Skip to main content.
*

2010/12/15

 戦前は家父長制のもとで親族が共に住む大家族が普通だったようだが、最近は、夫婦と子の世帯が減少して単身世帯が増加している。世帯人員数の平均も3人を切るようになった。家族の形も様変わりしてしまった。

 かつて、家庭科の教科書に、家族の形として、1組の夫婦と未婚の子が住む核家族だけでなく、事実婚、同性婚、結婚を選ばなかった女性と子からなる母子家庭など多様な形態を示すものがあらわれ、物議をかもした。また、社会を家族単位ではなく個人単位で考えることを唱える学者も現れた。

 しかし、私は、家族の形は、血のつながりを大切にしたものが基本形であるとして教えるのが良いと思う。さまざまな事情から、これと異なる家族の形を取っている人々の選択を否定するものではないが、血のつながりが持つ力を考えるとそのように思う。

 人は愛により生命を得て、その愛と生命が続いて血統となる。母親が我が身を省みず犠牲的に子どもを守るなど、血のつながりが持つ力は強烈だ。ユダヤ民族が国を失い2000年近くたってからイスラエルを建国することができたのも、韓民族が一族の系図である族譜を何よりも大切にするのも、家族という血縁共同体の持つ力が根本にあるからだと思う。

 その中でも、父母や祖父母、曾祖父母と共に生活する3世代同居、4世代同居の家族の中で育てられる子どもは幸福だ。人は人との相互作用の中で成長する。夫婦に第1子が生まれたとき、父母と子の3名からなる家族の間でなされる相互作用の回路の種類は4通り(3C2+3C3)であるのに対して、祖父母、父母、子の3世代5名からなる家族の間でなされる相互作用の回路の種類は26通り(5C2+5C3+5C4+5C5)、さらに4世代7名からなる家族の場合は120通り(7C2+7C3+7C4+7C5+7C6+7C7)となる。3世代、4世代同居の家族の間における人間の相互作用は、学校における校長先生、担任教師、生徒という社会や、会社における社長、部長、課長、一般社員という社会における相互作用の縮図のようなもので、家庭に居ながらにして子どもは社会を体験し生きていく知恵を身につけることができる。

 さらに、祖父母、父母、子という縦の関係と、兄弟姉妹という横の関係が共に存在する家庭は、太陽、地球、月という縦の関係と、水星や金星等の惑星と地球が持つ横の関係を同時に現わしており、家庭に居ながらにして太陽系や宇宙の存在様相まで体験できる。しかも、血のつながりによる愛の関係で結ばれた人たちと共にいるので、子どもは変幻自在に展開する愛の思いに触れながら生活できるという最良の環境だ。家族のあり方を考える際には、未来を作る子どもたちにとって最良のものを与える視点が最も重要であるという立場に立てば、血縁に基づく家族の力はどんなに評価しても、し過ぎることはない。

2010/11/15

 オバマ米国大統領は2009年4月5日にチェコ共和国のプラハで、核兵器のない平和で安全な世界を構築するために取るべき行動の道筋を説明した。このことが高く評価され、世界平和に関して何か具体的な功績があったというわけではないが、平和な未来への構想を示したとして、同年12月10日にノルウェーのオスロでノーベル平和賞を受賞した。

 ところが、そのノーベル平和賞受賞演説の内容は、プラハでの演説と同様のものではなかった。プラハ演説は、未来の世界のあるべき理想の姿を示したものであるのに対して、オスロ演説では、「武力行使が必要で道徳的にも正当化できると判断することがあるだろう」とした。

 具体的には「世界に悪は存在する。非暴力運動はヒトラーの軍隊を止められなかった。交渉では、アルカイダの指導者たちに武器を放棄させられない。時に武力が必要であるということは皮肉ではなく、人間の欠陥や理性の限界という歴史を認識することだ」と述べ、ブッシュ大統領の路線を踏襲するかのような印象を与えた。オスロでも、プラハと同じような平和の理想を掲げた演説を聞けるだろうと期待していた人は裏切られたと感じたに違いない。

