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2009/12/15

 派遣切りにあって金もなく住居も追われ、住所不定では求職活動もままならない人々のようすがマスコミで報道されている。自分のできることを磨いて起業して道を開いていくことはできないだろうか。働いて生きていくのは雇われること以外に、業を起こすという方法もあるのだから。しかし、元手となる資金がないとか、どんな事業をしたらよいか分からない等、簡単ではない。

 問題は「いかに自立して生きていくか」ということだ。

 日本が発展途上国に経済支援するとき、緊急支援として食料等も供与することは必要だと思う。ただ、食料は食べてしまうと何も残らない。途上国支援にかかわる人々が共通して感じるのは、彼らが自分たち自身で産業を興し社会資本を整備していくのに必要な能力を身につけられるよう教育面での支援をすることが、根本的な問題解決だということだ。

 自立支援の構図は、途上国支援も、国内の失業者支援も同じだ。職や住所のない人に対する食事や住まいの提供は、途上国に対する食糧援助のように短期的な対処療法でしかない。自立できるようにと行う教育的支援は、「できることを磨く」ことで職業能力を高めるようにしてあげるか、起業に対する意欲や能力を高めてあげることだろう。

 流通業の小さい店で20人分の売上をひとりで達成し、その後、念願のホテルマネジメント会社を設立した鶴岡秀子氏は、10歳のころから起業すると決めていたという。牛丼の吉野家の前を通るたびに、座席数と回転率から売上を予測し従業員数が適正かどうかを考える「吉野家チェック」がその頃の趣味だったという。父親が経営者で親子の対話を楽しみながら、そのようなセンスが磨かれていった(ダイヤモンド社『一〇歳から起業すると決めていた』)。同氏の父親のような人をもっと育成することはできないだろうか。

 「私はこのことのために生きる」と一生をひとつのことに挑戦し貫く人の生き方は我々の心を打つ。そのような人の多くは経済的困難に直面する。しかし、多くの場合、支援者も出てくる。また、困難に直面しても社会には法的整理によって債務を減免し、責任を取り除いたり軽減してくれたりする方法が準備されている。

 むしろそのような困難に直面することは、自分の持てる能力の限界に挑戦している証と言える場合も多々あるのではなかろうか。いたずらに法的整理に頼ることはもちろん良くないことだが、困難に出会い苦しむことで能力が向上し当初の目的に一歩近づいたと言えることもある。

 人の心も社会のインフラも、現代では挑戦して自立していこうとする人々を支援するようにできている。問題は、自分の立てた目的が公益にかなっているかどうか、忍耐する覚悟があるか、細部にまで通じようとする強靭な精神力があるか、そして自分の思いを伝える意欲があるかだと思う。

2009/11/15

 物を売っても代金を払ってくれるか分からないし、代金を払っても物を渡してくれるか分からない。信頼できない者同士が売買行為をしようとするなら、物を渡す行為と代金を払う行為は同時であるのが良い。お金のことで騙されたことがある人には説得力のある考え方であり、民法はこれを「同時履行の抗弁権」と名付けた。

 一方、商品を売っても支払いを猶予してあげること(売掛金が発生)や、原材料を購入しても支払いを猶予してもらうこと(買掛金が発生)がよく行われている。そのような売買当事者間には、取引実績があるなどして一定の信頼関係があることが多い。このような「信用取引」は「同時履行の抗弁権」よりも暖かさを感じる。

 富山の売薬商が開発したとされる「先用後利」は、さらにお客さんを信用する。商品を無償で置いていき、再訪時に薬箱を調べて使用されている商品の料金をいただく。引っ越しされ連絡してもらえないと置いてきた商品は丸損になるが、そのリスクを冒してもお客さんを信用する。客にとっては信用されていることが心地よい。

 もっとお客さんの良心に期待する商法が出てきた。播磨屋本店が世界初との触れ込みで行っている無料カフェの試みだ。私は大阪の御堂筋を散策していたら、コーヒー0円の表示を目にして半信半疑で入ってみたら本当だった。コーヒー等の飲物と播磨屋本店のおかきを無料でいただける。不特定多数の人が繰り返し自由に利用できるところがすごい。

 このような取り組みをするのは地球環境問題を解決するためだという。地球環境悪化の根本原因は「人生は、人間の優劣競争の場である」と現代人が考えていることにあるとし、コーヒーを飲むときにそれに関連した様々な立場の人に配慮する経験をすることで、競争ではなく1人ひとりを大切に思う心を養ってほしいという考え方のようだ。ここまで来ると、売上げや利益はもはや手段であり、社会貢献が本業のようだ。

