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私は、東京で研究プロジェクトの企画と事務の仕事に携わっていたとき、ある失敗をした。タイプライターを台に乗せて運搬中、急ぐあまり速度を出しすぎて、タイプライターを台ごとひっくり返してしまい、使えなくなってしまった。それを愛用していた人の顔は、当分の間見ることができなかった。それ以来、ものの運搬は慎重にするようになった。
また、専門家の意見を電話でヒアリングしたとき、コミュニケーションが未熟だったので、相手を怒らせてしまった。プロジェクトに責任を持つ上司は、穴のあいた分野の意見をどうやって導いてくるのかと、厳しく追及してくる。代わりに意見を述べてくださる人のあてもなく、泣きたい心境になった。このことがあってからは、相手の気持ちを推し量りながらのコミュニケーションを心がけるようになった。
仕事は勉強と違って、やり直しがきかないことが多い上に、現実の影響を伴うので、うまくいかないと責任問題が発生する。それだけに緊張を伴い、その分真剣に取り組めば人間的成長も早い。
また、成功や失敗の忘れ得ぬ思い出を作ると共に、若手を指導する見識も身につけて、人生の充実を感じることができる。人の一生の中で仕事が占める部分は大きい。
人生の中で家庭も大切だ。家庭の中核は夫婦関係と親子関係だ。配偶者は身も心も一つとなる特別な存在だ。夫(妻)であっても、あるときは父(母)のように、またあるときは息子(娘)のように、ダイナミックで立体的な情を感じられれば、倦怠期を迎えなくてもすむかもしれない。
友人のO君夫妻は子どもが8歳と2歳の時に大きな決断をした。妻が海外ボランティアのために3年間南米のある国へ行きたいと言った。O君は数日間悩んだ末に、許したという。社会貢献する姿勢を子どもに示すことが子どもを育てる上で大切であると主張してきた手前、行くなと言えなかったというのだ。
その結果、会社を辞めて家事と育児が中心の生活が始まった。生活費は、あいた時間に配達業務と訪問販売で稼いだ。持病の腰痛がひどくなればすべてが止まってしまうので、最初の一年間は一日も休むことなく朝のラジオ体操を真剣にしたという。そこが生命線だったからだ。子どもたちは、離れても心がつながっている両親の姿を見て、家庭と社会奉仕の大切さを理解したという。今、O君は、資格を取って新しい職場で活躍している。
大臣も経験した国会議員の野田聖子氏(44歳)は、子どもを授かるべく奮闘中だ。「議員だから子どもをあきらめろ」と言われても、「人生は二者択一ではない」と負けない。
「二兎を追う者は一兎も得ず」とは、同時刻にしようとする場合のことだと思う。細部まで描く想像力と、迅速で的確な段取り力があれば、仕事も家庭も両立できるのではなかろうか。
Posted by oota at 05:55 PM. Filed under: 随想・評論(平成16年)
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人間と自然はよく似ている。人体は、水と土と空気という自然の要素からできている。植物とも構造が似ている。炭酸ガスを吸収する植物の葉は、酸素を吸収する人間の肺に、養分を吸収する根は、人間の胃腸に、栄養素を全体に供給する幹と枝は、人間の心臓にあたる。人体は地球とも似ている。植物で覆われた地殻は、毛で覆われた皮膚に、地層の中の地下水は、筋肉の中の血管に、岩層に覆われた溶岩層は、骨格に覆われた骨髄にあたる。
寄せては返す海の波は1分間におよそ18回、人間の呼吸も驚くことに、やはり1分間に18回、人間の体温は18の2倍の摂氏36度、脈拍はさらにその倍の1分間に72拍である。また、人間が生まれるのは満ち潮の時で、死ぬのは引き潮の時だという。まるで自然と人間が歩調を合わせているみたいだ。
人間と自然がこれほど共通点があるのは、人智を超えた存在が、人間と自然の両方を設計して創造したからかもしれない。そうであれば、人間は自然から多くのことを学ぶことができるはずだ。
最近、水に向かって言葉を発したり、紙に書いた言葉を水に見せると、それに反応して水が様々な結晶を示すことが分かってきたという。「愛」とか「感謝」という言葉を水に示すと、とても美しい水の結晶を見ることができるが、「殺す」とか「バカヤロー」と呼びかけると、不揃いで醜い水の結晶を見ることになるという。このことだけでも驚きだが、「絶望」という言葉に対しては、「どんな絶望の中にも希望はある」ことを暗示するためか、それほどいびつな結晶にはならず、「家族の愛」という言葉に対しては「祖父母、父母、子どもという三段階が家族の中核である」ことを暗示するためか、三層になった水の結晶を見ることができるという。成熟した大人の説話のようだ。
