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子供から「どうして勉強しないといけないの」と聞かれたときのU先生の答は明快だ。
「人生の目的は愛を実践することであり、知識や地位や金を得ることではない。しかし、同じ愛の実践をするにしても、知識や地位や金があった方が、より短時間で愛の実践の成果をあげることができるから、そういうものはあった方がよい。勉強をすれば知識や地位や金を得やすくなり、愛の実践の手段をたくさん持つことができるようになるんだよ。」
このような説明をすること自体は簡単なことだ。問題は、愛の実践をしていない人がこのように言うと、聞く者に知識としては入っても、説得力がないので血肉とはならず、実践にまで至ることが難しいことだ。それどころか、「それが分かっていながらどうしてあなたは実践しないの」と問われ、答えに窮することにもなりかねない。大人の中には、それを事前に察知して、あえて説明しない人もいるのではなかろうか。
何かを言うと追及されかねないとして、言うべきことを言わないといういわば自己保身は、一家庭や一教室内でのことであれば影響は小さいだろうが、政府の政策決定過程にまで及ぶとすれば重大問題だ。
厚生省は覚醒剤予防のために「覚醒剤やめますか、人間やめますか」というポスターを作って国民に呼びかけた。毅然とした言葉で、分かりやすい。
ところが、HIV感染予防のための方策はきわめて分かりにくい。不特定多数の者との性交渉が主な感染経路と分かっているのだから、自己抑制を説き、「不特定多数との性交渉をやめましょう」と広報してしかるべきだと思うのに、「避妊具を使うことが感染予防に効果的です」と広報している。
避妊具を用いれば用いないときに比べて感染確率は低下することは事実だろうが、それでも危険は少なからず伴っている。一〇〇%感染しない方法(自己抑制)が分かっていないならまだしも、分かっているのに何故それを覚醒剤の時のように声高に言わないのか。性欲はとても強いから、自己抑制を説いても効果が小さいと思って、避妊具使用を予防対策の中心に置いたのかもしれない。
しかし、アメリカなどで近年、自己抑制教育が進むにつれて、十代女性の妊娠率やHIV感染率が低下している。そうであれば、せめてHIV感染予防には、自己抑制という方法と避妊具使用という方法を併記し、自己抑制が完全な方法であることを明記すべきではなかろうか。実際には、そうなっていないのはなぜかと考え進めていくと、HIV対策を担当する役人の中に、不特定多数との性交渉をやめることを主張すると私生活との間に自己矛盾が生じ、そのことをとやかく言われることを恐れて、あえて職責を全うしない人がいるのではないかと、根拠がないにもかかわらず、つい疑ってしまう。
私は、親であれ教師であれ、あるいは政策決定者であれ、他者に影響を与えることを期待されている者は、たとえ自分の日頃の素行に照らして、言行一致を貫こうとすれば言えないことであっても、正しく有効な選択肢を知っているのであれば、それを言葉にしてしかるべきだと思う。自分のこれからの行いを改め自己改革の契機にすればよいのであって、自己の抱える矛盾を、職責等するべきことをしない口実にしてはいけないと思う。
Posted by oota at 06:28 PM. Filed under: 随想・評論(平成17年)
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西洋医学と東洋医学には、それぞれ長所と短所がある。
西洋医学は体の不調の原因部位を明確にして切除するなどし即効性がある反面、各部位に対する処置が中心になるので「臓器は治ったけれど患者は死んでしまう」事態が起こらないとも限らない。
東洋医学は、症状が出るのは身体全体の生命力が落ちている結果と考えるので、生命力を高める根本的な治療を施し、その結果他の症状の改善も期待できるなどするが、即効性では西洋医学にはかなわない。
研究者という立場では、それぞれの医学に自負を持つことは大切なことだが、ともすれば西洋医学の研究者は東洋医学を、東洋医学の研究者は西洋医学を軽視しがちだ。
しかし、わが子の難病の治療を必死に願う母親を前にすれば、学問の立場とかメンツなどは投げ捨てて、両者協力して救助に専念することが望ましいし、そのような和解は美しい。
それは、宗教と科学の関係についても言えそうだ。
米国の教育界は、「創造論」と「進化論」のどちらを教えるべきかをめぐり対立し、1968年連邦最高裁は創造論を公教育で教えることを禁止した。ところが最近、「複雑な生命、自然界の特徴・発展は、何らかの知的意図の産物である」とするインテリジェント・デザイン(ID)と呼ばれる考え方が台頭している。ブッシュ大統領も学校でID論を教えることに賛意を示した。これに対し科学者からは、「IDは巧妙に科学を装っているが、実態は新たな手法で宗教を教室に持ち込もうとしている」として批判的な見解が出ている。