 良心に期待する商法は、人間の良心が働いていない社会の中で展開してもうまくいかない。人々の良心基準が高ければ、商品やサービスの原価のみを表示し、客が感じた感謝や満足の度合いに相当する金銭をプラスして支払うというシステムが一般化することも可能だ。そういう社会には争いも訴訟もないかもしれない。

 どのような商法を用いるかは、その人の世界観にかかっている。騙されないことを優先すれば民法の考えを優先するだろう。人と人が信頼し合って生きていくことを願う人は、無償カフェ等の良心の働きに期待する試みに感動する。

 もっと言えば、理想的な社会の到来を待って良心に期待する商法を行うか、それとも良心に期待する商法を開発し展開することで理想的な社会を構築しようとするかも、その人の世界観にかかっている。宗教家はそのことを、「天国に入ろうとする人になるのではなく、天国を作る人にならなければならない」と言った。

2009/10/15

 夫婦が別の姓でも婚姻関係が保てるとする選択的夫婦別姓制度を導入する民法改正案が、来年の通常国会に提出される見通しとなった。千葉法相と福島男女共同参画担当相が早期法改正に意欲を見せている。

 法改正を推進する側の理由としては、「家族のあり方の多様化に伴い戸籍や世帯の意味がなくなってきており、個人単位で管理する方が手続き上便利だ」「結婚により姓が変わると仕事の継続に支障をきたす」等が言われており、法改正に反対する側の理由としては、「家族の一体感や絆が損なわれる」「子どもの精神の不安定を招き教育上よくない」等が言われている。

 私は夫婦別姓に反対だ。より根本的なところから夫婦のあり方を考えてみたい。

 「全体は部分の集合にまさる」と言われる。夫婦とは、夫という実体と妻という実体の二つの存在の単なる寄せ集めではない。両者の関係性、とりわけ補完性を含んだものと考えられていると思う。

 「名は体を表す」と言うが、夫婦が同じ姓を名乗れば、夫婦間の補完性を保持しやすくなるだろう。補完性は夫婦相互の愛と尊敬の基盤であり、それが実現する家庭でこそ子どもの情操が育つ。夫婦を別姓にすると、そのような目に見えない貴重なものを失いかねない。

 こう言うと「韓国などではずっと昔から夫婦別姓でありながら豊かな文化を築き先進国の仲間入りをしているではないか」という反論が聞こえてきそうだが、日本と韓国では事情が違う。韓国では「族譜」という一族の家系図が何物にも替えがたい貴重なものとして先祖から受け継がれてきており、先祖からの血統をとても大切にしているという。結婚しても夫も妻も姓を変えないというのは、出自を大切にする思いの表れなのだろう。

 また、女性の真の自立という意味でも、夫婦は同じ姓の方が良いと思う。女性の自立というと、唯物的な考え方をする人は社会的立場や経済面のことしか考えない。貧困の中に暮らしながら神へ至る道を説いたイエスキリストや、托鉢をして肉の糧を得ている僧侶は精神的に自立していないとでも言うのだろうか。けっしてそうではない。人々に福音を知らせるとか信者に功徳を積ませるという自分の役割に没頭し、自己の経済的安逸を求めない心はとても崇高であり、自立していると言えるのではなかろうか。

 キリスト教では、「男は神のかたちであり栄光である…女はまた男の光栄である」(1コリント11.7)とあるように、男と女の価値は平等ではあるが格位は違っていると考える。つまり、神からの愛はまず男に、そして男から女に流れるのであり、愛に対して返す美は女から男に、そして男から神に返すものなのである。「男の陰になり、男を後ろで支えながら、それでいて自分を貫いて生きていく。自分を男に託して生きていく。それは度胸のある強い女にしかできないことなのです」(橋田壽賀子著『夫婦の格式』)。自立した強い女は、夫の姓に守られ夫の姓を用いて賢く生きていくのである。

2009/09/15

 幼子が親とともにいたり、家族が話し合う場にいる風景は日常よく目にすることなので、ただそこにいるだけの幼子が何か特別のすごいことをしているとは普通思われない。しかし、人間は満一歳にもなれば、親などの周囲の人々が話し合っている日常的なことは何でも分かるし、三~四歳にもなれば誰でもことばを話せるようになることを考えれば、家族のそばにいるだけの幼子の脳の中では、めまぐるしくことばの意味の受容と検証がなされていると推察できる。