 プラハで理想主義論を述べてからオスロで現実主義論を述べるまでの8か月の間に、オバマ大統領の考え方が変わったのだろうか。いや、そうとは思えない。一見矛盾するとも思われるオバマ大統領の2つの世界観を理解する鍵は、アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーが説教のために執筆し、後にアメリカ軍の中で広まっていったとされる次の「ニーバーの祈り」にあるかもしれない。「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別する知恵を与えたまえ」。

 理想を実現するために勇気を持って現実を変えていこうとするが、すぐには変えることのできない現実に等身大で向き合おうとする責任感を持ち続けるとき、理想と現実の対立が具体的な行動として統合されていく。

 このニーバーの祈りは、異文化の人々が共生していくヒントも示してくれる。ユニクロや楽天に限らず、外国人社員を積極的に採用する会社は今後増加するだろう。社員であれば、その会社の理念に基づく流儀に合うように変わってもらわなければならないこともある。とともに、人種、言語、また多くの場合は宗教に基づく考え方は、どれだけ変えようとしても変えることができず受容せざるを得ないものだ。変えることができない多様な属性がぶつかり合う中で、相互に学び合い新しい気づきと価値観が生まれる。そう考えてマネジメントしていけば、異文化が混在する混沌の中でも、多様なものが存在しながらも統合されていく妙味を体感できるのではなかろうか。

2010/10/15

 料理をしていて醤油が切れれば、昔は隣の人に借りていたが、最近は車で店に買いに行く人が多いと思う。ただ、付き合いがあれば借りやすいだろう。時間とガソリンをよけいに使うことはないのだ。隣の人は持っているのだから。

 高校のPTA連合会の研修に参加したら、生徒たちの職業選択の為に警察官、美容師、医師、会社員等さまざまな職業についている生徒の親が講師となって、職務内容やその職業を選んだ動機を話す講演会を定期的に開いているという活動報告があった。それぞれの業界の有名な人に講師となってきてもらうこともできるだろうが、それよりもいつもクラスで会う友人の親(自分の親となることもある)の話を聴く方が、身近に感じて刺激を受けやすく、多くの気づきを得ることができるのではなかろうか。隣の友人(やその親)が有益な情報を既に持っているのだ。

 宗教団体等に所属し熱心に活動している人たちの集まりでは、自分の子供をいかにしてその団体の活動に参加させるかがよく話題になる。経営者の団体でも自社の事業を子供に承継させることも話題になる。そのために、本部の教育部門の人や有名な経営者を呼んで講話を聞くイベントをするための企画会議をしたりする。しかし、その会議に参加しているメンバーの中に、子どもが既にその団体の活動に参加していたり、事業を承継していたりしているのであれば、遠方から人を呼ぶための企画をしている時間に、団体会員同士、または経営者同士でワークショップを開いて、子どもとの
接し方等を開示し合う会を持った方が手っ取り早いと言えないだろうか。そのワークショップに同席している隣の人は、自分に必要な情報や体験を既に持っているのだ。

 自分に必要なものや情報を隣の人が持っているとしても、そのことを知らないと相互に利用しあうことはできない。相互に利用しあうためには、地域、学校、職場などで出会う人に関心を持ち情報交換することが大切だ。会合でも効果的な自己紹介をし、「自分が人にしてあげられること」と「自分が人からしてほしいこと」を相互に開示し合うことが大切だ。

 隣の人と言った時、「近くにいる他人」という意味で最も近い究極の隣の人は配偶者に他ならない。配偶者は、子どもを持つなど、男も女も自分ひとりではどんなに頑張ってもできないことを可能にしてくれる貴重な存在だ。他の異性に目が移って浮気して離婚すると、自分に必要な多くのものを既に持っている人を失うことになる。神学の世界では、夫婦がひとつとなった姿は神の似姿だという。配偶者は自分を完成へと導くためのすべてのものを既に持っているのかもしれない。

 イエス・キリストが「汝の隣人を愛せよ」と言ったのは、精神論として言っただけではなく、「既に多くを持っている隣人を愛せば得られることが多い」という意味を言外にこめていると解釈するのは考え過ぎだろうか。

2010/09/15

 「愚者は体験に学び賢者は歴史に学ぶ」という。自分の体験は自分の人生にとって大きな意味を持つものの、時間も場所も数も限定されたわずかなものに過ぎない。それに対して歴史は、事件における人物の判断や行動を通して多面的に学ぶことができ、今日の世界とのつながりを考察すれば興味が尽きない。