人は宇宙からも学ぶことができる。家庭の秩序は、太陽系の秩序を真似ればいいという。太陽系は太陽を中心に、その周囲を地球が回り、その地球の周囲を月が回るという縦の秩序と、水星、金星、地球など九つの惑星が太陽という同じ中心の周囲を回るという横の秩序によって維持されている。われわれはそれを見て、家庭は、祖父母のために父母が生き、父母のために子女が生きるという縦の秩序と、兄弟相仲良くという横の秩序によって家庭が維持されることを学ぶことができる。
人は動物からも学ぶことができる。カエルからは平泳ぎを学んだ。カマはカマキリのカマを見て作り、罠はクモや食虫植物の捕食方法から発明したのかもしれない。生まれ故郷に戻る長旅を終えて、最後の力を振り絞って、子孫を作って死んでいく鮭の姿は感動的で、親としての責任を自覚させてくれる。
自然は神秘的で美しい。人間は自然に生かされているだけでなく、生き方を学ぶこともできる。多くの教訓を得て美しい人生を送りたいと思う。
Posted by oota at 05:50 PM. Filed under: 随想・評論(平成16年)
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スイス出身の女医、エリザベス・キューブラロスがこの夏亡くなった。アメリカで、患者の末期医療の概念に大きな変革をもたらした。『死ぬ瞬間』等の著書がある。彼女は、12年前から死ぬと予言していた時期とほぼ同じ頃に亡くなった。臨死体験等の研究を通して、天命を察知していたのかもしれない。
自分が死ぬ日をキューブラロス以上に正確に、一日も間違えることなく予言した人がいる。ストックホルムで生まれ、1772年に亡くなったスウェーデンボルグだ。死ぬ一年も前から自分がいつ死ぬかを知ることができ、友人にもそれを知らせ、その日に死んだ。彼は一流の科学者である一方で、死後の世界(霊界)を探訪する術を身につけ、様々の霊と会って対話をし、それを記述した。その原著は大英博物館に保存されているという。
スウェーデンボルグなど霊界に通じている人によると、生前の世界(地上界)と霊界は密接な関係があるという。人は死ぬと霊界へ行き、すでに霊界にいる大勢の霊人の前で、生前の自分の行為の中で、最も恥ずかしく思っている行いが天空にパノラマのように大写しになって、そのあまりの恥ずかしさに顔を覆うという。次の瞬間それがサーと消えて、生前の自分の行為の中で、最も誇りに思っている行為が、やはり天空に大写しにされ、ほっとする。その次には二番目、三番目の両方の行為が順々に映し出され、その人が生前どのような地位や立場にあったかと関係なく、その人の真の姿が公衆に露わになるのだという。
科学的思考に慣れている現代人の多くは、霊界の存在を否定したり、否定しないまでも重要な問題ではないと考えているのではなかろうか。しかし、霊界が存在し、そこでの過ごし方が、地上界でどう行動したかに大きく依存するのであれば、真剣に考えざるを得ない。
会社経営等のリスクマネジメントの理論の一つに、「最大(MAX)の損害を最小(MINI)にする」(ミニマックス戦略)という考え方が、将来に向けてリスクを回避する戦略として重視されている。
人生においても同じではなかろうか。霊界など存在しないとして、好き勝手に生きていると、もし霊界が存在した場合、「つらく恥ずかしい思いを持って永遠に生きる」という最大損害を余儀なくされることにならないとも限らない。
反対に、霊界が存在するとの前提で人のために生きていると、霊界があれば予定通り楽しく暮らせ、仮に霊界がなくても意識がないのだから損害は発生しない。
ミニマックス戦略で人生をマネジメントしようとすれば、霊界を認めて生活した方が賢明な生き方ということになる。
最近は、医学界や心理学界で、霊界について学問的に研究され始めているようだ。その成果が整理され、生涯教育や学校教育の場でも使われれば、大人や青少年の健全育成に役立つのではなかろうか。
Posted by oota at 05:47 PM. Filed under: 随想・評論(平成16年)
