆で検証し合う「ふりかえり」を行う。「参加者が楽しく自由な気持ちで参加するとともに、お互いに高め合うような意見交換が行われる場としていたか」という観点から、「良かった点」「問題と思われる点」「新たに挑戦したら良い点」ごとに、メンバーが率直に(人格否定はしない)意見を出し合う。とても貴重な成長の場であり、前段の話し合いの時間よりも、このふりかえりの時間の方が長くなることもしばしばである。

 このような「ふりかえり」の中で、認識の違いが浮き彫りになったり、活動の意義を再認識することにもなり、活動の継続にとって大きな役割を果たす。

 活動を継続させるということでは、似たテーマに関心を持つ人が集まれるようにすることも効果的だ。メインテーマのもと、より具体化したテーマごとにグループを作るために、参加者全員が自分が関心のあるテーマを用紙に書いて、それを見えるように持ちながら、部屋の中を歩き回ったことがある。似た関心事を持つ人たちがおのずと集まるようになる。

 同じ関心事を持つ人が集まるようにしてさらに議論を深めるということでは、OST(オープンスペーステクノロジー)という手法も、とても自由な雰囲気で刺激的だ。先着数名にテーマ出しをする権利を与え、準備された用紙にその場で議論したいテーマを書き込んで、参加者全員に見せる。テーマ出しが終わると、会場に設定された討論場所に各テーマが割り振られ、参加者は話し合いたいテーマの場所に移動して話し合う。

 「グループの中で貢献できていなかったり学習できていないなら、自分が学んだり貢献できるところに移動すべきである」という考えで運営されるので、討論メンバーの出入りが結構ある。自然界でハチが花から花へ移動して交配を手助けしているように、グループ間を移動する人は他のグループでの議論を紹介し、「ミーティングの交配」をすることが期待されるところがダイナミックだ。このような、参加者の自主的な参加による話し合いのやり方も「ふりかえり」と同様に、次につながりやすいコミュニケーションの方法だと思う。

2011/05/15

 折り紙やプラモデル等で何かを作るときに、手順を間違えると当初思い描いたものと異なるものとなってしまう。人間も同じで、人生を生きて行くうえでの目標設定の順番や教育を受ける順番を間違えると、思い描く通りの人生を送ることができなくなりかねない。

 人は人生の過程で様々なことに出会う。人のために良かれと思ってしてあげたのに、真意が伝わらず残念な思いをしたり、それでも忍耐するなどすると人格が成長・完成していく。ある程度人格が成長していないのに結婚して子女をもうけると、離婚したり、最悪の場合は育児を放棄し子供を虐待することにもなりかねない。「家庭の形成」の前に「人格の成長」の目標設定をすることが重要ではなかろうか。

 また、困っている人を助け、社会を良くしたいという「社会貢献」に対する思いは、自分の子供が独立した後、とりわけ強くなるようだ。さまざまな人のお陰で生きてこられたことに対する感謝の念と、次世代に少しでも良い社会を残してあげたいという親心がそれを支えている。「家庭の形成」を終えて、自分の職業分野や社会的立場が明確になってきてからの方が、現実的で力強い「社会貢献」の目標設定ができるような気がする。つまり、人生における目標設定は原則として、「人格の成長」、「家庭の形成」、「社会貢献」の順番で行うことが良いように思う。
 
 子どもに与える教育の内容についても順番が大切だ。「知識・技術教育」の前に「規範教育」を行うことが必要だ。コンピュータに関する知識や技
術が傑出しているからといって、人に迷惑をかけてはいけないことや社会人としての規範を教えずに、知識や技術ばかり身に付けさせると、ハッカーになって社会に多大な被害を与えることにもなりかねない。生命工学に対する関心が強いからといって、生命倫理や人間の尊厳性に関する教育を怠ると、人が踏み込んではいけない領域にまで踏み込み、世界に脅威を与えるかもしれない。

