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2008/12/15

 テレビの討論番組を見ると、あるテーマに関して、大学教授や評論家等の論客が対立的な討論をよくしている。

 対立的な討論は、論点が明確になり分かりやすいという長所がある反面、論客が自分の立場や所属団体に過度にとらわれていると自由な発想ができにくい、という短所がある。また、論客にもよるが感情的になりやすいということもある。

 その場に参加した一般市民が適宜、意見を述べる形式の番組もあるが、専門知識を有する論客の主張が中心で、一般市民の発言時間は概して少ない。

 私は議論を対立的にすることで解決策を見つけ出そうとする考え方の中に、対立が変化や運動の原動力となるとする「正反合」の呪縛のようなものを感じる。

 新しいアイデアを生み出すのに何も対立的な手法でなければならないことはない。話し合いの目的や狙いに合意しそのルールを共有した場では、穏やかな手法でもずっと良いアイデアが生まれると思う。

 例えば、どうすればある公益が実現できるかというテーマを設定し、自由に意見を出し合う。人が出した意見に対して批判や議論をすることを禁止し、出た意見に別の意見を付け足すことや突飛なアイデアを歓迎する。意見の質は問わずたくさん出ることを歓迎する。このような発散的な話し合いで終わってもよいし、具体策を選択するための合意形成の話し合いをしなければならないのであれば、セッションを変えて合意形成の手法を用いて話し合いをしてもよい。

 1つ1つの意見は一般市民が日常生活で感じた率直なものであってもよいし、専門家が研究の結果達した成果でもよい。参加者1人1人も意見1つ1つも同じ重みを持つ。各意見は予め定められた枠組みの中に入れられるのではなく、「(意見が書かれた)カードに語らせる」(KJ法創始者の川喜田二郎氏の言葉)の精神に則り、各意見の等身大の内容とそれが生まれた文脈を大切にする。

 専門家同士の議論ではテンポが速くて一般の市民はついて行くのが精一杯で、よく分からないうちに次の局面に移ってしまったりする。また、共通の認識を欠いたまま議論を続けていくと堂々巡りに至ることもあるのではないか。

 例えば、障害者問題について話し合うときには、参加を希望する障害者の方にも参加してもらう。実際の状況に対する情報を、感情までも含めて正確に共有するためである。話し合いの速度が遅くなって参加者が忍耐力を要求されることがあっても、あえてそのような忍耐を要求される人間関係の場がもたれることを良しとする合意を事前に得ておく。そうすることによって、その場に出される意見を、発言した人の人格とセットで理解できることにもなる。

 物の売買の場でも、話し合いの場でも、他の生活の場でも、相手の人格を学べる世界を作っていくことが大切で、それこそが正反合の枠組みと、閉塞状況にある日本と世界を脱する新しい枠組みの新地平だと思う。

2008/11/15

 外国へ来た日本人のプロフィールの中の宗教の項目に「無」と書かれているのを見ると、外国人は「この人には行動原理はないのだろうか」といぶかしがるという。日本人同士でいるときは違和感を感じなくても、今後、外国や日本で、外国人と共に生活していくような場面が多くなると、相互理解が進まず関係がぎくしゃくすることにもなりかねない。

 既にそうなっているかもしれない。ムスリム(イスラム教徒)であるアジアの人々と日本人とが一緒に議論した場で、ある日本人が「一度ムスリムになると他の宗教に変わることができないのは不自由ではないか」という趣旨の質問をしたところ、あるムスリムの方は、「何のためにムスリムになるかということが大切です」とやんわりと返していた。

 私はそのやり取りを聞きながら、日本人の質問は失礼な質問であり、同じ日本人として申し訳ないような気持ちになった。イスラム教を信じることがムスリムにとってどういう意義や価値があるかを理解しないまま、宗教が変わるという一つの現象から受ける自分の印象を相手に伝えて、いったいどういう意味があるのだろうか。

 およそ日本人は一神教に対する理解が乏しい。「神は、いると思う人にとってはいるが、いないと思う人にとってはいない」などという、意味不明な日本人の発言を公の席で何度か聞いた。それが神やその信者に対してどれほど侮辱的な発言であるのかを理解していない。「価値観の多様性」の錦の御旗の下に何を言っても許されると思いがちだが、「精神が停滞している」とみなされることにもなりかねない。