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NHK教育テレビで、朝8時から「にほんごであそぼ」という番組がある。子どもたちが好きでよく見ているので、おのずと見ることがある。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩を、全国各地の一般の人がその地方の方言で唱えたり、就学前と思われる子どもが「為せば成る為さねば成らね何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」という大人でも言うのが難しいことわざを、上手に暗唱したりしている。
幼児の時に、訳の分からない言葉を覚えさせて何の意味があるか、という反論があるようだが、重要な意味がある。世界的な古典を記憶力の旺盛な時に丸暗記したり、漢文の素読をして育った子どもは、自分の内に大きな財産を持って生きていくことになる。言葉の意味が分かる年代になって、真理の言葉や含蓄のある言葉がおのずと自分の内から出てくれば、真理が血肉となっているようで、それは必ず生きる指針となると思う。
音楽、絵画、芸能、書道など様々な伝統文化のなかで、子どもに対する教育的効果の大きいものとして、私は音楽、とりわけ歌に注目している。言うまでもなく歌は曲を伴った詩であり、表現される情感が自分が過去味わった思いと類似していると、感慨に浸ることができて心が癒される。とともに、勇気、正直、勤勉、忍耐、真理を喜ぶというような徳目が肯定的に表現されている歌が情感豊かに歌われるのを、小さいときから繰り返し聞いていれば、それだけでその子どもの精神は立派になっていくことが多いのではなかろうか。
そう思って私は、子どもが小さいときには家の中でも車の中でも、子どものそばで歌ってきた。歌を歌うという行為において一番重要な事は、選曲、つまりどういう歌を歌うかということだと思う。子どもには、自分自身が感銘を受けたいくつかのゴスペルフォークや、りりしさが感じられる「富山県民の歌」のような歌を、繰り返し情感を込めて正確に歌うよう努めてきた。親として子どもを育てる義務の8割は、この瞬間心を込めて歌うことだという思いで歌った。
文化は、日常生活を豊かにしてくれるとともに生きる力を与えてくれる。いわば、人生の応援歌のようなものだ。新しい歌謡曲等の中にも心に響く良い歌はあるし、他の文化の分野でも新しい試みがなされ、内容を豊かにしている。とともに、長年愛されてきた伝統文化は人類の遺産であり、一つ一つの作品を想像力をめぐらして味わっていきたいと思う。
人の心を動かすには三つの方法があるという。一つは、利益で誘導する方法、二つ目は恐怖を与えて思い通りにさせようとする方法。三つ目は人生に対する心構えを整えさせることを基本とする方法だ。このうち、人生の豊かさを体験するのに最適なのは、三番目の方法だと思う。音楽や小説、映画等の文化の中から、人生に対する心構えを整えさせてくれるものを選んで、家族や友人を始め多くの人と共有していきたい。
Posted by oota at 05:44 PM. Filed under: 随想・評論(平成16年)
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50年近く生きていると、いろいろなタイプの人に出会う。現世的な名誉や地位に関心のある人もいれば、自分の趣味を中心に生活設計を立てている人もいる。その中で一番気にかかるのが、自分が生きている意味が分からないがゆえに心が安まらず、生きる力が半減してしまう、というタイプの人々だ。
1903年に「万有の真相は唯一言にしてつくす、曰く『不可解』我この恨を懐て煩悶終に死を決す」の遺書を残して、日光の華厳の滝にその身を投じた藤村操のような感性を持った人は、今日にも少なからずいると思う。
生きる意味や自分がよって来たところの論理的な説明はできずとも、生まれ育った家庭・社会・自然環境が情感豊かなものであれば、自然の中に美を、人の中に情を見つけて、それが生きる力になるだろう。
幸か不幸か、そのような環境に恵まれることなく育ったときは、前述のタイプの人々は生きる意味の論理的説明を得ることに必死になる。それは第三者には分かりにくくても、当人にとっては、納得した生き方を続けるためにどうしても必要なことなのである。
生きる意味を考えるとき、最も重要なテーマは、自分をこの世にあらしめたものは「創造」なのか「進化」なのか、というテーマではなかろうか。