 ただ、「規範教育」は子どもの心を耕したうえで行わないとうまくいかない。校則という規範を生徒に守らせようとただ声高に要求しても、教師と生徒の間に信頼関係や情的なつながりがないとうまくいかない。法律という規範を子供に守らせようと親がどれだけ法律を教えても、幼少のころに親から愛情を注がれずに育ったり、真美善の価値の大切さに気付かせるような「心情教育」がなされていないとうまくいかない。「規範教育」の前に「心情教育」をすることが重要ではなかろうか。つまり、子どもに与える教育は原則として、「心情教育」、「規範教育」、「知識・技術教育」の順番で行うことが良いように思う。

 家庭内における愛にも順番がある。子供にすれば、自分の命の出発点である父母がいがみ合うと、自分たちの魂が傷つけられていると感じる。「夫が1番、子どもが2番である」(桜田淳子著『アイスルジュンバン』、集英社)。

2011/04/15

 3月11日、仙台沖を震源とするM9の地震によって発生した大津波は、防潮堤を乗り越えて甚大な被害をもたらした。

 地震と津波による被害は天災と言えよう。それに対して、福島原子力発電所が被災して大気中と海中に大量の放射性物質を放出した事故は、これほど大きな地震と津波は想定しておらず、また電力確保という公益的活動であったとしても、わざわざその場所に建物を建て電力供給施設を作ったのだから、明らかに人災である。「想定外」という言い訳は免罪符にはならない。

 原子力発電所の事故が甚大な被害をもたらすことを、われわれはチェルノブイリ事故等で学んだはずだった。福島原発を設計するときに、専門家が衆知を結集して一定の大きさの地震や津波にも耐えられるようにと考えたと思うが、結果的には甘すぎたということになる。

 自然の怒りとも受け取れるような大きな災害を前にして、ただうなだれているわけにはいかない。今後とも、われわれは「想定外」という捉えどころがないものに対して、対処の仕方を考えなければならない。専門家は「被害が起きないようにすることと共に、被害が起きたらどうするかも考えるべきだ」とか「被害が小さくなるように危険は分散すべきだ」と言うが、いずれも大切なことだと思う。

 福島原発を作った東京電力は、政府と歩調を合わせて電力事業にまい進してきたとはいえ、民間企業であり、電力自由化の波を受けて存続するためには利益を出さなければならない。

 そのために、結果的にはそれほど大きな津波は来ないとして、津波の対策にかかる経費を少なくし、競争に勝てるようにしたのではなかろうか。平安時代には三陸地方では貞観津波という大きな津波が来たというが、そのことも考えて原発の設計をしたのだろうか。原発の設計や運用に係る科学者の方々は日本でも一流の科学者だろうが、その思考方法は少しも科学的ではなく、きわめて主観的だったのではないか。

 しかし、これはひとり原発の設計にかかわった東京電力だけではなく、日本人全体の問題であり、日本人全体が反省しなければならない問題なのではないだろうか。日本人は、傲慢さを捨てて自然の前に謙虚にならなければならない。

 戦後の日本は、公共性や他者のために生きようとする武士道に見られるような宗教性をあまり顧みなかった。時に荒れ狂う自然の中にいる人間は、智恵深くないと生きていけない。真に役立つ知恵は、真理を全体として把握しないと得られない。日本人は「いかに」ではなく「なぜ」を考える宗教性をより身につければ、良心の働きが刺激され、科学本来の力がより人間の幸福につながるように発揮できると思う。一方、宗教家はもっと科学に関心を持ち科学者と対話をすれば、宗教の力をもっと発揮できると思う。大震災で亡くなった方々のためにも、宗教と科学の協力によって真理を全体として把握し、正直な文化を作っていきたい。

2011/03/15

 昔は、小さい子どもは家のお手伝いをして小銭をもらい、近所の駄菓子で顔なじみのおばさんに声をかけられながら小さな買い物をした。就職して得た初任給で、育ててもらった感謝の気持ちを込めて親のために贈り物をした。

 今は、近くのコンビニエンスストアやショッピングセンターで、自分の欲しいものを不労所得で得たお年玉で買う。売り手との人格的交流のない場における消費の主体として、売り手と対等の立場で「等価交換」という社会活動を繰り返していると、その後、家庭、学校、地域、会社においても、そのような発想でふるまいかねない。

