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2009/02/15

 ユダヤ人は祖国を追われたり大量虐殺されたりという歴史を持っており、身の安全には高いコストがかかることを覚悟しているのに対して、日本人は平和な別荘でおかいこぐるみで育てられ、秀才だが世の荒波は知らず、安全と水は無料で手に入ると思いこんでいます。しかし、毎年季節に合わせて同じように行われる稲作に千数百年にわたり従事し徹底的に訓練されたおかげで、定めた一定期日から逆算して秒刻みのスケジュールでことを運ぶという特殊技能の持ち主であると、両者を比較します。

 日本人は「人間とはこうすれば相手も必ずこうするものだ」という「理外の理」を信じ、「人間性」「人間味」「人間的」なるものが法律よりも優先される「法外の法」が一種の宗教的規定となっており、日本人はすべからくそのような思考方式を持っている「日本教徒」であると言います。日本教に神学はなくあるのは人間学で、聖典は日本国憲法であり、天皇は日本教の大祭司だとします。

 一方ユダヤ人はその律法に従い、食事の回数を減らしてでも全収入の十分の一は神殿に納め、甚だしきは殺されても安息日には動かないくらい律法を守る民だとします。それは、ユダヤ人は律法を守ることにより神の養子としてもらうという契約を結んだからであり、契約を守るとは律法を一点一画まで正確に守り抜くことだからだと言います。

 反乱軍の主領として敗死したのに立派な銅像が立つ、日本教の「殉教者」西郷隆盛の「天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以って人を愛する也」のことばは、ユダヤ教のラビの言葉に通じるものがあると類似性を指摘しながらも、思考様式は大きく異なっているとします。

 聖書や論理学に慣れ親しんだユダヤ人は、言葉とは本来数式のようなもので文章とは言葉の数式のようなものだと考えているとします。一方、日本人は、日本語の単語が豊富多彩で一語一語が示す範囲が非常に狭いので、ユダヤ人のように具体的なものの言い方をせず抽象的な表現をしても、実際の問題を処理し日本社会を運営してこれました。

 いわば論理性以上に「知的容姿」が大切にされる日本では、うっかり西欧的思考を加味したりすると全く意味の通らない珍語、珍文になってしまいます。例えば、「目には目を、歯には歯を」という日本人によく知られた言い方の原典である旧約聖書の該当部分は、どう読んでも「人の目や歯を損傷したら自分の目や歯を損傷して償わなければならない」という償いの論理としか読めないのに、日本では復讐の論理として広く解釈されています。これは一例にすぎません。

 著者は、日本教は信徒自身が自覚し得ぬまでに完全に浸透しているので、世界で最も強固な宗教であると指摘しています。私は本書を読み進むうちに、日本人は世界のさまざまな教えを寛大に受容してきたとよく言われますが、日本教に合致する部分を取捨選択してきたにすぎないのではないかと思い始めました。

 本書の中で著者は自分を日本語が話せるユダヤ人であると紹介しています。周知のように著者は日本人の山本七平氏(山本書店店主)であり、本書を説得力あるものとするための演出をされたのではないかと思います。

2009/01/15

~日本人論中の最高傑作と言われる名著~

 本書は、1934年に韓国で生まれ、新聞社の論説委員、大学教授、韓国初代文化相等を歴任した著者(李御寧)による日本文化論です。

 著者が学校生活を過ごした日本による植民地時代に、最初に出会い不思議に思った日本人は一寸法師、桃太郎、金太郎、牛若丸でした。彼らに共通した一つの印象は小さな巨人たちということでした。韓国の昔話に登場するヒーローには巨人はいても小人はいませんでした。

 著者は、一寸法師のような極小主義の想像力が日本人の一つの発想法となっていろいろな文化を創り出していると見ます。その典型的なテクストは、たった17文字に広い宇宙と四季の時間をあらわす俳句ですが、他にも扇子からトランジスタに至るまで数多くの作品が「縮める」という日本人の「和魂」が作り出したものだとします。そして、同じ島国でも英国の文化型は「拡がり」の文化を志向していることを考えれば、外部的な与件のゆえにそうなったのではなく、日本人が進んで縮み志向を取り入れたのではないかとしています。