 子どもが大人になっても働きも学びもせず、親に感謝することもなく経済的に依存し続けていれば、「これが私の価値観です」と当人が言っても、「精神の停滞」としか見なされない。同じように、豊かな生活を享受しながら、豊かな生活を支える万物が存在する被造世界を設計し創造した神に対して感謝せず、その恩恵だけを受けていれば、「それが私の考えです」と主張しても、日々唯一の神に感謝の祈りを捧げる一神教の信者は辟易してしまう。

 「日本は自然万物に感謝するという教えの仏教の信者が多いから、設計や創造の神を持ち出さなくてもよいではないか」という意見が聞こえてきそうだ。ただ、親に育てられた子どもが、「食物や衣服には感謝するが、それを与えてくれた親に感謝しない」というのはピントがずれている。同じように、一神教を信ずる者から、「自分を生かしてくれる自然の恵みには感謝するが、それを準備してくれた神に感謝しないというのはおかしい」と思われても不思議はない。

 イスラム教やキリスト教等の一神教を信じる外国の方が日本人と話していて、拍子抜けしたり、もう少し基本的なことを理解してほしいと思うことがたくさん出てきて、挙句の果てに、日本人は精神が停滞していると思われてしまうことを、私は心配しているのである。


2008/10/15

 美しくなるために多くのお金を投入して美容整形をする人がいる。「美人といえども皮一枚」ということわざがあるが、より本質的な内面の美しさに目を向けたらどうですか、と言いたくなる。

 東京工業大学の本川達雄教授は、専門の生物学の観点から、子供を産むことができる限りにおいては、子供を作るかどうかの選択は個人の好みで済むことではなく、連続する生命の環の一つである我々は、その輪を伝えていく責任を先祖に対しても子孫に対してももっている、と明言しておられる(読売新聞、平成18年11月8日)。

 個人の「自己決定権」を拠り所に、結婚するもしないも、また子供を持つも持たないも個人の自由だという考え方が広まっている日本において、とても本質的で重要な指摘だと思う。

 同教授は、歴史上の事件に共通する本質を歌にするなど、ユーモアもお持ちだ。本質に目を向け、かつユーモアがあることは一流の学者(研究のみならず教育もする)の条件ではないかと思う。

 アメリカでは、レーガン元大統領が歴代の大統領の中で最も偉大な大統領であるとの評価が定着しつつあるようだ。同大統領は共産主義の本質を見抜き、アメリカとソ連が軍縮に向かうためには、まずアメリカが軍拡をして軍事力の均衡を目指すべきだとの信念を実行に移し、ソ連を平和に向かわせることに成功した。同大統領は、本質に目を向けるだけではなく、信念とユーモアを併せ持つ一流の政治家だった。

 企業経営者は経営環境に常に目を配り適応するように努力しないと、企業は事業活動を継続できなくなる。一見、本質よりも周囲に目を配りそれに合わせることを重視すべきではないかとも思われやすい。しかし一流の経営者は卓越した経営哲学を持っている。企業経営の本質を見失わず、その上に、信念とユーモアがあれば鬼に金棒だ。

 私の事務所に定期的に来られるIさんも本質を中心に物事を見る人だ。目に見えないものを売る仕事なのでなかなか人々に理解されない中でも、人々の人生を有意義なものにしてともに喜びたいというスタンスは一貫して変わらない。偏見なく人の本質を見られるので、話をしていてもお互いに得ることが多い。

 冒頭で美について述べたが、女性の、外面の美に対する関心は目をみはるばかりだ。髪、眉毛、まつげ、まぶた、鼻、唇、乳房、手足の爪、皮膚等、細工の対象は全身に及ぶ。昔と今とでは細工の方法は異なっていても、その熱心は変わっていないのではないかと思う。「不易流行」と言われるように、女性の外面の美に対する熱心は、もしかすると本質的なものなのかもしれない。いずれにしろ、本質に目を向けて生きていきたい。その上に信念を持ちユーモアのセンスを磨いていけば最高の人生だ。