 学校の授業に興味がなかったり役に立たないと思えば、その授業は、忍耐して黙って聞くという「労苦」の価値と「等価」ではないと感じ、席を立って歩き回ったり、教室を出て行ったりする。それは「行儀が悪い」とか「不真面目」という徳性の問題というよりも、幼いころから刷り込まれ植えつけられた「等価交換」を求める消費の主体としての態度に忠実であることの結果の現象と見ることができる(諏訪哲二著『オレ様化する子どもたち』、内田樹著『街場のメディア論』参照)。その結果、「退屈な授業だと思っていたが、終わりまで聞くと面白かった」と気づく喜びを得たり感謝する機会までも奪っているとすれば、大人は子どもたちを「便利」のわなに陥れてしまっていると言えないか。

 まして、直接的に人を便利に使うことは要注意だ。金銭は金貸しから借りるのが筋だが、友人だと言いやすく便利だとして何度も借りていると、次第に信頼を失う。事業の資金繰りがうまくいかないときは、関係者に現状を率直に話し、必要なら公的整理に頼るのが筋であって、新たな融資を重ねるべきではないことが多い。まして、子どもを連帯保証人にすることは、その子の将来の芽を摘むことにもなりかねず、絶対にしてはならない。育てた恩をかさにきて便利に人を使ってはならない。

 労働力に期待して人を便利に使ってもならない。妻が内助の功を発揮して夫を支えること自体は良いことだと思うが、夫が妻に感謝の念を持たず、ねぎらいのことばもかけず、妻の自己実現の思いにも耳を貸さないとしっぺ返しをくらう。「男女共同参画社会」が声高に言われている理由のひとつは、歴史的に男性の女性への横暴な振る舞いが多々あったことだと思う。

 妻が早く亡くなったとき、娘に自分や息子の生活のための家事をさせるために、嫁がせもせず、ずっと家に居させることも良くない。小津安次郎の映画「秋刀魚の味」は、その教訓を、恩師と娘の家庭と、主人公と息子・娘の家庭を対比させながら、しんみりと描いている。

 制度には作った趣旨があり、人には尊厳性がある。また人は夢を持っている。そのことに注意して筋を通し、配慮して判断することが肝要だ。「便利だ」「楽だ」と思ったときは、立ち止まって考え直してみる慎重さが必要ではなかろうか。

2011/02/15

 人は、商品、概念、日常の現象、そしてわが子に名前を付ける。よく観察すると、名付けた人の想像性に感嘆したり、いとおしむ気持ちが感じられて、興味が尽きない。

 私は長男の名前は尊敬する方につけてもらったが、長女の名前は自分でつけた。自分でつけると、「これで良い」とはいつまでも思えず、区切りをつけるのに苦労した。そのせいか、知り合いが自分の子につけた名前で印象に残っているのは、女の子の名前ばかりだ。「深香(みか)」「善美子(よしみこ)」に触れた時は神秘的な感じがし、中原中也の詩集の愛読者である友人が「野乃花(ののか)」の名を娘につけたことを知った時は、彼らしいとほくそえんだ。名前は時代を反映していることもある。佐藤朔慶応大学元塾長の本名は、日本が日露戦争でロシア(熊)に勝利したことにちなんで付けられた「勝熊」だという。

 明治維新のころ、西洋から日本へ入ったのは物質文明だけではなかった。ものごとの概念を示す言葉も入ってきた。福沢諭吉は1870年出版の『西洋事情』第2編の中で、「洋書を翻訳するに臨み、或は妥当の訳字なくして、訳者の困却すること、常に少からず」として、「リベルチ」の訳語として「自由」の語をあてた。中国においてはすでに「自主」「自専」「自立」などの訳語があり、日本においても「自在」の語があったが、諭吉は森山多吉郎という人が案出した「自由」の訳語を『西洋事情』に採用し、同書が広く読まれたために、この語が一般化するようになったという(岩波文庫『法窓
夜話』)。官製のものでなく、多くの人の心に届いた言葉が市民権を得て今日まで続いていることが愉快だ。