人間の根源に関わるこのような問題に関して日本人の関心は低い。宗教に対しても、「弱者がすがるもの」と考える人が多い。一方では戦後、科学一辺倒できた教育を見直し、青少年の道徳心の向上のために宗教教育が必要との声も出始めた。
従来、宗教と科学はお互い無関心でいるか、相手を排斥することが多かったのは残念なことだ。私は、両者は真理を明らかにする手法が違うだけで、真理を明らかにするという目的は同じなのだから、補完的な関係を構築できると思う。
目の見えない人が象に触ると、触る部位によって「筒のようなもの(鼻)」「ひものようなもの(しっぽ)」「壁のようなもの(腹)」といろいろな意見が出るが、全体を総合すれば象のイメージができる。同じように、宗教と科学が異なる手法で体得した部分的な真理を持ち寄ることで真理全体のイメージが描けるのではなかろうか。
般若心経の平易なことばによる現代語訳「生きて死ぬ智慧」(小学館)を著した柳澤桂子氏は、発生学の世界的な研究者だったが、30歳代で原因不明の病に倒れ、現在まで闘病生活を送っている。この間死を意識し続けながら、ドイツ神学や歎異抄などを読みふけり、神や悟りのメカニズムに関心を持ったという。宗教と科学は、病床で生の意味を求めるひたむきな魂の前で和解し、科学的解釈による宗教教典の美しい訳ができあがったと見ることはできないだろうか。
Posted by oota at 06:25 PM. Filed under: 随想・評論(平成17年)
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こう薬とへりくつはどこにでもつくという。
例えば、種子の発芽という現象をどう見るか。普通の見方をすれば、種子内部の胚芽は一定期間種子の外皮のもとに成長し、自ら弱化していく外皮の助けを受けて発芽するのである。
ところが共産主義理論ではそう見ない。胚芽と外皮がお互いに利害の相反する闘争を通じて、発芽が起こると見る。
共産主義理論を唱導したマルクスはどうしてこのようなへりくつを言ったのか。彼は、労働者は経営者に搾取されているから、暴力を用いてでも権利を主張すべきということを言いたかった。そのためには、自然界にも多くの対立や闘争があると思わせることができれば、自説の説得力を強めることができると考えたのだ。
先日富山市で行われた、男女共同参画社会の条例制定に向けて行われた公聴会に参加して、ここでもへりくつがまかり通っている感じを強く持った。
日本は昔から男と女が家庭を中心として一致協力し、社会を共同して形成してきた。男性は女性に比べて力が強い、判断が速いなどの特性を生かして、社会で仕事をし、妻子を養ってきた。女性は出産と育児という偉業を地道に行ってきた。男性が乳児に哺乳瓶を用いてミルクを与えるよりも、乳房と乳首という天与の授乳装置をもって生まれた女性が授乳する方が効率的だ。初期の母乳には免疫や栄養が豊富に含まれていて乳児が健康に育ちやすい。育児を男女均等にせよとの主張はむなしい。
女性の晩婚化・非婚化による少子化、更に若者の引きこもり現象を抱える今日の日本で、男女共同参画社会を敢えて取り上げて議論するのであれば、男性はいかに男らしい魅力的な男性となり女性を惹きつけ、女性はいかに女らしい魅力的な女性となり男性を惹きつけることができるか、という観点が最も重要なのではなかろうか。男女がお互いにより関心を持つことによってこそ、より豊かな男女共同参画社会ができるからだ。
しかし、今日、「男女共同参画社会」の形成という名の下で議論されている内容の多くは、いかにして女性が男性と同じように外で働くことができるようにするか、という問題である。それなら「女性の社会進出」というテーマで議論を進めた方が良いのではないか。男女共同参画社会というテーマで議論するのであれば、女性の社会進出が進めば、女性の女性らしい魅力の低下が懸念され、それが真の意味での男女共同参画社会形成の阻害要因となることを見落としてはいけない。
女性の社会進出を主張する人の中には、子育てを最大の自己実現と考える多くの女性の意見を顧みず、むしろ女性の自己実現を阻害するものと決めつけたり、家庭とは男性が女性を制度的に支配し、合法的にレイプする装置である考えている人達がいる。そのような人達の言うへりくつの背後に、マルクスと同じような、協力するものを敵対するものと見なしてしまう歪んだ動機があることを見逃してはならない。
Posted by oota at 06:22 PM. Filed under: 随想・評論(平成17年)