 日本では唯一の被爆国として世界平和に貢献するという言い方をしばしば耳にするものの、世界の中では歴史に対する知識や関心がとても低いようだ。お隣の韓国の学生と日本の学生が歴史をテーマにした討論をしようにも、日本の学生は討論の基礎となる知識の量があまりにも貧弱で討論が成立しないと聞いたことがある。

 世界の中には、「歴史に学ぶ」どころか「歴史と共に生きている」と言った方がふさわしいような人々もいる。ユダヤ人がその筆頭だろう。

 ユダヤ人の王国は紀元70年ローマ軍により滅ぼされた。それから1900年近くもたった1948年に、各国で迫害されてきたユダヤ人が父祖の地パレスチナに結集し、新しい国家再建の悲願を果たした。この建国運動の指導者であるオーストリア人のヘルツルは、パレスチナに住むアラブ人との平和的共存は可能だと考えていたようだ。しかし、実際には建国当初から今日まで何度も戦争が起こっていることは周知のとおりである。

 それにしても、このような幻想のようなことが、しかも国連の管理下に置く決議が採択されるなど国際法上のお墨付きまで得て、なぜ実現できたのだろうか。

 イスラエルの首都エルサレムは紀元前1000年頃ユダヤ人の王ダビデが都に定めたところだが、ダビデの先祖にアブラハム、その子イサク、イサクの子ヤコブがいる。旧約聖書の中で神は、自分を紹介するのに「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と名乗っているところが何か所もある。また、「出エジプト記」などでは、民族を率いるモーセと神との対話が詳細に記述されている。このようなことから、「我らは神から召された民族である」という強烈な選民思想が醸成されたとしても不思議ではない。

 建国後250年もたっていないアメリカの人々も、歴史と共に生きていると感じることがある。2009年1月のオバマ大統領の就任演説で、「先人が大洋を渡り、この地に着き西部を拓き、硬い大地を耕し、戦い死んでいったのは我々のためである。だから我々もアメリカを再創造しよう。」と国民に呼びかけている部分がある。少なくともオバマ大統領の中では、建国以来今日までアメリカがたどってきた歴史を、あたかも自分の人生を振り返るような感覚で見ているのだろう。

 翻って日本人は、とても歴史と共に生きているとは言えないように感じる。もちろん、地理的条件やそれこそ歴史的要因が異なれば思考方式や文化が異なるのは当たり前のことだろう。しかし、今後の日本社会や外交を構想する上で、歴史に学ぶ意欲や歴史と共に生きる感覚がもっとあれば、共存共栄のビジョンを描き、より良い解決策が見いだせると思う。

2010/08/15

 私人間同様、国家の立法・行政・司法の場においても十分な議論がなされることが必要だ。

 国の行く末を案じ論じる国会議員が、どのような国家運営をするかについて議論することはとても大切だ。国民との間でも、議員同士でも生産的な議論を十分してほしい。

 内閣においても、十分な議論をしておかないと後で問題となることがある。英国のブレアー元首相は7年前に米国との同盟関係に基づいて、イラクとの戦争に加わった。そして今、内閣を十分尊重せず戦争の意思決定をしたのではないかと調査されている。

 日本では司法制度改革の一環として裁判員制度が始まり、刑事事件を扱う裁判に、国民の意見を取り入れ始めている。すでに裁判員を経験した人からは、参加して良かったという意見が聞かれるが、足利事件や富山連続婦女暴行事件等の冤罪事件が明らかになる中、法曹関係者の一部からは、裁判員を冤罪発生に巻き込む恐れがあるとして、裁判員制度に批判的な意見も聞かれる。

 裁判員制度ではなく、アメリカなどで行われている陪審員制度を行うべきだとの意見も根強い。裁判員制度では、裁判員は裁判官といっしょに、被告が有罪か無罪か、また有罪の場合は量刑(例えば懲役○年)まで議論し多数決で決めるのに対して、陪審員制度では、陪審員の議論に裁判官は加わらず、陪審員は有罪か無罪かまでしか判断しない。また、全員一致で決めることが原則だ。