 法律の勉強は言葉を覚えることだと言われるほど、次から次へと新しい言葉が出てくる。しかも、同じような行為をしてもそれが行われた環境が異なると、罪の名前も刑罰の程度も異なる。他人が庭に飼っている鯉を盗めば「窃盗罪」で10年以下の懲役に処せられるが、洪水で池の水があふれ流れ出て路上にいる鯉を持ち帰れば「占有離脱物横領罪」となり、量刑のうち懲役は1年以下と軽くなる。両方とも人の財産を故意に盗むという点では同じと思うが、環境条件により想定される盗人の気持ちにまで想像しているようなところが興味深い。

 日常の現象に名前を付けるのも、言葉遊びとしては最高だ。ゴミ袋は普通折りたたまれて小さな袋に入れられて売られている。小さな袋から1つずつ取り出して使うが、最後のゴミ袋を取り出したとたんに、それまでゴミ袋を収納する役割を持っていた小さな袋はその使命を終えて、最後のゴミ袋に入れられる最初のゴミとなってしまう。この現象に出会って奇妙な感覚に捕われた佐藤雅彦氏は、これを「日常のクラクラ構造」と名付けた(『毎月新聞』毎日新聞社発行)。それならば、会社の経営に関する助言をするコンサルティング会社の経営がうまくいかない現象は、さしずめ「冷や汗の矛盾構造」とでも名付けようか。

2011/01/15

 人に何かを伝えたり主張するときに、それ事体を直接言うよりも、過去の自分の体験や書物等で知った事例や、将来起こりうる複数のシナリオで話した方が、分かりやすく受け入れてもらえることがある。

 仕事がら中小企業の経営者から経営についての相談を受けることがある。そのとき、「御社はこのような状況だからこのようにしてみてはどうですか」と直さいに言うと、「会社の様子を十分に分かっていないのに思い付きで言わないでほしい」と反発される虞がある。そのようなときは、その会社と同じ業種、規模の会社が抱える同じような問題が解決に至った事例をお話しすると、反発されることなく気づきを得ていただき改善に向かうことがある。

 事例で話すと分かりやすいということもある。聖書では、イエスキリストがたとえを用いて弟子たちに説明する場面がいくつも出てくる。「天国」とはどういうものかについて、「畑に隠してある宝」「良い真珠を捜している商人」「あらゆる種類の魚を囲み入れる網」(マタイによる福音書)のようなものであるとの説明を受けると、農民、商人、漁師たちが天国のイメージをつかみやすい。

また、不確定な要素があるときは、それを変数として複数のシナリオ(将来予測)を作り、それを提示して議論を進めていくと考えやすい。

 今日の日本の対露外交や対中外交は、領土の帰属問題をめぐりどのように展開していくか予断を許さない状況だ。領土所有に関する法的正当性を主張することだけで問題が解決するとは思えない。当事国の国民世論の強さ、各国の経済状況や経済の相互依存状況、軍事費の増加傾向や軍事的連携関係、さらには米国、韓国や北朝鮮の動向等の多くの要素が絡んでくる。

 それらが、どのようなタイミングでどのように変化するかをよく観察しながら、交渉の仕方を考える必要がある。国民が自国に誇りを失うことなく、国際的な孤立に突き進んでいくこともないシナリオを描くとともに、それがうまくいかないのはどういう場合かをできるだけ網羅的に列挙して考察することが大切だ。

 聖書の記述もたとえだけではなく、シナリオが描かれているところがある。イエスが神から使命を託された方であることを民衆が悟り、イエスを王とする神の王国が地上に建設されるシナリオ(イザヤ書九章)が描かれている一方で、イエスの価値を民衆が理解できないときのシナリオ(イザヤ書53章)も記述されている。歴史は後者が現実になったことを示している。

 事例やシナリオで話すときは、現実に対する注意深い洞察と想像性、そして共に未来を作っていく気構えが必須なものだと感じる。