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2010/01/15

 社会権的基本権は、国家に対して、積極的な施策を要求する権利です。生存権、教育を受ける権利、勤労の権利、労働基本権があります。

生存権

 憲法25条(1項…すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 2項…国は、すべての生活部面について、社会福祉及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない)の定める生存権の法的性質については、判例・通説の見解が分かれます。

 判例はプログラム規定説(国の政治的・道義的目標を示すにとどまる規定という意味)をとります。政党の公約みたいなもので、実現できなくても「法的責任」は生じません。例えば、国が母子3人の生活費を月5万円という生活保護のための立法をし、その不合理性が明らか(低額すぎる)であったとしても、プログラム規定説では「違憲」の問題は生じません。せいぜい、生活保護法の立法趣旨に照らしての「違法」の問題が生じうるだけです。
通説は、生存権は「抽象的権利」であるとします。国民に、健康で文化的な最低限の生活を営む上で必要な立法を要求する権利があるものの、この権利は抽象的なものであるから、国家に対する強制力がありません。生存権が、立法により実現され、具体的な請求権として定められた場合に、その立法に基づいて、裁判所に権利侵害の救済を求めることができます。この説の根拠は三権分立構造です。

教育を受ける権利

 憲法26条(1項…すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。第2項…すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。普通教育は、これを無償とする)については、「教育権の所在」の問題が最重要です。
①国家教育権説
 教育内容を決定するのは国家であるという考え方です。現場の教師や親ではなく、国が教育内容を決めます。なぜなら、教育は「私的」なものではなく、国には「公教育」を実施する権能があるからです。
②国民教育権説
 教育内容を決定するのは、現場の教師や親であるという考え方です。教育は本来私的なものであるというのがその理由です。国家の権能は、教育を達成するための諸条件を整備することであり、学習内容の決定ではないと考えます。

 結局のところ、教科書検定の問題などについて、文部科学省の教育内容への関与が、どの程度まで認められるのかということが、両説の対立の背景にあります。

 現在では両説の対立については「折衷説」で決着がついています(判例・通説)。「教師に一定の教育の自由が認められるが、その自由は完全な自由ではない。国には教育内容について必要かつ相当な範囲で決定する広範な介入権がある。」のように、両説の顔を立てて間をとるのが折衷説です。

2009/12/15

営業の自由

 経済的自由権については、営業の自由が最大の論点です。営業の自由は憲法22条1項(「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」)の「職業選択の自由」に憲法上の根拠があるというのが判例・通説です。従事する職業を決定するだけでは、個人の経済活動の自由を全うすることはできません。したがって、職業を遂行する自由(営業の自由)も同条同項は保障しています。

 しかし、経済的自由は実際には広範に規制されており、憲法22条1項が明文で規定している制約原理である「公共の福祉」には2つの種類があります。以下に述べる「二重の基準論」は判例は一般には取り入れていませんが、経済的自由の問題に限れば判例は「二重の基準論」を採用していると言われています。

(1)規制その1 警察目的による消極的規制

 例えば、風俗営業法による規制や、食品販売の検査規制の場合です。個人の自由な経済的活動の弊害が、社会公共の安全・秩序維持の見地から見逃せない場合に、その除去のための規制が許容されるという考え方です。すなわち国民の健康の見地から食品衛生について規制するというような場合です。社会公共の見地から、けしからん営業は許さないということですから、「警察目的」であり、弊害の除去のみが目的という意味で「消極的」規制と言えます。この場合の合憲性判定基準は、「厳格な合理性の基準」が妥当するとしています。

(2)規制その2 社会経済政策としての積極的規制

 こちらの制約原理は、社会国家としての公共の福祉です。例えば従来からの地場産業・地元の商店街の振興のために、大型スーパーの立地や出店について規制します。社会国家としての理念に基づき、あるべき社会を建設するため、自由競争原理を排除することも必要だということであり、「積極的規制」と言われます。

 積極的規制については、広い立法裁量が認められます。即ちいかなる社会を作るかということは、基本的に政治の問題であり、司法権が関知することではないというのが裁判所の考え方です。その合憲性の判定基準は非常にゆるやかです。