 人間はことばを学びことばと共に生き、新たなことばを作って文化を創造し思索を深めていく。とともに、ことばには人間の生死を左右する強烈な力がある。倒産の危機に出会い死を思った企業経営者は、「七転び八起き」「障害や困難は成長のチャンスである」等のことばに励まされて、また歩き始める。逆にことばによるいじめを受け自ら命を断つ子どもが後を絶たない。意味や思いの空間に網の目のように張りめぐらされたことばによって、人間は傷ついたり希望を見出したりしながら人生を歩んでいく。

 このように強烈な力を持つことばの使い方を誤ってはならない。人間は誰しも無限の潜在能力を与えられており、環境さえ整えば誰もが天才的な能力を発揮する。しかし、生育過程で周囲の人々から心ないことばや否定的なことばをかけられると、自分自身で自己の限界を設定し、自分で自分の可能性にふたをしてしまいがちだ。

 その解決策としては、自分の将来のなりたい姿等をあたかも現在そうであるかのようにことばで表現すること(アファーメーション)がとても効果的だ。「今日という日は神が作りし日なり。我は歓喜し我は感謝す」「私は健康だ。私は幸せだ。私は素晴らしい。」等の有名な言葉を毎日繰り返し飽きることなく言い続けていると、実際にそのようになることが多いという。

 会社の社長になりたければ、「私は○○会社の社長だ。従業員と社会のために毎日誠実に長時間働き多額の報酬を得ている。従業員も取引先の人たちも私が社長でいることを喜んでいる」というような言葉を繰り返し言えばよい。律儀な人は、そんな事実でもないことは言えないと言うかもしれないが、アファーメーションはことばを用いた道具にすぎない。道具が事実であるとか虚偽であるとか言っても意味のないことなので、割り切ってやってみることをお勧めする。

 自分の倫理観や価値観についてのアファーメーションを自ら作れば、自分が家庭や社会等でどのようにふるまうかを誓約することになり、自分を精神的に高めることになる。聖書にあるように、神は自己に似たものとして人間を創造されたので、人間は神の創造性に似て創造性を持っている。神がことばで被造世界を創造されたように、人間もことばで自己創造ができるのだ。ことばが持つ強い力をよく知り、それを生かすことができれば、人生は大きく変わりうることを知ることがとても重要だと思う。

2009/08/15

 子どもの通う高校の進路説明会に参加したところ、現在の試験の成績で表わされている自分の能力を考えて進むべき道を考えよう、という趣旨の話がなされていた。できれば浪人することなく進路に進んでほしいという親心からかもしれないが、もっと生徒各人の希望を中心に進路を考え、教師や親はそれに期待し支援するようなスタンスがあってもよいのではないかと感じた。人間は潜在能力の3%~30%しか使っていないと言われており、潜在能力は使い方次第ではまだまだ使えるのだから。

 初等教育で物づくりや自然体験に多くの時間をさいて生徒に達成感を味わわせることが、職業観を身につけるのに役立ち、将来を視野に入れた目標設定をなしやすくすると聞く。欧米では大学の卒業は大変だが入学は比較的容易だというのも、将来の職業に関する明確な目標を持つ人が学びやすくしているのではなかろうか。

 設定した目標を達成するためには、まだ見ぬ達成した状態を具体的に想像することが重要だ。スポーツ選手は自分が目指している選手の動きをビデオ等で視聴したり、自分がうまくやっているところを想像することには大きな効果があるようだ。人間の脳には意識した脳と無意識の脳とがあり、判断を要求される局面では人間は無意識の脳の命令に従うという。そして、無意識の脳は自分の実際の体験と想像とを区別することができないので、想像力を働かせるイメージトレーニングが大きな力を発揮するというわけだ。

 うまくいった状態を想像する習慣を作ると現実にうまくいくというのは、ビジネスでも家庭生活でも同様だ。日本では「取らぬ狸の皮算用」とか「大風呂敷を広げる」など、うまくいくかどうか分からないことを前もって肯定的に言うことを戒めるような風潮がある。これは慎み深いという良い面もあるが、目標達成のためにはマイナスに働くことの方が多い。求めないで足るを知ることは静的な美学に合致するかもしれないが、求めて得たものを皆で分かち合う寄付の文化は、心に大きな躍動感を持つ動的な美学に合致する。

 「求めよ、そうすれば与えられるであろう」の聖句は、求めさえすれば得ることができるように、神は自然の中に無尽蔵の恵みを準備していることを暗示しているともいえる。同じように人についても、得たいものやなりたい人物像等の目標が明確になれば、人間の中に内蔵されている無限の潜在能力が動員されて、その目標が達成できるように動き始めるとも言えよう。