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人間は死ぬか老いるかである。冷凍保存でもしない限り、第三の道はない。ということは、年を取るということは、その年まで死ななかったということなので、喜ばしいことのはずである。しかし(私を含めて)多くの人は、年を取ることを嫌がる。よく分からない死後の世界へ旅立つ日が日一日と近づくことになるし、体も思うように動かなくなる。中には、寝たきりになってしまって人に迷惑をかけるだけなら、早く死にたいと思う人もいるようだ。
そういう人にとって朗報がある。祈りには他者を治す力があるというのだ。祈りの効果については、一千を超える研究論文が発表されているという。
例えばサンフランシスコのある病院では、心臓病集中病棟の三九三名の患者を米国内の様々な場所にいるキリスト教信者によって祈られる人のグループと祈られない人のグループに分け、両グループの患者は同じハイテク治療を受けたところ、祈られた患者の方が、いくつかの測定の結果、統計学的に見て、明らかに有意に良くなっていることが分かったという(「祈る心は治る力」ラリー・ドッシー著 日本教文社)。
祈る人は、キリスト教信者でなく、別の宗教の信者でもいいし、宗教を信じていない人でも効果に変わりはないという。また、「祈りそのものには力はない。祈りを行うと効果があるのは、祈りが効くだろうという期待感を人が持つためだ」と、プラシーボ(偽薬)効果を主張する人がいる。しかし、患者や患者に接する人に、誰が祈られ、誰が祈られていないか分からないように配慮された実験でも同じような効果があらわれているので、プラシーボ効果ではないことになる。さらに祈りの効果は、地球規模での遠距離同士で行おうと近くのベッドサイドで行おうと同じだという。
同書「祈る心は治る力」では祈りのこつについても触れている。一方的にガツガツと厚かましくお願い事をするという姿勢より、常日頃のことをまず感謝し、それから全てをゆだねお任せするという精神的態度の方が、願い事は叶うようだという。人間同士のコミュニケーションにおける礼儀と同じものが、祈りでもある方がよいようだ。
アメリカでは、祈りの研究に公的資金を使うことに、人々は好意的だという。祈りが病の治療に効果があるということは、代替医療の一つと見なせるということだ。日本でも医療の研究費として支出して、祈りの研究をしてはどうだろうか。
映画「ジョニーは戦場へ行った」の主人公ジョニーは爆撃にあい、両手両足はおろか、目、鼻、口、耳までも吹っ飛ばされ病院に運ばれた。医者の見解は、彼は生きているだけの意識のない肉のかたまりであったが、ジョニーにははっきりした意識があった。祈りには他者を治す力があることを彼が知っていれば、たとえそのような体になったとしても、自分の祈りで人を治せるという自分の存在意識を感じることができるのではなかろうか。
Posted by oota at 06:19 PM. Filed under: 随想・評論(平成17年)
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事業などで創造的なことに取り組めば、その過程で失敗を避けることはできない。むしろ失敗を通して、ノウハウ本では得られない本当のことや全体像が理解でき、成功に至ることが多い。「失敗は成功の母」と言われるゆえんである。
人の成功談はあまり耳に残らないが、失敗談は寝ていた人が起きるくらい関心を持たれやすい。講演する人は自分の失敗体験を冒頭で話せば、聴衆の関心を引きつけることができ、聴衆は安心感と好意を持って聴くことができる。高齢者が自分の仕事体験を人々の前で講演することができるくらいのコミュニケーション・スキルを身につけさせることで生きがいを持ってもらおうと、NPO法人を設立した人も、失敗体験を人前で公表することを重要なコミュニケーション・スキルの一つと考えているようだ。
失敗を知識化し、多くの人に正確に伝わるようになれば、一つの公共財として、社会全体の向上に寄与するだろう。
アメリカの大企業GE(ゼネラル、エレクトリック社)では、それぞれの製品ごとに事故や故障を含む全ての情報を体系的に整理し、門外不出の宝物として使用しており、自社の世界戦略の基礎になっているという(「失敗学のすすめ」、畑村洋太郎、講談社)。
そのためには、事故の当事者が真相を正直に話すことが必要だが、責任問題が絡んでくると当事者はあまり話さなくなってしまう。しかし事故の予防のためには真相究明が必要だ。
日本では責任追及と真相究明が同時に行われるので真相究明が進みにくいのに対して、アメリカでは両者を分離し、真相究明を優先している。免責の保証を与えることと引き換えに、真相を語らせる司法取引制度も真相究明に有効だ。
さらに、事故とは氷山の一角にすぎず、海面下にはたまたま事故にならなかったものの、事故の発生要因と同じ要因を内包している「ヒヤリハット」が多数あり、このヒヤリハットの体験者は、事故に至っておらず責任を追及されないので、極めて雄弁にヒヤリハットの(つまり同種の事故の)発生要因を話してくれるという。この証言も真相追及に生かせられる。