 アメリカ映画「12人の怒れる男」は、12人の陪審員たちが法廷で殺人事件の審理が終わった後、評決を出すまでの過程を描いている秀作だ。第1回の評決は、11名の陪審員が被告の少年が有罪とするなか、ひとりの陪審員が、少年は犯人かもしれないが有罪の確たる証拠がないとして無罪を主張した。夏の暑い中、審理で疲れきっている陪審員たちは早く評決を済ませて家に帰りたかったが、感情的な対立をしながらも真実を求めて議論を続け、最後の評決では全員一致で無罪となったというものだ。当初はほとんどの人が有罪と考えていたが、証拠や証言の内容をひとつひとつ念入りに吟味していくと、証拠能力が希薄だったり証言が虚偽だと分かったのだ。

 私は、議論を十分尽くすことができる制度かという観点から見ると、裁判員制度よりも陪審員制度の方が優れているように思う。多数決で物事を決めるやり方は、裁判員制度に限らず、現在の日本では一般的であり、効率的で大勢の満足を得られる決定方法だ。一方、全員一致で決めるという方法は非効率かもしれないが、全員一致を求めて誠実に議論を続けていく中で、真実を発見できたり、ときによっては自分の価値観の見直しを迫られたりもする。多数決で決める方法は、安易に流れれば、早く決を取って終えてしまいたいという当事者の思いの隠れ蓑になってしまう懸念がある。十分な議論の重要性を認識し、それが実行される制度作りが大切だと思う。

2010/07/15

 日本の第55代内閣総理大臣石橋湛山は、戦前の軍国主義時代の中にあっても、一貫して日本の植民地政策を批判し続けた。湛山と同じ時代を生きた清沢洌(きよざわきよし)の主張も、湛山の主張と共通点を持つとともに、対米関係においては協調路線、対中関係では満州経営への拘泥を戒めるものであった。柳宗悦も朝鮮半島で勃発した3・1独立運動に対する朝鮮総督府の弾圧に対し、「反抗する彼らよりも愚かなのは迫害する我々である」とした。

 言論弾圧を受けたり、命の危険を感じながらも、彼らは自分の良心に忠実に考え行動し続けた。私もそのように生きたいと思う。彼らが時代に支配する考え方にほんろうされることなく自分の信念を貫き通すことができたのは、一流大学で学んだり若いころから海外の大学へ留学するなどして、新しい考え方と出会い思索を深める機会があったことが大きく関係していると思う。そのような機会に恵まれない人々は、時代の大きな流れに流されざるを得ない場合が多い。

 飛行機や魚雷で敵艦に体当たりせよと命令されたら、私は恐怖に耐えられない。あるいは、結果的に生き延びて帰ってきた場合であっても、ロシアに抑留され共産主義の思想教育を受けていたりすると事情は複雑だ。誰も非難することはできないとは思うが、自分の精神的弱さから正しい思想ではないと思っても保身のため受け入れたふりをし、受け入れない同僚を傷つけたりするなどして、日本に帰国後そのことを追及されたり、赤とレッテルを貼られても忸怩たる思いで生きていかなければならない。

 このような戦争の悲惨さを知ると、2度と時代にほんろうされたくないと思う。しかし、私はこの時代においても国家とは別のマスコミという権力によって、すでに多くの人がほんろうされていると思っている。

 分かりやすいのはマスコミの性報道である。日本は戦後純潔教育委員会を作って青少年に克己心を持たせるように尽力してきたが、もはや見る影もない。マスコミが性情報を氾濫させることで性から神秘性が取り除かれ即物的・唯物的なものとなってしまった。10代女性の妊娠率の高さから米国では20年近く前から自己抑制教育が導入され、米国人は性に対して保守的になってきたというが、日本にその気配はない。エイズ予防教育は、まず禁欲と貞節を教え、それがうまくできない場合にのみ避妊具の使用を勧めるという方法が効果的であるにもかかわらず、日本では避妊具の使用法を教えることを第1としていることが多いのも愚かしいことだ。日本国民は経済的利益を優先し道徳的虚無に陥ったマスコミによって精神を骨抜きにされ、劣等民族になり下がることを憂えるものである。