時代背景の影響

 ある規制が消極規制とされるか積極規制とされるかは、時代背景が関連しています。銭湯の配置について距離制限を定めた公衆浴場法の合憲性をめぐり、2種類の判例があります。最判昭30・1・26は、この規制は国民の健康・衛生のための消極規制としたうえで合憲判決を出しました。これに対し、最判平1・1・20は規制を公衆浴場業者の転業・廃業を防ぐための積極規制としたうえで、合憲判決を出しました。いずれも合憲判決ですが、規制の趣旨についての解釈が異なっています。昭和30年には自家風呂はまれであり、多くの人が銭湯を利用していました(したがって衛生面が重要)が、平成の世に至るまでに、銭湯に行く人が激減し、経営困難から銭湯の廃業が続出しました。両者の違いには、こうした事情が時代背景として考えられます。

2009/11/15

 精神的自由権は、国に不作為を求める権利です。「自由に考え、自由に表現し、行動したい」から、「国は規制をするな」というパターンになります。

思想・良心の自由

 「思想および良心の自由は、これを侵してはならない」(憲法19条)の「侵してはならない」とは、それが内心の領域にとどまる限り、それを禁止・制限することは許されないという意味です。

 ここで問題になるのは謝罪広告です。敗訴被告に対して、「陳謝します」という行為を国家が強制するのです。しかし、心の底では謝りたくない人物に、「陳謝の意を表明しろ」ということは、思想・良心の自由を侵害するとは言えないのでしょうか。

 判例は、合憲か違憲かは、謝罪広告の内容によりけりだと言います。学説の通説的な見解によれば、思想・良心とは、内心の全部のことではなく、世界観や主義・思想を全人格的に持つこととされます(限定説)。そうすると、謝罪広告の基礎にある道徳的な反省は、思想・良心に含まれることはありません。全人格的な世界観とは言い難いからです。したがって、謝罪広告は合憲であるという方向となります。

表現の自由

 「侵してはならない」「思想・良心」の自由はとても価値の高い人権ですが、表現の自由の問題も非常に重要な分野です。

 表現の自由は外面的精神活動の自由です。思想・良心の自由は内心の問題である限りは、他者とぶつかることはありません。しかし、表現の自由においては、外部に伝達するので、他者の人権と衝突する可能性があります。

 D・Hロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」を翻訳・出版した被告人らが、刑法175条のわいせつ文書頒布罪に問われ有罪となった「チャタレイ事件」(最判昭32・3・13)では、わいせつとは何かが問題になりました。裁判所は、わいせつを「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義的観念に反するものをいう」と定義しています。この作品は芸術作品だから出版してよいはずだという主張に対して、判例は、芸術性とわいせつ性は次元が違うと言っています。さらに判例は、「性的秩序を守り、最小限度の性道徳を維持すること」を刑法175条の保護法益とし、この法益が、表現の自由の価値に優先すると考えています。

二重の基準論と比較衡量説

 一般に表現の自由に代表される精神的自由は、経済的自由に優越するとされます。個人の尊厳により近く、したがって、例外的に制限される場合も、その合憲性の判定基準は経済的自由に比べて厳格になります。これを二重の基準論といいます。

 しかし、二重の基準論は一部を除き判例理論ではありません。表現の自由等の精神的自由について判例は、比較衡量説をとります。規制により失われる利益と得られる利益を比較し、後者が大きければ合憲という考え方です。

2009/10/15

 憲法は公法であり、国家と国民の間を規律するものですから、人権の妥当領域として私人間の私法関係に、適用はないというのが原則です。

 重要な判例として三菱樹脂事件(最判昭48.12.12)があります。東北大学出身の学生が三菱樹脂の就職内定をもらいますが本採用を拒否されます。この学生は在学中に学生運動に参加していましたが、会社にうその申告をしていました。学生が労働契約関係の存在確認を求めて提訴しましたが、「企業者は契約締結の自由があり、労働契約締結にあたり、思想信条を調査しそれを理由として本採用を拒否しても構わない」という趣旨の判旨が出ています。

