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2003/12/15

 もう20年近く前のことになるが、東京で企画や事務の仕事をしていた頃、同じ職場のN先輩が次のように言うのを聞いて驚いた。

 「私はどんな社会現象でも、それが起きた背景要因や発生理由を問われれば、即座に答えることができる」
よほど勉強していないと、そんなことはできないのではと思っていると、

「どんな質問でも『その理由は二つある』とまず言えばよい」という。その「二つ」が何であるかは、その後(といってもきわめて短時間で)考えればよいのだという。

 確かにNさんはいつも的確な答を即座に返しておられ、敬服したものだ。例えば、「経済が発展した理由は何か」「ロケットが月に行った理由は何か」と問われれば、理由の一つは、経済的に豊かになりたいとか、宇宙に行ってみたいという人々の思いであり、もう一つの理由は、経済や外交上の戦略や政策とか科学技術の進展度合いに関したことだった。あるいは、「政治家や官僚の汚職がいつになってもやまない理由は何か」と問われれば、一つは、汚職する人の自己中心的な思いであり、もう一つは、職責遂行上の制度上の問題だという。

 つまり、理由の第一は、目に見えないもの、つまり人間でいえば心にあたる事柄であり、理由の第二は、目に見えるもの、例えば数字等で表されるものであるというわけだ。

 私は、Nさんからこの話を聞いてから、その視点で物事を見るようになったが、良く整理できることに自分でも驚いている。私は「二数信者」になったのだ。

 ある時Nさんに、どうして目に見えないもの、目に見えるもの、という分け方で物事を見るのですかと聞いてみた。Nさん曰く「世の中の全てのものがそうなっているからだよ、太田君」「人間であれば目に見えない心と目に見える体、物体も目に見える構成要素(分子、原子、素粒子等)だけから成り立っているわけではなく、それとともに、その構成要素を配列し、秩序あるものとする法則性という目に見えないものがあってこそ、存在しえる。『自由』という概念ですら、『自由意思』という目に見えないものと、『自由行動』という目に見えるものがあるではないか」という。

 反面、N先輩は「何でもかんでも二つあって当たり前というわけではないんだよ」と釘をさすことも忘れない。
「善と悪がそうだ。善があるから悪があり、悪があるから善があるとして、悪にも存在意義があるように言う人がいるが、それは間違いだ。善は本来的なものだが、悪は本来的なものではない。もしも悪が本来的なものなら、悪を犯して後悔する人間の良心が、時間と空間を超越して普遍的に存在する理由が説明できないからだ」

 私は条件付きの二数信者になった。N先輩が懐かしい。

2003/11/15

 小泉首相が、衆議院比例代表候補に、73歳定年制を例外なく適用するために、中曽根・宮沢両元首相に不出馬を勧告しに出向いたところ、宮沢元首相はあっさり了解したのに対し、中曽根元首相は「政治的テロだ」「非礼だ」として、激しく反発した。

 中曽根元首相は後日、「(首相のやり方に)情は感じなかった。首相から『こういう党にし、こういう政策にするから、ついては(引退を)』という話が来れば、こっちも人間だから情には感じる」と話した。小泉首相の出方次第では円満に引退した可能性があったということだ。

 私はこの話を聞いたときに、営業活動の重要なノウハウの一つである「SPIN法」を思い出した。例えば、コピーマシーンの営業マンが飛び込みで、ある事務所を訪問し、最初から「わが社のコピーマシーンの性能はこのように優れています」と説明し始めると、担当者から「売り込みに来たな」と警戒されてしまう。

 それに対して、「御社では○○メーカーのマシーンをお使いなんですね」(Situation:状況把握)、「何か問題はございませんか」(Problem:問題発見)、「○○ができれば仕事の効率が上がるんですね」(Implication:示唆)と話を進めていき、最後に「それでしたら、わが社のマシーンが御社の課題解決に的確にお答えできます」(Need-pay off:提案)と、S,P,I,Nの順に話をしていけば、成約率が向上し営業成績が上がるというのだ。
たとえ相手の提案を受け入れるつもりがあったとしても、自分の立場や思いを無視していきなり結果や要求だけを言われたのでは、素直に受け入れられず、まとまる話もまとまらなくなるのである。

 確かに結果だけを言えば時間も短くてすむし、一見効率的に見える。しかし、人間は情というものを持つ生き物であり、知情意の中でも情を中心として意思決定をすることが多い。であれば、相手の立場や情を尊重し、共感した基台の上で話を進めていく方が得策であり、結果的には近道でもある。