 とりわけ、若者に対しては大きな期待を表明し、能力を発揮できるような機会を準備してあげることが大切だ。現在の状況という「事実」にのみとらわれることなく、自分のまだ見ぬ未来の姿を実現することのできる潜在能力を持っているという「真実」に目を向けることが、豊かな人生を送る上で大切なことなのではなかろうか

2009/07/15

 大学を出たての頃、ある大学教授と神田錦町の学士会館のロビーへ同行させてもらったことがある。紳士淑女たちがソファーに腰をおろして新聞や本を読んでいる。その時、1、2度お会いして面識はあるもののそれほど親しくはない方を発見し近づいて声をかけようとしたところ、同行の教授から、ボーイを呼んで名刺を渡しその方との面談の取次ぎを依頼するようにとたしなめられた。

 相手の方が何かに集中していて時間を取りづらかったり、会いたくないこともあるわけで、ボーイを介することで間接的な意思の疎通を図り、双方の意向を尊重できるということのようだ。そのときは、面倒くさいことをするんだなあと感じたが、後になってそのような声も思いも抑制された場の秩序の美しさを感じるようになった。

 国技である相撲の力士に求められるものは、強さとともに潔さや品格であり、それは伝統を維持するのに必要だ。初代貴ノ花は「勝負師は喜怒哀楽を表に出すな」と師匠に教えられ、優勝後の表彰式で涙をこらえるため、ただうつむいていたという。相撲に限らず、雄弁で派手なパフォーマンスを用いる選手よりも、抑制のきいた選手の方が好印象をもたれやすいのではなかろうか。

 男女間の恋愛感情についても、もう少し抑制されたものがあってもよいのではないかと思う。テレビ番組やラジオ番組を視聴していると、好きになったら告白するのは当たり前で、ためらうことは男らしくないとか優柔不断とかみなされている。しかし、自分を見つめ自己を成長させるためには、安易に思いを口にしない方が良いことも多いと思う。

 まして、配偶者を決める前には、ふさわしい人を見極めるために何人かの異性と同棲して相手を見る目を付けた方が良いなどと言う人もいるがとんでもないことだ。自分が結婚するときには豊富な性体験の持ち主ではなく純潔な人を希望すると思う。相手に純潔を希望しながら自分は豊富な性体験を誇るとするならエゴイズム以外の何物でもない。同棲経験者の方が離婚に至りやすいというデータもあるようだ。結婚までは性関係は抑制していた方が良い。

 相思相愛の男女間で、女性の方がもし自分を愛することで相手が義務を怠っていることを知れば、女性は自分の魅力をなくすために、その手で自らの美貌を傷つけることも、以前の日本では珍しくなかったという(新渡戸稲造『武士道』)が、プロポーションなどの外形的な美しさの演出に腐心する女性が多い最近では、このようなことは想像すらできなくなってしまった。

 私は、自分が人のためにできることや、相手が成長するために相手に期待することを表明することにおいては積極的であった方が良いと思う。一方で、自分の思いなど変わりやすいものに関しては、抑制気味に対処し陰陽の調和に配慮した方が美しい人生を構築しやすいのではないかと思う。


2009/06/15

 日本では、意見の対立が好まれないことが多いように思う。

 大学生の長男が小学生の頃PTAの会合に出て、年間行事案を検討したとき、司会のPTA会長は前年通りの行事をするのが良いと考えていた。私は、それぞれの行事がどういう意義があるかをまず考えてみようと提案したが、その意見は取り上げてもらえなかった。

 別の会合で、「高校生の男女交際はどの程度(一切だめ、話だけ、キス程度、性行為も)まで許されるか」というテーマで高校生対象のアンケート結果の発表があったときに、「性は愛のためにあるのだから、愛ぬきに性のことを言うと性が独り歩きして高校生に良い影響を与えない。まず家庭における愛のあり方や結婚の意義や価値を十分に生徒に伝えることを優先した方が良いのではなかろうか」と発言したときも、司会者に黙殺されてしまった。

 私は、意見が対立した状況というのは避けるべきことではなく、むしろ新たな創造的なアイデアが生まれる好機であると認識することが重要だと思う。対立が感情的に処理されたり、司会者に、様々なアイデアの交換から創造的なアイデアを生み出すことに対する関心がないと、それが生かされない。

 フィンランドでは、集団の中の意見の対立を対話によって解決していく力を子どもに身につけさせることにとても熱心だ。自分の価値観と相手の価値観が異なっていたときに、価値観の違いが存在することは当たり前のこととして、価値観の対立点や共通点を積極的に見出して、その上で共存共栄できる創造的なアイデアを生み出すというプロセスが大切だということに、国民的合意ができているようだ。