2008/09/15

 申請取次行政書士という職業上、外国人が在留資格を得るために行う申請のお手伝いをすることが多い。インドやバングラデシュからの留学生、料理店の経営や中古車販売業に従事するパキスタン人、母国に残してきた子を呼び寄せることを希望する中国人女性等だ。

 最初のころは、外国人ということで多少緊張したが、各国の外国人と会う中で、自分の人生を充実させ家族と幸福に生活することを願っている点では、日本人と全く同じだと実感した。中には親しくなってご自宅での夕食に招かれお返しに富山名物のブリ大根を差し上げたこともある。外国の方は概して積極的な方が多い。ことばがよく分からない日本にやってきて定着しようと努力しておられる。今は仕事上の付き合いがほとんどだが、家族同士で交流するようになれば多くのことを学ぶことができるのではないかと思う。

 異文化の人の出会いは、相手を「認める」「認めない」という基準と、「受け入れる」「受け入れない」という基準で、次のように分類できるという。

 相手を認めしかも受け入れようとする「共生」、相手を認めるが受け入れることはしないという「すみ分け」、相手を受け入れてもそのままでは認めないという「同化」、認めも受け入れもしない「分離」である。植民地支配をして自国の宗教や名前を押し付けるのは「同化」であり、他民族を自民族と異なるという理由で大量虐殺するのは「分離」である。いずれも人間の尊厳や基本的人権を踏みにじる行為であり認められることではない。

 議論になるのは、「すみ分け」を目指そうとするのか、「共生」を目指そうとするのかである。外国人を受け入れない方が治安が悪化せず雇用の機会も外国人に奪われないとして、外国人の受け入れは必要最低限の場合に限るというのが「すみ分け」の基本的姿勢といえよう。このように考える人たちは、外国人失業者が街に溢れるようになった場合の危険性を指摘する。

 一方、共生を目指す人たちは、外国人を「労働者」として受け入れる発想を捨て、家族ごと日本に定住する「移民」として受け入れよう、そして日本語を始め専門的技術を積極的に教えて日本社会に貢献してもらうとともに、「日本に来てよかった」と思ってもらえる国作りをしようと提案する。

 私は、日本は多文化共生の道を行くのが良いと思う。人は理解しにくい人や文化に出会ったときに、自分に無関係なものとしてしまうのではなく、その人や文化が生まれてきた経緯を知ろうとすることで、新しい発見をして自分の器が大きくなり、結果的に相手を受け入れることができる。外国人の受け入れに伴い起こると予想されるいろいろな問題は、受け入れ反対の根拠とするのではなく、解決すべき課題と考えられないだろうか。そのためには、平和的共存と共創の明確なビジョンと、世界人類すべてが家族であるという心情に基づく「為に生きる姿勢」が必須である。

2008/08/15

 キャベツの葉の上を動き回る蝶の幼虫は普段、2次元の平面世界の中で生きている。彼が3次元の立体世界を知る方法は2つある。1つは3次元世界で動くものの影が2次元世界に投影されたときに、察知能力があれば2次元世界以外の存在を察知することができる。もう1つは、幼虫自身が脱皮して蝶となって3次元世界に羽ばたくときである。未知の世界を知って新しい人生(蝶生)が始まる。

 世界中から注目されている理論物理学者リサ・ランドール女史(ハーバード大学教授)は、素粒子の共同研究をしていた時に、原子核を構成する素粒子の中にこの世界から姿を消すものがあるという矛盾にぶつかった。その解決のためわれわれの世界を取り囲む別の次元があると仮定し、その形を特定するための試行錯誤を繰り返した。その結果、その異次元世界はわれわれの3次元空間を取り巻く巨大な時空であることを理論上立証したという(『異次元は存在する』NHK出版)。

 われわれはとかく自分が生きている世界がすべてであって、その世界における常識で物事を判断してしまうことが多い。リサ女史の研究発表は、われわれは何に取り囲まれているかわからないし、われわれの世界の運行を規定する原理原則が何であるかが完全に分かっているわけではないことを想起させてくれる。蝶の幼虫のように、われわれ人間にも全く新しい驚きの世界が待っているかもしれない。