 そのためには、当事者を取り巻く状況を適切に説明する能力、対人感受性、共感する能力、相手を一人の人間として関心を持ち慈愛の心で接する能力、情の共有に至るまで提案を控える忍耐力などが必要だと思う。これは、コミュニケーションで必要な「人格的能力」の主要な部分ではなかろうか。

 「営業を長年すると人格が磨かれる」と言われるゆえんである。また、小泉首相にこの認識があれば、現首相が突然やってきて辞めろと言って元首相を怒らせるという、殺伐とした世相を象徴するような光景を見ることはなかったのではないかと思う。

 (同じ目的・事情・価値観を持つ人々が、報告したり意見を闘わしたりする時に、まず結論から述べることを否定するわけではありません。)

2003/10/15

 23年前に長野県で起きた殺人事件の被害者の母(小山はつ恵さん)が、時効になった犯人に面会し、深々と頭を下げて謝罪する犯人に対し、涙を流し「打ち明けてくれてありがとうございます。」と答え、「殺人者であっても、立ち直って欲しい」と話している、と言うことが、2003年10月10日、12日 読売新聞に出ていた。

 ここ数年、殺人事件で、愛する我が子を奪われた親が「早く犯人を死刑にして欲しい」と述べたりするのを、マスメディアを通じて何回か見聞きした。自分も子を持つ親なので、その気持ちが分からないわけではない。また、犯人を憎悪する気持ちを表現した方が、犯罪の抑止になる、という意見も分かる。また、被害者が小声で言ったことを、メディアが扇情的に書いたのかもしれない。それでも、「犯人を死刑にして」とは、「人を殺して欲しい」ということに他ならず、憎しみを社会に広めているようで、釈然としないものを感じていた。事件直後と二十三年も昔のこととでは、感じ方の違いがあるのは当然とはいえ、息子を殺された母が、犯人を励ました今回のこの報道に接し、感銘を受けた。

 はつ恵さんは、どうして息子を奪った犯人を許し、励ますことができたのだろうか。それが分かれば、人が一生の間経験する人間関係を豊かなものにする秘訣を手に入れることになるような気がする。

全くの推測だが、はつ恵さんの気持ちを考えてみた。

①犯人にも親がいる(いた)。犯人である息子を思う親の気持ちを考えてみた。

②人間を超えた人格的な存在(神仏など)の前では、同じ立場だと思った。

③自分も育つ環境によっては、殺人を犯す人生を送ったかもしれない。また、犯人も他の人生の局面では、善行をしたかもしれない。罪は、確かに憎いが、人や人生は定まらないもの。自分に人を裁く権限があるか、分からない。

④憎しみではなく、愛や許しを口にして、生きていきたい。その方が、自分も周囲も心豊かで、幸福になれる。

 日本では、主人の仇を打つドラマ(忠臣蔵等)が、毎年放映される。法律では、報復は許されないが、日本人の心情としては、仇討ちはいまだに美徳になっているようだ。戦争等で、家族離散の憂き目に遭い、運命と甘受しつつも、悔しさを芸術表現として昇化させ、恨の文化を作ってきた隣国、韓国などと好対照だ。

 私は、日本文化が好きだ。「わび・さび」の趣や美学、また、和を尊ぶ精神は、日本の誇りであり、世界に向けて発信していきたい。その上に、小山はつ恵さんのように、恩讐をも許し、愛する人が増えていけば、さらに、外国に誇れる文化が築かれるのではないかと思う。

2003/08/15

 最近、「自己決定権」ということばをしばしば耳にする。個人の人権や尊厳を守るために、他者から判断を押しつけられることなく、自分で判断して決定するという積極的な意味を持つ反面、それが主張される文脈や場面設定がふさわしくないと、個人の利己主義が無制限に認められてしまうような怖さも併せ持っている。いわば両刃の剣のようなことばだ。

 福祉の分野における自己決定権の尊重は、人類愛の発露としてその人の尊厳を最大限に尊重しようという場合が多いように思う。

 例えば、痴呆の進んだ人であっても人格はあるので、少しでも能力がある限り、その人格の発する自己決定を可能な限り尊重していこうとする。

 ところが、「情報を自由に得られるようにして、どのように行動するかは子どもの自己決定に任せよ」という主張が、教育現場で言われ始めている。なかには、13~14歳にもなれば判断力はつくのだから、いつどこで誰と性交渉を持つかは大人はとやかく言わない方がいいとする「性的自己決定権」まで認めよと主張する学者もいる。