 フィンランドでは生徒の基礎学力は、「読み」、「書き」、「計算力」と「集団で問題を解決するための対話力」であるとしており、小学校のテスト問題を見ても対話による解決の力を身に着けさせようとしているのが良く分かる。その効果もあってか、読解力の到達度の国際的な調査結果を見ても、世界トップクラスである。

 対立と言っても、それぞれの意見の背景や目的を考えていくと、目的は結局は同じで強調しているところが違っているだけだったりする。あるいは、相互に信頼関係があれば、お互いの立場を思いやり個性を尊重していく中で合意できたり、ときにはより優れた第三の意見が生まれることもある。

 そのためには、「どうしてそのように思うのですか」という思考の変遷やプロセスに焦点を当てた問いかけが大切だが、日本ではこのような問いかけはあまり聞かれない。意見の対立があっても、考え自体やそう考える背景を話し合い相互理解を深めていけば、完全に合意はできずとも、「不満はないわけではないがそれなりの賛意が得られている合意(コンセンサス)」に至ることはできるのではなかろうか。そのためには多くの時間がかかるかもしれないが、粘り強く対話を続けることが現代の日本人に最も求められているのではないかと思う。

2009/05/15

 人間の社会活動はどんなものでも、空間的にも時間的にも、その枠組みや設定が大切だと思う。

 相撲をするのに四角い土俵や三角の土俵ですると、やりづらくて思う存分相撲を楽しむことができない。そういうときは、丸い土俵でやろうと提案することが良いと思う。

 人が話し合うという基本的な人間活動についても、枠組みや設定が大切だ。

 NHKテレビの討論番組「独身者急増―未婚社会/日本のこれから」(5月7日放送)を興味深く見た。主催者側は参加者に対して、「女性は男性の年収がどれくらいないと結婚しませんか」とか「結婚を勧める社会がいいか、個人の自由に任せる社会がいいか」というような質問を準備していた。それに対して、参加者のひとりである女優の菊川怜さんが、「まず愛があって結婚をするのであって、年収がいくら必要かは愛があればふたりで考えていけばよい問題だ。結婚についてまず話し合うべきは愛についてであって、なぜそのことについて誰も何も言わないのか」という趣旨の発言をした。

 それに対して、「菊川さんのご指摘の通り話し合いの順番についてまず考えてみましょう」とはならなかった。大勢の参加者に集まってきてもらっており、討論の設定の変更が困難ということは分かる。ただ、

 このような討論番組ではない少人数の討論の場であっても、主催者側は話し合いの順番に踏み込んでまで参加者に話し合いをさせないのが通例だ。しかし、それでは主催者側から示された話し合いの順番や論点の設定に同意していない話し合いに参加することにもなりかねない。

 私は、話し合いの論点が自明である場合を除いては、参加者全員によって話し合いの順番をまず話し合うという文化を作ることが大切だと思う。そのような話し合いは、各人が何を大切に考えているかにまで話が及ぶことがあるし、考え方の枠組みの違いや、同じ言葉でも別のことを考えていることが早い段階で分かったりすることもあって、順番についての話し合いだと言いながら、かなり核心的な意見交換が始まってしまうことにもなる。私は、むしろその方が、主催者から決められた枠組みで話を進めていくよりも、精神的に自由を感じながら意見表明できるので、より実り多い話し合いになるのではないかと思う。

 主催者側は、限られた時間内で何かを決めなければならない話し合いである場合には気が気でないかもしれないが、話し合いの順番を話し合う意見交換のときに前倒し的に意見が出されており、案ずるより産むが易しではなかろうか。

 ある人が問題だと考えることでも、別の考え方をする人にとっては全く問題とならないこともありうる。話し合いの順番について自由に意見表明をすることで、問題とする必要がないとか別のことが問題だと思わされたり、さらには人生の意味に関する気づきまでも得られることがあるのではなかろうか。

2009/04/15

 現代の日本人は「霊」とか「霊界」というと、「科学では説明できない不合理なもの」と考えることが多いように思う。健康推進を使命とするあるNPO法人の催し物に参加したところ、WHO(世界保健機関)では健康の定義として「身体的」「精神的」「社会的」「霊的」の4つの側面を指摘しているが、「霊的」健康については対象としていません、という趣旨の説明を主催者側がしていた。しかし、私は霊的なものはとても重要だと思う。