 このような観点からすると、従来の科学の思考の枠組みから、未知なるものを一刀両断に否定してしまうことは、新しい可能性の芽を摘んでしまうことにならないだろうか。

 読売新聞夕刊(平成18年10月2日)では、日本物理学会の発表会のようすを報告している。この発表会では、「言葉の意味が水に影響を与える」という説の発表に対し、それは「科学ではない」との批判が相次いだという。取材した記者は「科学ではない」との主張ばかり紙面に載せ、「ニセ科学」に警戒を呼び掛けているが、バランスを欠いていないだろうか。「言葉の意味が水に影響を与える」という話は、一部の学校教員が道徳の授業や生徒の言葉づかいの指導に用いているだけに、それを阻止する結果にもなりかねない。

 「生物でないただの水が、人間の言葉の意味に反応するというのは、即座に笑い飛ばす程度の話」だとする学者がいるようだが、この分野の研究において、将来コペルニクス的転回がおこり、「水が人間の言葉の意味に反応するのは当たり前」になる時代が来るかもしれない。

 いまだよく分からないこと、特に良心が受け入れたいと思いつつ証明ができていないことに対しては、その時点に達している科学の水準を絶対的なものとして決めつけるような判断をすることは控えたいと思うが、いかがだろうか。

2008/07/15

 現代社会は、諸科学が高度に発達した社会だが、一番開発が遅れているのは、他ならぬ人間自身、とりわけ人間間のコミュニケーションではないかと思う。特に人と人とが面と向かい合ってする話し合いの方法は改善の余地が大きい。

 ビジネスの会議でも、自分の過去の体験談や人生哲学までも長々と話す人がいると、時間が押して十分な議論ができなかったりする。ビジネスの会議では、①明確化のための質問②代替案の提示③リクエストの3点に発言を限れば、会議参加者が自分のコメントや哲学を述べる会議に比べて20倍も会議の効果性が上がるという(大橋禅太郎著『すごい会議』大和書房)。

 しかし、そういう会議は効率は上がるかもしれないが、メンバーの発言の背後にある思いが分からず真の理解に至らないおそれがある。結論を出すための会議とは異なる、自分の価値観や哲学を自由に述べ合うことを主眼とした意見交換会を別の機会に設けて、お互いの人間性や抱えている事情を相互に理解するようにしておけば、効率を追求したビジネスの会議でも成果が上がるだろう。

 半年ほど前に興味深い話し合いの会合に出たことがある。共通テーマ(「ファシリテーションさんへの愛の告白」)のもといくつかのグループに分かれ、各グループのテーブルには大きな紙がテーブルクロスのように敷かれていて、落書きが公然と許されている。また照明も薄暗くして雰囲気を良くして話し合いを行う。最初のセッションが終わると各グループごとに居残る人と他のグループに出かけて行って話す人(旅の人)を決めて、また話し合う。そのセッションが終わると旅の人は元のグループに帰ってきて、それぞれ話し合ったことを報告し合う。このような形式(ワールドカフェ)で、自分の経験に基づく哲学や価値観を述べ合い、自由な意見交換による気づきを得ていった。

 このようなワークショップ形式の話し合いは、とても有効だ。ワークショップの参加者はみな平等だ。社会的地位が高く、声が大きいからといって、発言が優先されることはない。進行役のファシリテーターは、参加者ひとりひとりの価値観やアイデアを尊重し、話し合いのルールに従って自由に発言してもらい、創造的な話し合いが行われるように仕向ける。良いファシリテーターは、大きな真っ白な見えないキャンパスを会場に作り、参加者の意見を最大限に引き出して、合意形成という芸術作品を生み出していく。

 私は小中高校の授業にも、ワークショップを取り入れることを提案する。自分の思いを皆に偏見なく聴いてもらえ、クラスメートの発言からその人の独創的なアイデアや人間性に触れることは、生徒の人間理解を大きく促す。今日の教育現場や家庭で起こる悲惨な事件や問題の多くが解決していくことにきっと役立つはずだ。