 米国では60年代から70年代にかけて、何が正しく何が間違っているかは各自が決めることだとする「自己決定権の尊重」や「価値相対主義」が蔓延し、子どもたちのモラルが崩壊し、少年非行が増加した。子どもたちは判断をゆだねられれば正しい選択をしてくれるだろうと教師たちは思ったのだが、実際はそうではなかったのだ。米国ではその反省に立ち、今日では正しいこと、善であることを皆が共通に分かち合い「価値の再構築」を行っていこうという流れに変わってきた。しかも、学校だけでなく家庭、企業、地域などのコミュニティ全体で「人格教育」に取り組み成果を上げているという。

 例えば米国のある市では、市議会がコミュニティ全体で人格教育を推進することを決定し、市長をはじめ、経済界、スポーツ界、教師、保護者の代表を委員とする人格教育審議会を設けたという。学校では月ごとにそれぞれの徳(9月「責任」、10月「尊重」11月・12月「思いやり・同情」1月「粘り強さと努力」2月「信頼」3月「公正と寛容」4月「勇気」5月「市民の義務」)に合わせた教育を行い、市長はマスコミのインタビューで人格教育の重要性を強調し、商店や企業も毎月の標語を掲げ、地元テレビ局も人格に関する番組を放映したという。(雑誌「圓一」NO160、NCU―NEWS発行)

 私は、子どもの「自己決定権」を無制限に尊重することは、多くの場合子どもを尊重することにはならないと思う。体験から学ぶことの大切さは分かるが、人生の致命的な失敗に至らないように、また充実した人生を送れるようにアドバイスすることは大人の責任でもある。
「自己決定権」ということばを使うときは、どういう文脈で使われているかを良く検討することが大切だと思う。

2003/06/15

 米国の諺に「Comparison makes for unhappiness」(比較すると不幸になる)というのがある。

 消費者が商品を購入したり、企業が購買活動をするとき、いくつかの候補商品を比較して、廉価でより多くの満足を与えてくれるものを選ぶことは賢明な行動であり、先述の諺には当てはまらない。

 この諺が当てはまる身近な例は、教育だろう。わが子が学校から50点の試験の答案を持ち帰ったとき、「平均点は何点だった?○○君は何点だった?」と言っていないか(自戒を込めて)。たとえ50点であっても、いや10点であっても、全く勉強しなかったら零点だったのだから、勉強したことは事実なのだ。それなら、まずそのことに対して、「ご苦労さん。お疲れさん」と一言あってもおかしくはない。

 極端な話、「おお10点か、よく頑張ったな」と言ってやれば、子どもは恐縮して「よし、今度はもっと頑張ろう」と思わないだろうか。他者と比較すると、「僕は○○君ではない。同じ点数を望むなら、○○君の家のように、自分だけの勉強部屋を作ってくれ」と反撃されるかもしれない。

 私は、比べること自体が悪いとは思わない。一年前と現在、三年前と現在、生まれたときと現在を比べてみると、子どもは確実に成長していることが分かる。また、そのように育てた自分もたいしたものだと自信がわいてくる。子どもがこれまでと同じ調子で成長していけば、将来はもっと立派になるだろうと予測でき、期待がもてる。他者と比べると良い効果はもたらさなくとも、時間的先後関係で比べると、自分も周囲の人も幸福になりやすい。

 最近よく「ナンバーワンよりオンリーワン」と言われるのは、こういうことも含まれるのではないかと思っている。

 前言を覆すようだが、私は実は、「オンリーワンだけでも良くない」と思っている。

 昔、ケネディ元米国大統領が言った「国に何をしてもらえるかではなく、国に何をしてあげられるかを問いなさい」という趣旨のことばがある。私はこの意見に賛成だ。国に何か貢献しようとすれば、リーダーになれるほど優秀であった方がよい。結果的に他者より秀でていないとリーダーにはなれない。

 オンリーワンの観点で自分がどの分野で天稟や才能があるかについて納得できたら、今度はその分野でナンバーワンを目指すことが大切だと思う。「ナンバーワンよりオンリーワン」ではなく、「オンリーワンの次はナンバーワン」が良いと思う。

 ではどの時点でナンバーワンを目指すのかとか、特定のスポーツや芸術の分野では早いうちから訓練が必要なのではないかという疑問も出てくるだろう。日頃一緒に生活する親であれば、判断や子どもへの助言がしやすい。親として子どもを育てる醍醐味はここにあると思う。