「間接適用説」が原則論であり通説

 しかし、判例において、私人間の訴訟に憲法の影響が全くないかというと、そうではありません。ではどのような理論構築がなされているのかを見てみましょう。

 学説の中には、憲法の人権規定は、私人間にも直接適用されるという説もあります。しかし、支持者は少ないのです。なぜなら、私人間で、人権が保障されているか否かを国家が監視することになりかねないからです。私的自治の原則が脅かされ、プライベートの領域がなくなってしまうわけです。

 しかし、実際には、私人間と言ってもその力量の差はさまざまです。巨大企業という法人が、市民や従業員個人の人権を侵害した場合、その事例に関する立法がなされていない限り、裁判所は何も口出しができなくなります。

 そこで、間接適用説が判例・通説であり、具体的には、民法の一般条項(例えば90条、709条)の解釈に際して、憲法の精神を斟酌するという方法論を取ります。私人間には憲法の条文の直接適用・類推適用はしないものの、民法の条文の適用をする際に、その解釈上憲法の精神を取り入れるというわけです。例えば、私人間で合意が成立しても、憲法の精神に反する合意であれば、民法90条の公序良俗違反だから無効だというわけです。

 重要な判例として日産自動車事件(昭56.3.24)があります。この会社には男子の定年が60歳、女子は55歳という就業規則がありました。そこで、定年退職を命ぜられた女子従業員が、日産自動車を相手に女子を差別するのかということで争ったところ、女子従業員が勝ちました。日産自動車の就業規則のうち、女子の定年を男子より低く定めた部分は無効というのが裁判所の結論です。無効の理由は民法90条(公序良俗違反)です。これは社会的に大きな反響を呼び、この判決後、各企業において就業規則の見直しがされることになりました。

直接適用の条文

 今まで述べたことは原則論です。憲法の条文の中には、例外的に私人間にも直接適用される条文が存在します。例えば、
・憲法18条 奴隷的拘束及び苦役からの自由
・憲法28条 労働基本権(労働者の団結権・団体交渉権・団体行動権)等があります。
 18条は、ことの性質上、当然私人間にも適用があり、28条は私企業においてこれらの権利保障が及ぶことは世間常識と言えるでしょう。

2009/09/15

外国人の参政権・社会権

 人権の享有主体について考える場合の出発点は、やはり人権は究極の価値であるということです。つまり、生まれながらに当然に持っている基本的な権利は、日本人とか外国人という差別にはなじみません。しかし、外国人に対して日本人同様すべての人権が保障されるわけではありません。

 例えば国政選挙についての選挙権は、外国人にはありません。「国民主権」という憲法の大原則に反するからです。判例は、国会議員選挙に関する選挙権を外国人に付与することは憲法をもって禁止されていると考えています。「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」(憲法15条1項)に言う「国民」とは、文字通り「日本国民」のことです。

 しかし、地方議会議員の選挙権を外国人に与える立法をしても憲法に違反しないのであって、そういう措置を講ずるか否かはもっぱら立法政策の問題だと判例は言います。国政選挙については国民主権の原理から外国人の関与は許されないが、地方自治の場合は国政との「かかわりが薄い」ので、永住者等その居住する地域と密接な関係をもった外国人の関与を認めても、国民主権の原理に違反しないというのがその理由です。

 一方、社会権も参政権と同様に前国家的な権利ではありませんから、日本国憲法は外国人に対して社会権を保障するものではありません。社会保障の給付を行うにあたり、自国民を在留外国人より優先することは、憲法上許されるのです。ただし、判例は、法律をもって外国人に社会権を保障することが、憲法上禁止されるものではないとしています。

外国人の自由権

 自由権は前国家的な人権・天賦の人権です。したがって、その性質上、外国人にも保障されるはずです。しかし、ひとつの例外があります。

 外国人の日本国への「入国の自由」は、憲法上保障されません。その根拠は国際慣習法にあるとされます。国際テロリストとして指名手配中の人物は、その素性が分かれば入国が拒否されるのは国家の安全保障のために当然のことです。判例は、憲法22条1項に定める居住・移転の自由は、日本国内での話であり、外国から日本国への移転の自由を含むものではないと判示します。一方「出国の自由」は制約条件なく認められています。