2008/06/15

 物の価値とは、それを手に入れたり作ったりするのに要する時間(労働時間)で決まるとマルクスは言った。この説が間違いなのは明白だ。海に潜る海女さんが海底から取ってくる貝は大きくて中身が詰まっていれば価値が大きいが、同じ時間をかけて取って来た貝が小さくて中身が詰まっていなければ価値が小さいことを考えれば、すぐに分かることだ。

 物の価値の本質は、それがどれくらい人間の役に立つかという、そのものが持つ意味や役割にあるのであって、投入する時間の大小(強度)で価値が決まるわけではない。

 子どもが勉強する意味が分からないと言ったら、親はその子の適性を見極めて、「興味が持てる教科や分野を一生懸命学んでその道で一流になれば人の役に立てるし経済的・精神的に自立できる」ことを説明して、社会における自分の役割や意味を説明してあげるのが良いと思う。高い点数や有名校に入れることにこだわりすぎて、点数という一元的評価基準の高さ(強度)だけを要求すると、子どもは優越感や劣等感を感じるだけで、共感力や自立への精神的基盤が育ちにくい。

 社会学者の宮台真司という人は、「生きることに意味はなく生き続ける理由もない」とし、生きる意味を求める生き方から離脱して快楽の強度を求める生き方を勧めている。また、「女子高生の援助交際は『キツイ学校的日常を潰されずに生き抜く知恵』である」と評価している。彼の若者に対する影響力は大きく、複数の人が彼の言葉によって人生の無意味感を強め自殺しているという(『宮台真司をぶっとばせ』、コスモス・ライブラリー発行)。

 言論の自由が保障されている日本で宮台氏のような人が現れてもやむを得ない。人は、人生で何に出会うか分からないのだから、宮台氏のような考え方に出会っても正しい選択ができるようになっていることが大切だ。「人のために生きて人が喜んでいると嬉しい」という感性を小さい時から身につけさせることができれば、自分という存在の社会的意味を認識しやすくなる。そうすれば悪魔的な言辞に遭遇したとしても誤ることはない。

 さらに言えば、人生の意味はどのように人の役に立つかという社会的意味だけではない。人間としての尊厳性や自分に課せられた運命に対する姿勢等に関連した霊的な意味もとても大切だ。「人生に意味があるか」というテーマから「人生にどんな意味があるか」というテーマに関心を移し深めるためにも、たとえば「私の考える『サムシンググレート』」というようなテーマのワークショップなどを行って、人々の霊的価値観に触れるという試みなどが有益ではなかろうか。

 人生の価値が強度で決まるような世界は、一元的な評価基準が支配するさつばつとした世界だろう。人生の社会的・霊的な意味が顧みられてこそ、お互いに喜びながら高め合うことができる豊かな世界となるのではなかろうか

2008/05/15

 家庭でも学校での教室でも職場でも、どのようにコミュニケ―ションをとったら良いか分からない人が増えているのではなかろうか。社会と壁を作り家の中に引きこもり、家族とも壁を作って部屋の中に閉じこもり、教室や職場でも話せる相手がいないというのはとても辛いことだ。

              自  分
           知っている    知らない

他 知っている  開かれた窓   気づかない窓   

者 知らない   隠された窓    未知の窓

 人間は、コミュニケーションを通して相手をより深く知ろうとする。上に示す「ジョハリの窓」と呼ばれるモデル(ジョセフ・ラフトとハリー・インガムという二人の心理学者が考案した)が、その方策を考えるうえで参考になりそうだ。

 自分のことについて、自分が知っていることと自分でも知らないことがある。また、自分のことについて、他者が知っていることと知らないことがある。すると、自分のことについて自分も他者も知っている「開かれた窓」、自分は知っているが他者は知らない「隠された窓」、自分は知らないが他者は知っている「気づかない窓」、自分も他者も知らない「未知の窓」の四種類の窓が、自分のことについてあることになる。

 コミュニケーションをとるというのは、このうち「開かれた窓」を大きくすることを意味する。身近なところでできそうな仕掛けを紹介しよう。

 「隠された窓」を小さくし「開かれた窓」を大きくするのは自己開示である。その典型例は自己紹介だが、人は場や状況を見て自分のことを話すので、率直に言える場作りが必要だ。