もしも自分が神によって一定の目的のもとに作られた存在であれば、その目的を何よりも先に知らなければ正しい生き方はできない。人間は様々な道具を作って使っているが、作った目的に合致した使い方をしないと、その道具を作った目的(道具にすれば存在目的)は果たされないのと同じ事だ。
しかし、もし自分が進化の結果として存在しているとすれば、生きる意味はなかなか探し出せないような気がする。ダーウィンやド・フリースが説く自然選択説や突然変異説によって人間が万物の最高位に至ったのであるとすれば、人間は偶然の産物にすぎない。偶然の産物の存在意味や尊厳性は、なかなか見い出しにくい。
学内でいじめによる自殺などが起きたときに、校長先生が全校生徒の前で「生命は大切です」と話したというニュースを何度か見聞きした。そのこと自体はとても大切なことだとは思うが、「それではなぜ生命は大切なのですか」と生徒から問われたときに、創造論を教えず進化論を真理として教えている日本の学校で、子どもが納得する説明をしてやれるのだろうか。
昨今、欧米や韓国などの科学的分野の博士号を持つ人や、研究所の科学者たちの中で、これまで科学的に無理が多いと言われながら長く信じられてきた「進化論」よりも、世界と全ての生物は創造されて出現したと考える「創造論」を正しいとした方が、科学の発展によって明らかにされた様々の科学的事実をよく説明できると唱える人が増えてきているという。
そのような創造・進化論争が100年前に日本で起きていれば、藤村操は死を選ばなかったのではなかろうか?
Posted by oota at 05:40 PM. Filed under: 随想・評論(平成16年)
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「うそも方便」と言う。確かに相手に害や不利益を与えないのであれば、自分の事情や経緯をことさら詳細に述べるのは煩わしくて、分かりやすい別のことで説明してしまったりすることがある。このようなことは、厳密に言えば「うそ」になるが、あまり気にする必要はないのではなかろうか。後で、真実でないことが相手に分かっても、「あなたに余計なことで煩わせたくなかったから、そのように言ったのです」と説明すれば納得してもらえるだろう。日常生活の潤滑油としての「方便」である。
しかし、方便はいつも潤滑油として用いられている訳ではない。保身や権利主張のために論理のすり替えとして、堂々と用いられている「方便」もあるように思う。
一つは「見解の相違」という言葉だ。大企業が税務署から、脱税の指摘をされた時、「課税の方法がそのようであるとは認識していませんでした。このように考えて、あれだけの額を払ったのです。見解の相違です。そのようにお考えであれば、税務署の指導にはすぐに従います」と言って、難を逃れようとする。
「ゆとり教育」も疑問だ。子どもに心身のゆとりを持たせてあげようということ以上に、教師の労働条件の改善(週休2日制の実現)のために、「子どものため」という錦の御旗を振っている、と指摘する人が多い。最近、計算や漢字などの基礎学力は詰め込んででも勉強させた方が、子どもたちの心にゆとりができるという学者の研究発表が出始めた。
週5日制への移行が、本当に子供たちのゆとりのためになされたのであれば、このような研究発表を受けて「やっぱり元に戻そう」という動きが容易に取れるはずであろう。しかし、週5日制への移行の本音が、教える側の労働条件に関係したことであれば、得た権利を失うとして、容易に元に戻せなくなり、話が複雑になってしまう。
もう一つ気にかかるのが、「自分らしさ」という言葉である。たとえば、学校教育を受けた後の大人が、「自分らしさ」を発揮できる職業を選ぼうとするのは、よいことだと思う。
しかし、若者がただ楽に過ごしたいから、ということでだらしのない服装をしたり、目的意識や将来設計がないまま、フリーターとして長期間過ごすことが「自分らしい」と主張するのは、自分に対する批判をかわすための口実にすぎないこともあるのではなかろうか。結果として人格や能力を磨く機会を失うことにもなりかねない。
いわんや、小中高校では「自分らしさ」を強調すべきではないと思う。武道・茶道などでは、一定の型を守り、それをマスターしてから破り、既存の型から離れていく(守破離)という過程で上達していく。小中高校では、規律を守らせ、基礎知識を理解させるといういわば知情意のバランスの取れた人間の基本型を作ることが、将来、高次元の創造性豊かな「自分らしさ」が発揮できる素地を作るのではなかろうか。
「便利なことば」には注意が必要だ。