 アメリカで生まれたヘレン・ケラー(1880~1968)は、生後1年8カ月のときに熱病のため視覚と聴覚を失った。身体や手で触れたものしか記憶できず、「はっきりした、それでも形体的な記憶の中には情緒とか合理的な考えとか、といったものは一かけらもなかった。わたしは何の意識ももたない一かたまりの土くれのようなものであった」(ヘレンケラー著『わたしの宗教』静思社)状態から、6歳の時にサリヴァン先生という素晴らしい教育係を得て、すべてのものに名前があることを理解した。その後、2つの学位を得て不幸な人々のために生涯をささげた。

 目が見えず耳も聞こえない人の精神生活は制限されたものにならざるを得ないと考えられがちだが、ヘレンは常に好奇心に充ち心は躍動していた。彼女には霊的能力があったからだ。視覚と聴覚を失い光と音の世界から切り離され、それに応じて霊的な認識力がとぎすまされたと言った方が良いのかもしれない。暗黒と沈黙しかない世界の中でも太陽と花と音楽を楽しむことができたし、賢人たちの思想を読んで思索を深めた。

 ヘレンは、大半の人々の心には霊的なものが漠然とし、その感覚から遠ざかっているとしている。彼女にとっては、周囲の人々が感覚と知覚の源泉としての霊魂を理解せず感覚の経験のすべてのものが人間の外側にあると考えていることは「妄想」(前掲『わたしの宗教』)でしかなかった。

 「妄想」を抱くにいたったのは、人間がいわば「霊的無知」に陥っているからとも言えよう。その理由について、卓越した科学者として前半生を過ごした後、56歳になってから30年近くも、昼の完全に目覚めている状態で天使や霊たちと話し合い、ヘレンにも大きな影響を与えたスウェーデンボルグ(1688~1772)は次のような説明をしている。

 「霊界は人間が存在しているところに存在し、いささかも人間から遠ざかっていないが、人間の霊的なものは自然的なものの中へ遥かに入り込んでしまい、人間は霊的なものとは何であるかを知らなくなってしまった」と。

 われわれは、とかく自分が感覚できる世界がすべてであり、それ以外の世界を感覚する人がいるとその人が異常なのだと考えやすい。しかし、無から有は生じえないということが、人間の想像という活動にも当てはまるとすれば、天国や地獄という世界を想像しているということ自体、そのような霊的世界が実体として実在するからこそ可能なのではなかろうか。

2009/03/15

 質問には大きな力がある。人間は他者から質問をされたら、答えようという気持ちが起こることが、質問が持つ力を支えている。

 幼子から「どうして空は青いの」「どうして飛行機は飛ぶの」「どうして動物とお話ができないの」等の素朴で率直な質問に対して、真剣に答えようと努める親や教師は、世の中の様々な現象の本質に通じるようになるだろう。

 大人同士でも、「なぜ」という質問を三回繰り返すと本質が見えてくると言われる。例えば法学部の学生に対して、「なず法律を学ぶの」の問いに「弱者を守りたいから」と返答があり、「なぜ弱者を守りたいの」のさらなる問いに、「弱者を見ると胸が痛むから」と返答があり、「なぜ弱者を見ると胸が痛むの」とさらに問えば、自分はどういう人間なのかとか、人の心はどのように働くのか等本質的なことにおのずと考えが向かうようになる(本質に向かわせる力)。

 悪事を犯した人に検察官が尋問(質問)すれば、事実が明らかになることがある(事実を明らかにする力)。大学の大教室での授業ではよく眠れても、少人数のゼミではいつ質問が飛んでくるか分からないとなれば、眠ることなどできない(緊張させる力)。

 長年の学問研究で顕著な実績のある人が、自分の専門をよく知らない人から質問を受けると、研究してきた事柄のつながりに気付かされたり、役に立つ別の局面を見出したりして、新しい知見や研究の方向性を得ることがある。質問者が別の学問の専門家であれば、彼我の学問の考え方の異同に気付くだろうし、質問者が実務で業績をあげた人であれば世の中の役に立つ学問のあり方に気付くことになる。質問者がいつも本質にさかのぼって物事を考える人であれば、自説の本質的価値に目を向け、内容を深めさせてもらえることになる。異文化の人が質問し合えば、異なる文化的枠組みの出会いが新しい価値を生み出す。(つながりや価値を見つけ出させる力)。