 たとえば、全体の前で各自が自分のことを五項目紹介するとして、そのうちの一項目に嘘を紛れ込ませておく。一通り自己紹介が終わった後で、その嘘を言い当てるというゲームがある。嘘を見破られまいとしてこれまで言い出す機会のなかったことを紹介しやすくなり、自己開示の効果は抜群だ。

 もう一つは、「気づかない窓を」小さくして「開かれた窓」を大きくするフィードバックだ。自分も知らない自分のことを他人から指摘されるのだから、うまくやらないと感情的対立を招きかねない。ファシリテーションを学ぶ定例会では、これを合意の上、意図的に行う。あるテーマについて進行役のファシリテーターを中心に話し合いをした後のフィードバックのセッションで、ファシリテーターの進め方の中で、良かった点、問題点、改善点を率直に指摘し合うことにより、気づきを得ることができる。

 自己開示とフィードバックによって驚きとショックがもたらされる過程で、相互理解も深まっていく。
人は人によって成長する。コミュニケーションの仕掛けを開発し習熟すれば、喜びと感動に出会うことができる。

2008/04/15

 ひともうけしようとする起業家のリスク(危険)は一般的に大きい。それでもあえてリスクを引き受けようとするのは、大きなリターン(報酬)を期待するからだ。

 しかし、世の中にはリターンを期待してリスクを引き受けようとするのではなく、良心の発露としてあえてリスクを引き受けようとする人もいる。

 昭和22年に東京地裁の山口良忠判事が餓死した。戦後の食糧の闇取引で多くの人が逮捕される中で、戦争で息子夫妻を失い孫たちに食べさせるために闇米を買って逮捕された72歳の女性に対し、山口判事は刑務所行きの判決を下した。その夜から山口判事は配給物資以外は口にしないことにし、塩水しか摂取できずに餓死したという。

 山口判事は、判決を出す時にすでに、自分の死を覚悟していたのかもしれない。「法律は人間のためにあるのだから、守ると死ぬことになる法律に忠実である必要などないではないか」と言ってしまうのは簡単だが、人間として自分の良心に恥じない行動を貫き通した精神の気高さの前に頭が下がる思いがする。

 脳外科の上山博康医師のもとには、脳動脈瘤の手術を求める患者が全国からやってくる。不安を抱えた患者に対し、上山医師は「大丈夫だ」と言い切るという。手術のリスクを説明したうえで、後遺症なく治すことを約束する。万が一手術が失敗に終わると、医療ミスだとして患者側から訴えられることにもなりかねない。しかし、「患者は人生をかけて医師を信頼する。その信頼に対して自らもリスクを取って五分五分の関係を築くことが礼儀だと思う。」と言う。

 人の生命、健康、財産、権利等の重要なものを扱う医師や弁護士等の専門家は、最悪の場合に備えて、実際以上にこれらのものを守ることが困難であると依頼人に説明することが多いと聞くが、上山医師はその逆だ。自分を追い込んで患者の利益を図ろうとする良心は心を打つ。

 「良心」とは不思議な存在だ。日本で罪を犯して外国に行ったからといって心は安らかにならない。10年、20年前の些細なことでも、人の心を傷つけて謝る機会を失ったことは、何かにつけて思い出され心を苦しめる。良心は時間と空間を超越して、直接に人の心に強力に働きかけてくる。

 土地と財物と子女を奪い合ってきた人類の歴史は悲惨の一語に尽きる。それでも人類は弱小民族や奴隷などの弱者を解放してきた。これも良心の働きだろう。人間の心の中に良心を埋め込んだのは、人類の歴史を経綸する善の本体である神様の最大にして最強の戦略かもしれない。

 犯罪の低年齢化や凶悪化など閉塞感漂う日本社会だが、一人ひとりの市民が、古今東西の偉人の活動に学び、自分自身の心の中の良心を強化することが求められる。良心は人間の尊厳性を守り、個人と社会と世界を幸福に導く中核的存在だと思う。