 歴史に学び、世界に目を向けながらも、何よりも自己の良心の発露に耳を向ける謙虚さと勇気を持って生きていかなければ、時代にほんろうされてしまいそうだ。

2010/06/15

 原因と結果の関係を正しく認識すれば、良くない結果が起こった時に他人に責任転嫁することや、良い結果が起きた時に過少に自己を評価し自信の形成の機会を逸してしまうことを避けることができる。

 相関関係があるからといって因果関係があるとは限らない。例えば年齢が高くなるほど身長は高くなり年収が増えるとすれば、身長と年収の間には正の相関関係がある。しかし、ホルモン注射を打って身長を高くすれば年収が増えるとか、事業がうまくいって年収が増えれば身長が伸びるということはない。身長と年収の間に因果関係がないからである。

 企業の従業員が持っている仕事のやりがいに対する満足度と勤務先企業の収益状況との間にはゆるやかな相関関係が見て取れるが、それだけをもって因果関係があるとは断定できない。しかし分析を深めて、仕事のやりがいに対する従業員の満足度を向上させることは、従業員の定着率や生産性の向上をもたらすことが分かると、因果関係があると推測できる(中小企業白書2009年版)。

 また、原因が結果となって現れるときに、ある事象が縁として介在することもある。

 私は10年以上前、当時幼児だった娘を背負って道路を歩いていた。娘が何か言いたそうなので後ろを振り向くとはいていた靴の片方が脱げて路上に落ちていた。それを知った直後にすぐそばの路上で2台の車による追突事故が起きた。ガラスが割れ車の乗員は車内でぐったりしていて間もなく警察がやってきた。事故の当事者は、私の娘の靴が脱げていることを告げようとしたり気をとられたりして、急停車したり前方不注意になったことを知り、私は自分(と娘)が事故の原因なのだと感じた。しかし、法的には一切私には責任はなかった。申し訳ないことをしたと思っているが、事故の原因は運転手の前方不注意や急停車であり、私はそれが結果をもたらす縁を作っただけだったのだ。

 親が子を産むということにおいて、親は原因だろうか、または縁だろうか。子は親を原因として誕生するものの、親は子どもの目・鼻・口・耳等の顔の各部位を設計した覚えはない。性格は生後の生育環境によって変わるだろうけれど、目鼻立ちは所与のものであり、親の意思は関与していない。それなのに、親は子のすべての原因と言えるのだろうか。私は、子どもの誕生の縁は親が作るにしろ、その原因は親と人智を超えた設計者の双方だと思っている。

 聖書に次ぐロングセラーと言われている『「原因」と「結果」の法則』(ジェームズ・アレン著)も、日本でベストセラーとなった『鏡の法則』(野口嘉則著)も、人間の心のあり方が原因となって、自分の人格や環境という結果がもたらされることを教えてくれている。因果関係の正しい認識、とりわけ目に見えない世界における因果の法則を正しく認識することは、規律ある人生を送る上で大切だと思う。

2010/05/15

 異業種交流会や勉強会は、それぞれ運営の約束事やルールを決めて行われることが通例だ。概して多くの勉強会では、政治的・宗教的発言や自社の商品説明に関する発言をタブーとしている。それは、無用で場違いの対立を招き、会合開催の趣旨から逸脱してしまうことを事前に抑制しようとの配慮の表れだと思う。その意味では、発言タブーを設けることもひとつの見識だと思う。反面、そのようなルールを設けると、人生の本質を考える機会や行動への情熱を身につける機会が奪われてしまうとも感じる。

 異業種交流会によっては、会員相互の取引を活発にすることを目的に行われているところもある。それを目指さない勉強会等においては、「商品説明禁止」にしておかないと、自社製品販売を目的として参加する人が増えてしまう懸念がある。その限りにおいて禁止に賛成ではあるが、「どのような商品やサービスが人の心を豊かにそしてタフにするか」とか「国力を高める商品やサービスは何か」という論点の議論まで抑制してしまわないか。

 有償であれ無償であれ自分が他者にしてあげれることを相互に紹介し合う文脈の中で、自分の扱う商品やサービスを紹介する機会があってもよいのではなかろうか。誰かから求めたいと思っていた商品やサービスにたまたま出会えば、ご縁を持てた会合参加者から求めることができ、情報の付加価値を期待することもできる。