 著者はこの縮み志向を6つの類型に整理しています。①入れ子竿のように「広く使って小さく納める」など「込める」ことによる「入れ子型」②中国や韓国から伝わったウチワを「折畳み」扇子を作ったり、俳句では月を「引き寄せ」、「握る」ことでおにぎりを作るなどの「扇子型」③手足を「取り」人形を作ったり、漢字を手本にしてその手足を「削り」簡素化して仮名文字を作るなどの「姉さま人形型」④食膳を小さな箱の中に縮め、神社もお神輿に縮め、昔は茶室や庭に、今日はトランジスタやカメラに、さらには仏教までも「南無妙法蓮華経」の7文字に「詰める」「折詰弁当型」⑤剣術の動きと精神を時間的に縮めた「構え」や、感情の構えを一つの表情に縮めた能面等の「能面型」⑥徳川の葵紋や家紋、職人の半てんや商家ののれん等、忠誠心と一体感を「凝(こご)らせる」「紋章型」です。

 著者は日本文化の縮み志向を否定的に見ているわけではありません。茶会の出会いが再現不可能な一瞬の時間であるとすることから生まれた縮みの時間である「一期一会」と、縮みの姿勢である正座の文化が、普段の生活語の「一所(生)懸命」として表れたとします。料理人が客の前でまな板を置いて料理を作るのも、歌舞伎の演技者と観客の間の花道も、主客が一方的に与え、受けるという関係ではなくともにある共感を作り上げる座の仕掛けであり、それが日本式団結力を生み出しているとしています。

 その一方で、日本人は「内」と「外」の観念を作って、何を見ても内と外に分けて行動する傾向が強いとします。内とは自分がよく分かり肌身に感じられる縮みの空間であり、外とは、拡がりの世界で抽象的な広い空間です。豊臣秀吉は草履取りから関白まで「縮み」の方法でいったときは強かったが、天下を統一した後「拡がり」志向に手足を伸ばしたとたん、判断力を喪失し朝鮮の役という誤算を犯しました。松岡洋右の国際連盟脱退も、国際的な立場から見れば拙劣な振舞いでしたが、国内では拍手喝さいを浴びました。

 著者が日本文化を広く深く考察していることに驚きます。本書は、自分の意識や行動規範を見直させてくれる含蓄に富んだ一冊です。

2008/12/15

 本書は、1952年にアメリカで生まれた著者(アレックス・カー)が、アメリカ、日本、イギリスで日本学や中国学を学び、日本に滞在する中で日本の伝統文化に魅了され、それが失われていこうとする現代日本に失望しつつも一縷の希望を見出そうとする、司馬遼太郎氏も絶賛した心に響く随筆集です。

 著者は子供のころ、父の仕事の関係でイタリアのナポリに住み、夢は「お城に住むこと」でした。アメリカに戻り、ワシントンの小学校で中国語を学びました。12歳のとき、またも父の転勤で横浜の海軍基地に住んだ頃一番好きだったのは、「神秘的で美しく、自分が生まれてくる前の遠い遠い昔に戻ったような感じ」の日本の家であり、それが著者にとってのお城になりました。

 17歳の時にアメリカのエール大学の日本学部に入学し、19歳の夏にヒッチハイクをしながら日本全国一周の旅に出ました。雑木林で覆われ谷間からは霧がたちこめ木の細枝は風に吹かれて羽根のようにふるえ、その谷間に岩肌が見え隠れする美しい自然と、日本人の親切さに深く心打たれ、その頃の日本の自然を思い出すと涙が出てくる著者は、それから20年の間に日本の自然がガラリと変わってしまい、どこへ行っても看板、電線、コンクリートとパチンコ店が目につく国となってしまい、「木、山、石、海岸を全部ポイッと歴史のゴミ箱に捨てた」日本は、世界の中で「醜い国」の1つになってきていると嘆きます。
 
 日本全国一周の最後に友人の勧めで四国の秘境であり、平家の落人の里である「祖谷(いや)」に行ったとき、「日本は住みたい国だろうか」という自問に対する答えが出ます。七二年に慶応大学に1年留学したときはしょっちゅう祖谷へ遊びに行き、何十軒も民家を見て回った後、茅葺の小さな空き家を見たときには「これだ」と思い、探し求めていた「お城」を見つけ購入しました。エール大学に戻り、卒論のテーマは祖谷でした。