2008/03/15

 モチベーション理論の一つに、ハーズバーグの動機付け要因・衛生要因論というのがある。
「仕事の達成感、責任範囲の拡大、能力向上や自己成長等(動機付け要因)が仕事への満族の度合いを決め、労働環境、作業条件、給料等(衛生要因)が仕事への不満足の度合いを決める。そして、衛生要因を改善して不満足の度合いを少なくしたからといって、仕事への動機づけが高められ満足の度合いが高まるわけではない」という理論である。経営者は単に待遇改善だけで従業員をつなぎとめておくことはできないという、とても大切な示唆を与えてくれる。

 確かに、経営基盤が貧弱な零細企業の社長がわずかな会社の利益を減らしてまで従業員の賞与を捻出すれば、事情を知っている従業員は社長の心配りに感激し、それがやる気につながることはあると思う。しかし、それが長続きするとは限らない。従業員が、自分の将来設計における今の仕事の位置づけを考えたときに、必ずしも今の会社に居続けることが得策ではないと思えば、社長に感謝しつつも職場を去っていくことは十分ありうることだ。

 同じことが家庭における子育てについても言えるような気がする。親が子どものために快適な勉強部屋や栄養バランスのとれた食事を準備してあげたからといって、それだけで子どもが意欲を持って勉学や仕事に励み、自分の毎日の生活に満足感を持つことにはつながらない。勉学や仕事による達成感や成長を実感しているかどうかが重要である。

 不満足感の増減と満足感の増減とは一直線上にあるものではない。両者のうち満足感の増減の方がより重要だ。満足感が増加すれば不満足感があってもあまり気にならないが、満足感が低下しているとどれだけ不満足感の減少のために配慮をしてあげても、子どもはやる気を持ちにくい。
そもそも子どもがこの世に生まれたのは自分の意思によるのではない。親など他の存在の意思によってこの世に存在するようになったのである。しかも、安全や生理的な欲求だけではなく、愛情、尊敬、自己実現という欲望までも生まれながらに持たされている厄介な存在だ。そうであれば、子の存在の原因である親がそのことに一定の関心と責任を持つことは必要であろう。

 戦後の日本は貧しかったので安全と生理的な欲求を満たしてあげることだけでもたいへんだった。子どもはそのような親の事情を知っていたので懸命に生きる親の姿を通して、愛を感じ尊敬することができた。その中で自分も愛し尊敬され自己実現を図っていく道筋を自ら見出すことができた。

 しかし、日本は豊かになった。親は以前ほどの努力なくして安全と生理的な欲求を満たしてあげることができるようになった。そういう状況では、愛情、尊敬、自己実現に対する子どもの欲望はひとりでに満たされるものではなく、必要であれば何らかの対策を講じることが必要であることを、親自身が明確に認識する必要があるのではなかろうか。

2008/02/15

 子どもが小さいときは、親が子どもと共に過ごすことが何よりも大切だ。共に過ごせば守ってあげ、安心させてあげることができる。日常生活を子どもと共にすれば親の言動が陰に陽に子どもに影響を与え、人格と魂を形成する。

 自分は人格ができていないからと引け目を感じることはない。子育てに積極的に関わる父親によって育てられた子どもの方が、父親が不在だった子どもに比べて三〇年後、より共感する能力が高く、しかもそれは父親の共感のレベルには左右されないという(『道徳の練習帳』原書房)。

 アメリカのベストセラー作家であり海洋生物学者でもあったレイチェル・カーソンは、著書『センス・オブ・ワンダー』の中で、「生まれつきそなわっている子どもの〈センス・オブ・ワンダー〉(美しいもの、未知なもの、神秘的なものに目を見はる感性)をいつも新鮮に保ち続けるためには、私たちが住んでいる世界の喜び、感激、神秘などを、子どもと一緒に再発見し感動を分かち合ってくれる大人が、少なくともひとり、そばにいる必要があります」と書いている。

 同女史は実際に、まだ赤ちゃんの甥のロジャーと共に、嵐の日も穏やかな日も、昼も夜も、森や海岸へ探検に出かけ、小さな生き物の動き、波のくずれる音、月光が海面に映る神秘的な
たたずまいなどに触れるという充実した時間を過ごしたという。