 「宗教的発言禁止」や「政治的発言禁止」の趣旨は、自分の所属する特定の宗教・政治団体を宣伝し他の団体を批判することを禁止するとの趣旨であろう。その限りにおいて禁止に賛成ではある。

 しかし、宗教においては「一神教が人生に与える影響と仏教が人生に与える影響はどう違うか」とか「宗教は過酷な戦争を引き起こすので世界平和のためにはない方がよいのではないか」というような論点、政治においては、「国家の役割は防衛や外交等、民間ができない最低限のことに限った方がよいかそれとも福祉国家を目指すべきか」とか「国の発展の指標はGDP(国民総生産)が良いか、ブータンが用いているGNH(国民総幸福量)が良いか」等の重要な論点まで議論できなくなってしまわないか。

 勉強会を運営する上でどのようなルールを設けるかは、もちろん主催者の自由である。とはいえ、せっかく時間とお金を使って会した人々にとって、より良い成長の機会となるためには、「発言タブーはなし」として、商品説明や宗教的・政治的発言が、自社を利することのみを目指した時や党派性を帯びた時には発言を止めさせる権限を、主催者側が持つことにした方が良くはないか。

 その方が、参加者は自己の信念をより普遍的に表現する訓練になる。一方、主催者側は、発言停止の判断を下す立場なので責任が重く誰よりも成長できるだろう。「君子危うき(発言自由による危険)に近寄らず」より「虎穴(発言自由)に入らずんば虎児(発言自由による恩恵)を得ず」を多としたい。

2010/04/15

 テレビのバラエティ番組で出演者が肉料理や魚料理を「おいしそう」などと言いながら食べて、幸せそうな表情を見せているのを見ると違和感を感じる。自分が食べていないからではない。他の生物の命をいただいて自分の命をつないでいる行為の意味やありがたさに思いを致すこともなく、ただ自分の味覚により自分が感じたことを大衆の前で表現することに、いったいどんな意味があるのかと思ってしまうのである。

 私は大学の工学部で学んだ。講義を熱心に聴講し実験に真剣に取り組んでいた人もいたし、午前中から麻雀をして遊んでいる人もいた。私はどちらかといえば後者に属し、真面目な人たちを尊敬する一方で違和感を感じていた。

 物理や化学の原理に通じ電気や機械の知識を蓄えて、将来社会の役に立つことができたとして、なぜ自分がそのことをするのか、自分が何のために存在しているかを見究めることもなく、熱心に研究し働いたとして、それが母の胎から生まれいずれひとりで死んでいく自分という人間の根源的な喜びとどんな関係があるのかが分からなかったからだ。分からないのだったら、むしろ遊び呆けている方が、刹那的な喜びであるにしろ喜びを感じられるので、自分に素直に生きることになるのではないかなどと、理屈を考えていた。旧約聖書に「人の子は天が下でその短い一生の間、どんな事をしたらよいかを、見きわめるまでは、愚かなことをしようと試みた」(伝道の書、2章3節)があることは後知った。

 学校で人間の起源を考えるときに、日本では創造者による創造論を教えず進化論を教えていることにも違和感を感じる。

 創造論では創造者が愛を動機として人間のために山川草木などの万物を創られたとするので、これを教えれば、物質の変化の結果人間は高等生物になったとし人間の尊厳性を感ずることとは無縁な進化論を教えるよりも、愛を実践し倫理観を高める教育につながりやすい。いずれも仮説なのだから、創造論を教える方が青少年が健全に育ちやすく良いのではないか。宗教教育は憲法で禁止されているが、憲法の目的に立ち返って方法論を検討すべきではなかろうか。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(伝道の書、12章1節)。

 私は自分の人生がうまくいっている時も違和感を感じた。長じて、創造主とは自分が造った人間が喜んでいるのを見られて喜ぶお方であることを知るに及んで、違和感を感じなくなった。「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」(創世記、1章31節)。

 私は悩んでいない人を見ると違和感を感じる。「悲しみは笑いにまさる。顔に憂いを持つことによって、心は良くなるからである。賢い者の心は悲しみの家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある」(伝道の書、7章3節~4節)の聖句を読むと心が落ち着く。こんな私に違和感を感じる人もきっといるに違いない。