 1974年にオックスフォード大学に留学して「中国学」を学び、中国共産党の文化破壊にすさまじさに驚愕します。1976年に京都の「大本」という宗教団体のセミナーに参加したことがきっかけで、七七年に大本の国際部に就職します。それ以降、屏風、書道、歌舞伎、生け花、お能など伝統芸術の世界にのめりこんでいき、日本の文化のエッセンスや思想は中国の孔子、孟子等のように言葉としては残っていないものの、定家、世阿弥、利休等で代表される伝統芸術の中にあったことを見抜きます。

 77年からは京都の亀岡の天満宮(もとは400年前の尼寺)に居を構え、豊かな自然を味わい、昔の暦にある「清明」「白露」「啓蟄」等の「気」を一つ一つ楽しみます。特に書に対する思いれが深く、「書は心の絵なり」とし、一休の詩や伝記を読んでもよく分からなくとも「一休の書を見ると途端にその力強さ、皮肉、いやらしさ、知恵、天才的才能、それら全部が一気に伝わってきます」といいます。著者自身も書を書きながら、知り合いの踊りの先生と、書と踊りを一緒にしたイベントの開催もします。

 親交のある坂東玉三郎が書いたまえがきにあるように、「美しい日本の姿を残していきたいというアレックスの情熱、日本への愛情」をひしひしと感じる名著です。

2008/11/15

 本書は、1955年にインドで生まれ、大学で学んだあと市場調査会社に勤務中の1992年4月から94年1月までの1年8カ月の間、日本に滞在した著者(M・K・シャルマ)が執筆した、傑出した日本人論です。

 飛行機から憧れの日本に降り立った著者は、動く歩道や美しいが無機質な英語のアナウンス等に触れ、「システムが私を迎えてくれたことに夢を感じた」。著者の次の驚きは、店で勘定をしても人々は釣りを確かめることもなく、また自分の荷物をソファーに置いたまま離れる風景は信じ難く、日本は「信頼が先行する」徳の国と感じたことでした。言葉づかいにしても、たとえば「いい」という言葉が、あいまいで厄介な言葉なのに頻繁に使われていることを知り、日本人は相手の心を推し量ることに価値や美意識を見出していることに感銘を受けています。

 しかし、次第に日本文化の欠点が見え始めてきました。過剰の消費が横行して若者を脆弱にしており、日本社会は若者を「未来」としては見ておらず「消費者」としか見ていない。とりわけ、「若い女性たちは自己を商品化し、男性たちに自分を争奪させるゲームを演出して過剰消費をあおる社会の意思に応えた」とします。

 インドの職場には身分意識が強く残りセクショナリズムに陥りがちであるのに対して、日本の職場やビジネスでは酒席等で「赤裸々な姿を見せ合う」ことが信頼を獲得することにつながることや、日本人の恥の概念は人間の「個」に関わる要素ではなく社会的な「関係」に関わることであることを知り驚きます。そしてついに、日本とパートナーを組むことの難しさの第1は、日本人が持つ抜きがたいアジア人蔑視と宗教文化への無理解であることを見抜きます。

 この本は、傑出した内容に劣らず、本となるに至った経緯にも驚かされます。訳者の山田和氏(富山県砺波市生まれの作家・写真家)がインドを旅行中、ニューデリーの本屋でたまたまヒンディー語での「日本の思い出」というタイトルの本を手に取り、珍本的価値があると思い購入しました。山田氏はその後インド西部の最深部にあり中世の香りが今なお漂うジャイサルメールという町を旅していたときに、ある中年のインド人が声をかけてきました。そのインド人は、山田氏に日本人かと尋ね、そうだと分かると、あなたの国で暮らしたことがあるから食事に招待したいと言いました。普段は慎重な山田氏が、その男に惹かれるものを感じついて行って食卓を囲みました。話の途中で、こんな本をニューデリーで見つけたと言って、バッグから取り出してその男に見せると、なんと著者その人だったというのです。山田氏は、3ヶ月後に著者のシャルマ氏からその本の英語の原稿を受け取り日本語に訳して、本書が誕生したというわけです。

 私がこの本を読んで最も心に残った部分は、日本での滞在を終えてインドに帰る時の著者の心境を述べた次の一節です。「静かな所へ行こう。百年も古い世界に行こう。…物を買うにしても売るにしても、そこから相手の人格を学べる世界で生きよう。私はそのときそう決心した。」

 私はこの本の訳者のように、シャルマ氏の住むインドのさびれた町を訪れ、その心境をもっと深く尋ねてみたい。