 それではいったん入国した外国人に「滞在の自由」はあるのでしょうか。アメリカ国籍のマクリーンという人が、在留期間1年の許可を得て入国しました。1年経過後、在留期間の更新を申し出たところ、当時の法務大臣が、マクリーンが反政府運動をしたことが許せず、更新を不許可としました。マクリーンがこの不許可処分の取り消しを求めて裁判をしたところ、判例は、外国人の在留の拒否は国の裁量事項であり、外国人にはわが国に在留する権利が憲法上認められているわけではないと判示しました(マクリーン事件)。

 「再入国の自由」についても、外国人登録法による指紋押捺を拒否していたアメリカ国籍の女性の再入国を認めなかった当時の法務大臣を勝たせる判例が出ています(森川キャサリーン事件)。

 外国人のほかに、人権の享有主体を考える際の論点としては、法人の人権、天皇・皇族の人権・未成年の人権が問題になります。

2009/08/15

憲法は法律か

 法律というのは、Aという事実があればBという法律効果が発生するという形で規定されます。たとえば「他人の財物を窃取」すれば「10年以下の懲役」に処せられます(刑法235条)。しかし、憲法はそうではありません。憲法25条1項は「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定します。ではホームレスの人たちが「俺たちは健康で文化的な生活をしていない」と主張して国に、「月に20万円よこせ」という訴訟を提起できるでしょうか。このホームレスの人たちの主張は認められません。その理由は、憲法25条の理念の実現は裁判所の仕事ではなく、国会や行政府の仕事だということにあります。

 裁判所はあくまで国会が作った法律を個々の事案に当てはめるのが仕事です。「ホームレス問題対策法」という法律を作ることはできません。だから、裁判所はホームレスの人たちの主張を認めないのです。ということは、憲法25条は法律ではなく政治上の努力目標だということになります。つまり、憲法の条文の中に政党の公約みたいなものが混在していることになるのです。他にも、「すべて国民は勤労の権利を有し義務を負う」(憲法27条1項)は、国民の「勤労の義務」を定めていますが、これは働かない国民に強制労働をさせる趣旨ではありません。つまり法的義務ではなく単なる道徳にすぎません。

人権について

 憲法がわが国の最高法規だとされる(憲法98条1項)根拠は、憲法97条にあるとされます。すなわちこの憲法が「基本的人権」を保障しているから最高法規だというのです。基本的人権は一般に「人間が、ただ人間であるということに基づいて、生まれながらに当然に持っている基本的な権利」と定義されます。その人権の根拠は「個人の尊厳」です。個人の尊厳がおおもとであり、国家はそれに奉仕するものだという考え方です。現在行われている一般的な憲法の教育においては、人権を超える価値は存在しないことになっています。

 人権は国家に先んじて存在します。いわゆる自由権がその典型です。自由権は「国家からの自由」と言われます。つまり、国は余計な口出しをしてはいけないという考え方です。自由権には、思想及び良心の自由(19条)・信教の自由(20条)・集会、結社及び表現の自由(21条)等の精神的自由と、居住、移転、職業選択の自由(22条)・財産権(29条)等の経済的自由があります。より重要なのは精神的自由の方です。精神的自由の制約は、「人間の尊厳」にとってより重大な問題だからです。

 人権には国家が存在して初めて概念しうるものも存在します。参政権と社会権です。参政権は選挙権、被選挙権を含む「国家への自由」です。社会権は、生存権(25条)・教育を受ける権利(26条)・勤労の権利(27条)・労働基本権(28条)等の権利、すなわち国家に対し「人間らしく生きるための社会的基盤を整備しろ」という権利であり、「国家による自由」です。社会権は裁判所が関与しにくい分野であり、そういう意味で法的権利としては弱いと言えます。