2010/03/15

 あるファーストフードの店に入るといきなり「お召し上がりですか。お持ち返りですか」と尋ねられる。持ち返っても食べるのだから変な質問をすると思う。フィレオフィシュとコーヒーを注文すると、「単品ですか。セットですか」と尋ねられる。注文品を明言しているのだから、これ以上何を言う必要があるのかと思う。

 このチェーン店では作業の手順上、どこで食べるのかを先に知りたがっていることを私は知っている。また、ポテトを付けてセットとして販売しているので、そのセットにするのかそうでないもの(コーヒーも注文しているので単品ではないのに「単品」となっている)にするのかを最初に決めてほしいと思っていることも知っている。

 それで二者択一を迫られて素直に答えてもいいのだが、「持ち返ったとしても食べますが」とか「単品の意味が不明だ。フィレオフィシュとコーヒーください」と言い張ってしまう。55歳の私は偏屈爺さんへの道をまっすぐに走っている。ただ、一言言わせてもらえれば、「自分たちの作った枠組みを押しつけないでほしい」のだ。

 次元は大きく異なるが、枠組みや概念を押しつけられることに対する反発ということでは、キリスト教の伝統を引く欧米の近代世界とイスラム世界の対立を思い起こす。

 とりわけ自由や人権についての考え方は全く異なっている。欧米の近代世界では自由や人権に対して鋭敏な感覚が育ってきた。近代自由主義の本質は「私はあなたが何を言っても賛成しないが、私はあなたがそれを言う権利を死んでも護るだろう」(啓蒙思想家ヴォルテール)の言に集約されている。

 一方イスラム世界では自由や人権についてあまり考えない。イスラムの教理を自由に批判して生きる権利は認められていない。サルマン・ラシュディ―というイギリスの作家は、ムハンマドの生涯を題材に『悪魔の詩』という作品を作り、イギリスでは高い評価を受けたが、イランの最高指導者ホメイニから反イスラム的であることを理由に死刑宣告を受けた。

 このような基本的な概念が異なっているのに、相互理解への取組をせずに他国への干渉を深めていくと、戦争やテロにつながってしまう。コミュニケーション論では、異なる価値、目標、視点、利益、思想、世界観に固執することで生じるコンフリクト(対立、葛藤)の解消には①現在の目的のさらに上位にある統合的な目的を見出す②短期でなく長期、ローカルでなくグローバルなどより広い視点から見る③兄や弟ではなく家族の立場から、男性か女性かではなく人間や社会の立場からというように両者を統合する位置にいる第三者から見る、が有効だと言う。

 国連での話し合いは、各国の利益にとらわれない宗教指導者や学者等が超党派的立場で議論に加わることができるような制度的枠組みの検討が必要ではないか。とともに、偏屈人間、偏屈国家にならないような大きな心が必要だと、自戒を込めて感じる。

2010/02/15

 世界の中で日本は日韓中(日本・韓国・中国)という地理的に近い国々と作る「地縁共同体」の一員と見ることもできれば、日韓米(日本・韓国・米国)という自由・民主主義・人権・法の支配という理念を共に戴く国々と作る「価値観共同体」の一員と見ることもできる。

 古来より稲作・漢字・儒教や仏教等を中国や韓国から学んできた歴史からすれば、日韓中が相互の連携をこれまで以上に強固にし、鳩山首相が説くような東アジア共同体を目指すのも良いかもしれない。しかし、日本は三権分立が国の基本制度になっているのに対して、中国では共産党による一党独裁政治が行われている。また、中国のチベット人に対する蛮行は、国際司法委員会が「(チベット人を)ただそうだというだけで抹殺する意図がある」と断定するほど悲惨極まりないものだ(ペマギャルポ著『中国が隠し続けるチベットの真実』扶桑社新書)。

 中国の蛮行に対して日本が異を唱えることなく東アジア共同体が形成されると、そこで人権が守られる保証はない。そもそも「共同体」とは域内の生産要素の自由移動を保障し、さらにマクロ経済政策を調整し、最終的には通貨統一をも視野に入れた構想であるところの「共同市場」の形成を前提にした概念と解すべきだという(渡辺利夫著『新脱亜論』文芸春秋)。