 また、外界に関心を持ち頭が働いていないと質問は出てこない。質問をすると自分が積極的に生きていることを他者に知らせることができる(前向きであることを知らせる力)。

 何人かで話すとき、各自が自分の体験や日頃考えていることを知ってもらいたくてわれ先に話し始めると、その場はお互いに必要でもない情報が無意味に飛び交う無機質な場となってしまいかねない。人間関係の配慮や政治的な思惑からそのような話し合いが続いても喜びは得られない。

 逆に、お互いが相互に関心を持ち合って相手の事情や考えを質問し合えば、困難な状況や必要な努力が何かを想像し、役に立つことはできないかとさらに質問したくなる。そのような話し合いからは精神的な充実感が得られるし、場合によっては経済的・霊的な互恵関係や家族ぐるみの交流に進展する可能性もあり、とても実り多いものとなる。このような力こそ、質問が持つ最大の力ではなかろうか(想像力や愛を誘発させる力)。

2009/02/15

 企業の販売戦略にプッシュ戦略とプル戦略というのがある。家庭や会社を訪問して商品やサービスの説明をして購入や契約を迫るのがプッシュ戦略であり、テレビ・新聞等各種媒体で商品やサービスの優秀性をアピールして客自身を購買行動へと駆り立てるのがプル戦略である。前者は「押し」のイメージがあり後者は「引き寄せ」のイメージがある。広告費をあまりとれない中小企業では、プル戦略を取りたいと思っても取れないと思われがちだが、やり方次第でうまくいく。

 企業の社員研修の指導や講演の依頼で引っ張りだこの元中学教師原田隆史氏は、社員の「直接的努力」とともに「間接的努力」の重要性を説く。直接的努力とは、営業員であれば販売や契約に直接結び付く電話かけや訪問の件(軒)数を多くすること等であり。間接的努力とは、お客様が同じ注文をするのであれば別の人ではなく自分(自社)に注文してくれるように自分の教養を高め人間性を磨くことだという。物不足の時代ならいざ知らず、物余りの現代では商品やサービスの性能や役割と同等に、ある場合はそれ以上に商品やサービスを紹介する人がどのような人なのかが問われるだけに、原田氏の説には説得力がある。

 あるスーパーでは、まず従業員が果物を試食して時期早尚で味がその果物の最高の味に達していなければ、そのことを率直に知らせ、その誠実さが受けて売り上げを伸ばしている。スーツを買うにしても、量販店では複数の中から選ぶというイメージだが、個人商店であれば、どういう状況や場面で着るか、どういうネクタイを合わせ用いるかまで店主が聞いて選んでくれるので顧客満足が高く、多少値段が高くても経営が維持できる。お客様に役に立つことをエピソードにして継続して伝える努力をすれば、温かさが伝わり、そのうえで商行為も継続できるのではなかろうか。

 このような努力とともに、新鮮な情報を適宜伝え、さらに相談を受けたときに解決策を提示できる専門知識と人間的包容力を持てば、お客様の方から連絡をくれたり出向いてくれたりする。間接的努力を継続して行っていれば、資本が少なくてもプル戦略がとれるのだ。

 お客様を引き寄せるプル戦略はもともと男性より女性の方が得意なのではなかろうか。伴侶を得るとき、一般的に男性が女性に結婚を申し込むことの方が女性が男性に申し込むことよりも多い。男性はプッシュ戦略を取ることが通例だ。それに対して女性は美しくなることに多大な努力をし、男性を引き寄せる。寄ってくる複数の中から自分の選択基準に合致した人を選択するというプル戦略を取っている。

 企業経営者はこのような女性の生得的な知恵を生かして、間接的努力を社員が競ってするような組織風土を作り上げていくことができれば、昨今の不況の中でも差別化に成功して生き残っていけるのではなかろうか。

2009/01/15

 行政書士として仕事をしていると、法人設立を考えている方から「会社とNPO法人とではどちらが良いでしょうか」という質問を受けることがある。

 事業を継続していくためにはどちらの形態にした方がうまく行きやすいかという趣旨であるが、「会社とは利益をあげてそれを出資者で配分することが本質であり、NPO法人とは不特定多数の方の公益を実現することが本質であるので、自分が何をしたいかによって決めるのが基本です」というところに、最後に話は落ち着く。

 本当は利益が欲しいのにある思惑からNPO法人を設立すると、利益でなく公益の実現を求める人々が集ってきて組織がうまく機能しなくなる。逆に本当は利益を求める以上に公益の実現を図りたいのに会社を作ると、公益の実現に関心のある人が集まりにくくなる。

 公益を求める団体であっても事業の継続には財政的基盤が必要だから、NPO法人の設立に前後して会社も設立すれば、団体の対外的動機は異なっていても事業活動がスムーズに展開できるかもしれない。