Posted by oota at 05:38 PM. Filed under: 随想・評論(平成16年)
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マスコミの情報で判断する限りでは、拉致被害者、地村保志さんの父、保さんは、行動力、謙虚さ、芯の強さを兼ね備えた素晴らしい人だ。儒教の教え「修身斉家治国平天下」を実践しておられるようにも見える。
保志さんが行方不明になったショックで寝たきりになった妻の介護をしながら、数十万名もの署名を集めた。北朝鮮に対して「人間の顔をしたケダモノ」と激しく批判する一方で、「北朝鮮を憎んではいない。拉致を指示した金正日体制は憎いが、息子たちを見知らぬ土地で24年間生かして支えてくれた北朝鮮の人たちには感謝しないといけない」と語っているという。孫たちの帰国が実現する前の今年一月には、「帰国前の交渉で五人をいったん北朝鮮に戻すと約束したのであれば、日本政府は向こうのメンツを立てて北朝鮮に謝るべきだ」と懐の深さを示す。
孫たちの帰国が実現するまで、25年間もの間、好きな酒を一切断っていたとも聞く。自分に厳しい精神の人だ。ある講演会の講師も、「地村の名前の地と村の間に「球」の字を入れれば全世界共生の理想を示す『地球村』になる」と笑わせながら賛美していた。
ところで、先月の日朝首脳会談が1時間半と短かったことに関連して、中曽根元首相は「安否不明の10人について『一人一人の名と事例をあげ、もっと粘り、相手を教育すべきだった』」と語ったという(読売新聞夕刊、5.26)。中曽根元首相は、6月5日になくなった元米国大統領との間の信頼関係の基盤の上で、ソ連崩壊と冷戦終結に道をつけた首相だけに、そのことばは重い。同氏の言う「教育」とはどういう意味だろうか。
わが子を教育するのもたいへんなのに、一国の指導者、しかも独裁的な権力を持った指導者を教育するには、どうしたらよいだろうか。
私は、教育的効果をあげることができるとするならば、安否不明の人々が不明となった前後のようすや、そのことによる家族の心の葛藤を事前に詳細にヒアリングしておき、首脳会談では5時間かかろうと10時間かかろうと、家族がどんなにつらい思いをしたかを切々と訴える情報と心構えの準備が不可欠だと思う。
しかし、家族の苦しみの話を持ち出せば、「日帝の朝鮮植民地支配による同胞の苦しみはそれ以上だ」との反論は当然予想される。過去の行為の謝罪と日本人の人権の主張をどのように按分したらよいのか。きわめて難しい外交交渉となるが、それに挑戦せずして活路は開かれないと思う。米などの物質援助の効果は、誇り高い民族にとって切り札とはならない。
難しい交渉の矢面に立つ日本の首相にとって、地村保さんのような信念の人は、精神的・心理的に強力な味方になると思う。国会議員の中に、地村さんのように、完全解決まで酒を断つ人が日本全国で10人いたら、いや3人いたら、局面は好転する気がするのは、私の根拠なき妄想だろうか。
Posted by oota at 05:30 PM. Filed under: 随想・評論(平成16年)
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文部科学省所属の財団法人が、日米中韓四カ国の高校生の意識調査を行ったところ、日本の高校生は際だって「男は男らしく」「女は女らしく」という意識が低いことが明らかになった。
日本では、数年前から「男女共同参画社会を作ろう」というかけ声の下で、ジェンダーフリー思想(社会的、文化的に形成された性差を否定する思想)に基づいた教育が学校現場で行われている。例えば、運動会の騎馬戦に女子も参加させるとか、着替えを同室でさせるなどである。今回の高校生意識調査結果を見ると、その「成果」(マイナス)が表れているように見える。
富山市では、男女共同参画条例が制定される前の一昨年に市民の意見を条例に反映させようとの意図で、このテーマに関する市民集会が行われた。そこでは、おとなしい富山県人らしからぬ熱い議論が時間ぎりぎりまで展開された。
このテーマの議論が白熱したものになりやすいのは、自分たちの身近な家庭や社会が、どういうものになるかに直結する問題だからだと思う。もっと言えば、男女の夫婦と子どもたちから成る家庭を単位とした社会を、従来通り維持していこうとするのか、そうではなく、社会を個人単位のものとして、結婚の多様性(事実婚、同性同士の結婚等)を認める、という方向へ社会を変革していこうとするのか、という問題をはらんでいるのである。