 子どもが成長して思春期を終えるころから自立が願われる。愛を受ける立場から愛を与える立場へと移るのだ。その時期に親は子供と共にいるだけではなく、自分がこれまでの人生で体験した様々なつらさ、楽しさ、豊かさを語ってあげてこそ、子どもは社会で出くわす試練を賢明に乗り切り、豊かな人間関係を作っていくことができるのではなかろうか。

 知り合いのO君は、子どもが「認知症の人は生きていてどんな意義や価値があるの」というような難しい質問をするようになったときに、一定の時間をとって体系的に説明をしてあげるようにしたという。「説明が当を得たものかどうか分からないが、自分の人生体験の中から自分はこう思う」という立場で話してきたという。

 私は、「お金も時間もあり余っているが何をしたらいいか分からない」とか「大学に合格したけれどやりたいことが分からない」というような状態よりも、「公益を実現するためにやりたいことはたくさんあるのに、時間もお金も足りない」とか「進路は明確なのに受験で失敗したので合格を目指してて努力する」という状態の方が充実していると思う。

 子どもが自分の進路を意欲を持ってはっきり決めることができるようになるには、子どもが小さい時は共にいて多くの感動を共有し感性を育んであげ、長じては自分の人生体験から感じたことを情感豊かに話してあげることが大切なのではなかろうか。それは、親が子どもに与えることができる最大の贈り物だと思う。

2008/01/15

 人と人の話し合いにより新しいアイデアを生み出すためには、同じ方向を向いていない方が良い。

 パネルディスカッションでのパネラーが座る椅子も、小中学校の教室で生徒が座る椅子も、同じ方向に配置せず、少しでも角度がついていた方が、アイコンタクトが取れて楽しい。

 先生の話を聞いていたA君が、同じ話を聞いているB君が涙ぐんでいるのを見た時に、B君の事情を知っているA君が、B君の心の琴線に触れたのは先生の話のどの部分であるかを推測する中で新しい発見をして、そのことが自分の言動を見直すきっかけになるというような多面的な相互作用や、これに類似した予期せぬ相互作用によって何かしらの力が生まれることは、複雑な思考回路を持つ人間にとっては起こりうるというよりも、むしろ不断に起こっていることなのではないかと思う。相互に影響を与えあうような態勢であってこそ、それが可能となる。そのためには輪になって座ることが最良の方法だと思う。

 以前参加したある研修の合い間に、メンバーが輪になり一人だけ中心にいて、中心とメンバーとの間でバレーボールのトスを続けて、落とさずに何回できるかを競ったことがある。心が一つになった一体感や高揚感は忘れられない思い出だ。

 喫茶店でも、十席前後の座席が円形や半円形の大きなテーブルの周りに配置されている方が、そうでない店よりも何か温かい雰囲気がして、そちらの方を選びがちだ。

 相互の国の利害がからみ、とても友好的な雰囲気ではないような二国間の首脳の会談でも、部分的にでも輪になって座って話し合うようにすれば、心が開かれて事態を打開できるかもしれない。

 自然界でも、液体には表面張力が働いて丸くなろうとするし、円や球はとがっているところのない完全な図形だ。

 立場や肩書にとらわれることなく、一人ひとりの意見に素直に耳を傾けようという人たちが集まる会合では、ひとりでに輪になって座る。人数が多すぎて輪になると部屋に全員が入りきらないときはどうしたらよいか。小さな輪と大きな輪を同心円状に作ってもよいし、いくつかの輪(人からなる島)をつくっても良い。

 いくつかの島をつくると、全体として輪にならないのではと心配される方がおられるかもしれないが、大丈夫だ。一連のセッションでは、まず全体会議があって、島になって議論して、また全体会議があるというやり方がとられることが多い。一つのものが複数になってまたもとの一つのものになるという一連の過程は、宇宙の根源者に内包する陽陰の二性が分かれて男性と女性となり、今一度両者が一つとなって宇宙の根源者の似姿を現わすという、完成に至る過程を暗示している。時間的に輪になっているとも言える。

 丸い心を持って輪になって座ることが、完全と完成へ至る王道ではなかろうか。