 人と話していて、その人が何を意図しているのかはっきりしないときは、その人の動機を考えるとその人の考えが見えてくる。極端な言い方をすれば、人を犠牲にしてでも自己の利益を図ろうとしているのか、それとは逆に自分が犠牲になってでも人のために生きようとしているかである。もちろん自分も他人も等しく利益を得て幸福になれば一番良いのだが、周囲の理解が得られない中で既成概念にとらわれないことをしようとすれば自己犠牲は避けられない。

 法律も動機を重要視する。刑法では故意か過失かによって量刑が大きく異なる。民法でも、人の命を助けるためにやむを得ず人の財産に損失を与えても、基本的にはその損害賠償をする必要はない。

 毎日の家庭生活の中で子どもにかける言葉を見ても、動機が強く表れている。「A君もBさんも一生懸命に勉強しているからあなたも勉強しなさい」と言えば、「自分が勉強するかどうかは、個性をもった自分の人生における勉強の意義を、自分の人生の目的の中に位置付けて初めて判断できることなのに、周囲の人の行動に無条件に合わせよということは、自分に関心を持っていないのではないか」と子どもから思われてしまう。「お母さんがいつも勉強しなさいと言っているのにどうして分からないの」と言えば、「要は自分のことを重要視してほしいのね」と子どもにその動機を見透かされてしまう。

 「私は自分の体験から君に勉強してほしいと思っているが、それは次のような理由からだよ」と、子供の適性や個性を洞察し、真実や美に触れることの喜びや時代の要請までも説明して、真正面から期待を表明することが、親の真摯な動機が伝わって受け入れられやすいのではなかろうか。
自分の動機を常にチェックしておくことが人間関係がうまくいくうえで、とても重要ではないかと思う。

2008/12/01

 大学を出たての頃、ある大学教授と神田錦町の学士会館のロビーへ同行させてもらったことがある。紳士淑女たちがソファーに腰をおろして新聞や本を読んでいる。その時、1、2度お会いして面識はあるもののそれほど親しくはない方を発見し近づいて声をかけようとしたところ、同行の教授から、ボーイを呼んで名刺を渡しその方との面談の取次ぎを依頼するようにとたしなめられた。

 相手の方が何かに集中していて時間を取りづらかったり、会いたくないこともあるわけで、ボーイを介することで間接的な意思の疎通を図り、双方の意向を尊重できるということのようだ。そのときは、面倒くさいことをするんだなあと感じたが、後になってそのような声も思いも抑制された場の秩序の美しさを感じるようになった。

 国技である相撲の力士に求められるものは、強さとともに潔さや品格であり、それは伝統を維持するのに必要だ。初代貴ノ花は「勝負師は喜怒哀楽を表に出すな」と師匠に教えられ、優勝後の表彰式で涙をこらえるため、ただうつむいていたという。相撲に限らず、雄弁で派手なパフォーマンスを用いる選手よりも、抑制のきいた選手の方が好印象をもたれやすいのではなかろうか。

 男女間の恋愛感情についても、もう少し抑制されたものがあってもよいのではないかと思う。テレビ番組やラジオ番組を視聴していると、好きになったら告白するのは当たり前で、ためらうことは男らしくないとか優柔不断とかみなされている。しかし、自分を見つめ自己を成長させるためには、安易に思いを口にしない方が良いことも多いと思う。

 まして、配偶者を決める前には、ふさわしい人を見極めるために何人かの異性と同棲して相手を見る目を付けた方が良いなどと言う人もいるがとんでもないことだ。自分が結婚するときには豊富な性体験の持ち主ではなく純潔な人を希望すると思う。相手に純潔を希望しながら自分は豊富な性体験を誇るとするならエゴイズム以外の何物でもない。同棲経験者の方が離婚に至りやすいというデータもあるようだ。結婚までは性関係は抑制していた方が良い。

 相思相愛の男女間で、女性の方がもし自分を愛することで相手が義務を怠っていることを知れば、女性は自分の魅力をなくすために、その手で自らの美貌を傷つけることも、以前の日本では珍しくなかったという(新渡戸稲造『武士道』)が、プロポーションなどの外形的な美しさの演出に腐心する女性が多い最近では、このようなことは想像すらできなくなってしまった。

 私は、自分が人のためにできることや、相手が成長するために相手に期待することを表明することにおいては積極的であった方が良いと思う。一方で、自分の思いなど変わりやすいものに関しては、抑制気味に対処し陰陽の調和に配慮した方が美しい人生を構築しやすいのではないかと思う。