1960年代に始まったヒッピーの共同体では、男も女も、日常の仕事を男女の区別なく同じように行う「平等主義」を採用したところ、男女の相違に合わず、お互いに仲良くやれずに敵対心や憎しみが生じ、分裂したという。性差を否定し、家庭の多様性を主張するグループのリーダーには、「家庭とは、男性が女性を搾取し抑圧する仕組みである」という男女が敵対するような考え方を持っている人が、少なからずいるようだ。
人は愛によって生まれ、愛によって育ち、愛を全うして死んでいく。その中心的舞台は家庭である。男女差を否定的にとらえるのではなく、違っているからこそ、お互いに補完し、助け合ってより素晴らしい文化を創造できることに注目することが大切ではなかろうか。
マザーテレサも、北京で開催された第4回国連世界女性会議に宛てたメッセージの中で、「男女の素晴らしい違いを否定する人たちは、神が造られたように自分たちを受け入れないため、隣人を愛することができません」と述べている。
大ヒットした映画「ラスト・サムライ」の中では、男も女も礼節を重んじ勤勉で、男は武道に励み、女は育児と家事に励んでいる様子が、田舎の伝統的な家屋や田園風景の中に、美しく描写されている。新渡戸稲造が英語で著した書「武士道」が、日本文化を理解するものとして欧米の人々に好意的に受け入れられた一つの理由は、男女がその特性を生かしながらお互いに配慮し、助け合っている様子が描かれていることではなかろうか。
Posted by oota at 08:43 AM. Filed under: 随想・評論(平成16年)
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放送作家の永六輔氏は「子どもにお年玉をやるのはやめよう」と提案している。子どもに欲しいのか、必要なのかをまず尋ね、「欲しい」と答えたら、「イラクやアフガニスタンの子ども達の事を考えて我慢しろ」と言い、「必要だ」と答えたら「なぜ必要なのか説明しろ」と話しかけるよう提案している。
私はこのことを知り、「我が意を得たり」と感じた。「特に必要もないのに何故、子どもにお金を与えるのか、そんな金があるなら、子どもにお金以上に大切な精神的影響を与えるために、子どもの育て方についての本でも買おう」と思い、子どもにも兄弟の子にも、お年玉をやってこなかったからだ。
前世界バンタム級王者の辰吉文一郎氏の教育論も気持ちがいい。「なぜ子どもに高校に行ってくれと頼むのか。小中学校は義務教育だから責任を持って行かせる。しかし、高校はそうではない。高校、大学へ行きたいなら自分で金を稼いで行きなさい。」というような内容だったと記憶している。
私はこれができなかったのが残念だ。高一の子の教育費は私が出している。せめて何故行きたいのか説明させるようにした。
「頼むから行ってくれ」と言うから、子どもは学ばせてもらっているという自分の位置を離れ、「それだったら、高級勉強部屋を作ってくれ」などと要求がエスカレートし、「親のために行ってやっている」となって学習効果も上がらなくなってしまう。家庭内暴力や不登校にもつながりかねない。
反面、目に見えないものは、どんどん与えるべきだと思う。
小川義男校長(私立狭山ヶ丘高校)の教育は素晴らしい。週5回毎朝6時45分から8時半まで、英語の原書講読の「朝ゼミ」を71歳の小川校長が行い、考えられない程生徒の英語の学力が伸びている。「朝ゼミ」を受けたいために、この学校に入学する生徒もいるという。また、小川校長は、子どもを無視して廊下を通り過ぎることは絶対にしない。たまに考え事をして欠礼すると4階まででも駆け上がって欠礼を生徒に詫びて、挨拶するという(雑誌「圓一」№166、NCU―NEWS発行)。
子どもは、要望に全て応じていれば、簡単に未来の可能性を摘むことができるという。子どもに与えるべきものは、生理的欲求を満たす最低限の物質と、未来の無限の可能性を開花させるのに必要な生きる力を身につけさせるための最大限の基礎的内容(知識・規範・心情)だと思う。
知識は求めと個性に応じて、規範は率先垂範して、心情と愛は無尽蔵に与えてこそ、子どもは豊かな心情に根ざした規範意識を身につけ、規範意識に裏打ちされた豊富な知識を社会の発展に用い、充実した人生を送ることができるのではなかろうか。
Posted by oota at 08:37 AM. Filed under: 随想・評論(平成16年)
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