 つまり、相当程度の社会的・経済的な同一性を志向したまとまりと言えよう。そのような制度的枠組みが仮にできて物や金が動き始めても、価値観を異にするとして人が動かなくては機能停止に陥る。

 私は今後の世界における日本のスタンスを考えるとき、韓国や米国という価値観を同じくする国との信頼関係をまず考え、次にその価値観の中でも普遍的なものを中国にも理解してもらうための外交を展開していくのが良いと思う。

 地縁よりも価値観によるつながりをまず考えるというのは、国際社会だけでなく今日の日本の地域社会においても妥当する面がある。

 今日の日本は快適な生活を得る一方で偏狭な個人主義が蔓延し、人と人のつながりが希薄になってしまった。反面、インターネットの普及により遠方の人とのコミュニケーションが容易になったお陰で、気心の知れた人々は直接会うことなく情報交換し一体感を持つことができるようになった。

 このような相互作用が普遍的な価値観をテーマにして行われるようになれば、それを精神的な拠り所にして地域に住む様々な考え方の人とも人間関係を築いていこうという意欲が出てくるのではなかろうか。

 一昨年99歳で亡くなられた尊敬するS先生は、「老人の集まりに行っても飲み食いしているだけで自分が成長しないから行かない」と死の間際まで哲学書を読み、来訪する客と相互に啓発する話をすることを好まれた。体が存在する環境や条件よりも、頭脳や心が求める価値や美学を優先してこそ、筋を通した生き方ができるのではなかろうか。

2010/01/15

 有名な学説や一般に普及している考え方が、必ずしも正しいとは限らない。その背景を考えることが大切だ。

 血液検査をしたらコレステロール値が基準値の220を超えているということで、医師が薬を処方してくれた。本(浜六郎著『コレステロールに薬はいらない』角川書店)でその薬を調べてみたら、危険・有害な薬剤だから使用しないようにと書いてあった。他の本(松本光正著『「健診病」にならないために』日新報道)によれば、「白人は日本人の五倍も六倍も心臓疾患があり、そういう心臓疾患を予防する数字として220という基準値は意味があるかもしれないが、日本人の心血管系の病気は白人に比べてずっと少ないのでそういう数字をあてはめることには無理がある。むしろ250~260くらいの値の方が健康に良い」という趣旨のことが書いてある。

 コレステロール低下剤を販売する製薬メーカーにしてみると、基準値が220でなく240ということになると、薬を飲ませる対象の高脂血症の患者が1000万人減ってしまうという。基準値の値一つで売り上げが大きく変わるのだ。現行の基準値に、利益に関連ある団体の思惑が関係していると考える方が自然ではなかろうか。

 テーマは変わるが、人間の起源に関する学説は、進化論と、創造論が代表的だ。日本では、学校教育の理科の時間に進化論が登場し、創造論は教えられていないから、進化論が科学的真理と信じられている。しかし、進化論は数百個の仮説がすべて正しい時に初めて成立するひとつの考え方に過ぎない。

 しかも、脊椎動物の胚の類似性を示す絵がウソであることが分かったり、ダーウィンの系統樹が証拠による図ではなく理論の幻影に過ぎないことが分かるなど、進化論の正当性を支えている代表的ないくつもの主張が虚偽であることが明らかになってきた。

 さらに、アメリカの生物学会では、ダーウィン進化論に対する疑念を表明すると科学界から非難され、村八分的いじめにあい、最後は追放されるということがしばしば起こっているという(ジョナサン・ウエルズ著『進化のイコン』コスモトゥーワン)。純学問的な問題意識として人間の起源について論争が行なわれているのではなく、既得権益を持っている学者たちが自分の職場を守り勢力を誇示するために学説を利用しているのである。

 学問的装いをした考え方だからといっておいそれと信じることはできない。必ずその背景を考察する必要がある。それが面倒な人は、自分の直感を信じたら良いと思う。その方が、様々な社会的関係の中で発言する名誉ある人々の意見をうのみにするよりも賢明だ。

 体の細部まで思いを巡らし自分は健康だと思えば、自己責任において薬は飲まなければいい。人間はご先祖様に対しておのずと頭を垂れる存在だと思うが、猿を目の前にしてそういう感情が沸き起こってこないのであれば、進化論を信じない方が自然な考え方だ。