畑村教授は、失敗のプラス面に目を向け、失敗と上手につき合うことが、実利を伴うメリットとなるような経済システムの構築をも視野に入れた「失敗学」を提唱しており、啓発的だ。
畑村教授は、次の3つの理由で、失敗体験を実名で報告することを勧めている。
①聞く者に、よりリアルで強烈なインパクトを与えることができる
②興味を覚えた者が、より詳しい内容を知りたいとき、失敗者本人に直接聞くことができる
③失敗とは隠すものではないという文化をつくることができる
「今年の私の十大失敗」を年末に作成して、年賀状で報告するなどして、失敗の反省を今後の人生に生かしてはどうだろうか。
Posted by oota at 06:17 PM. Filed under: 随想・評論(平成17年)
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行政書士として仕事をしていると、奇妙なことが少なからず起こる。ある仕事を引き受けると、それを完成するために必要な知見があることを気づかせてくれる別の仕事を、最初の仕事を受けた直後に頼まれるのである。まるで誰かが仕事が上手くいくようにと、配慮して段取りしてくれているようだ。
心理学者ユングは、こういう現象(意味のある偶然の一致)を集合的無意識「シンクロニティ(共時性)」という言葉で説明した。
さらに最近は「モノとモノの間の空間には、微細な振動の海ZPF(ゼロポイントフィールド)があって、その波動の共鳴効果によって全てのモノや意識が時間空間を越えてつながっている」という説が出てきた。(リン・マクタガート著「フィールド響き合う生命・意識・宇宙」)
生命あるものは、つながらないと生きていけないし、心あるものは、つながっていないと心が安まらない。
人間は自分を構成する水と土と空気とつながって(摂取して)生きている。エネルギーがあふれて暴れ回る小さな子が高齢の人とつながると(手をつなぐと)、エネルギーが流れて小さな子はおとなしく、高齢の人は元気になるという。ストレスが多くなると病気になって身体がむしばまれるのも、心と体がつながっている(影響を与え合っている)からだ。現世と死後の世界もつながっている(魂は死後も不滅である)と考えた方が、刹那主義になりにくい。人を含めた宇宙は、連帯し合っている広大な有機体と言えそうだ。
一方つながっていることの解釈として、「世の中は弱肉強食の世界だから、人を犠牲にしても生きていく」という考え方もある。ライオンがシマウマに襲いかかって、その肉を食べて生きていく映像を見ると、受験生を子に持つ親は「受験戦争・出世戦争に勝ち抜いて生きていけ」と言いたくなる。
しかし、自然界にはそれとは別の光景を見ることもある。ライオンの親が、死んだ我が子を放置しておくと、他の子ライオンまで襲われる危険を感じて、死んだ子ライオンを食べてしまう。また、親鮭(オスとメス)は繁殖行動を終えると、卵からかえった稚魚たちに我が身をエサとして差し出すために、産卵場所から離れずそこで死ぬ。そのような動物の行動を知ると「食べられる」という行為は、他を生かすための愛の行為と思えてくる。
自然界では鉱物は植物に、植物は動物に、そして結局は人間に全て吸収される。もしも人間が地球全体のことを考えて、利他主義で生きる存在になるならば、全ての存在は、食べられたり吸収されることは、より高い愛の次元に上がっていくことだとして、納得するのではなかろうか。日本社会においても、家臣が主君のために生命を捧げる行為を美徳とし、忠と呼ぶなど、共通するものを感じる。
弱肉強食という現象も愛の秩序と解釈することができれば、つながりの中に人智を超えた存在の愛を感じることができ、困難に出会っても強く智恵深く生きていけるのではなかろうか。
Posted by oota at 06:13 PM. Filed under: 随想・評論(平成17年)
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以前勤めていた団体である研究会に出た時、ある日本の著名な国際政治学者が、同席した中国人の研究者の目の前で「いつまでも過去の事にとらわれていないで、もっと未来に目を向けたらどうか」という趣旨のことを言われる場に遭遇し、ハラハラしたことを覚えている。
確かに人権を侵害したのは、同じ日本人であったとしても自分ではないのだから、贖罪意識は持つ必要はないという意見は一理ある。しかし、そう言われると、被害者側としてはすっきりしないものを感じる。
多数の被害者を出したJR西日本の列車脱線事故直後に、同じ会社の社員がボウリングをしていたとして批判された件も同じ見方ができる。
つまり、被害者から見れば直接の加害者でなくても、同じ団体、同じ国に属しているのなら、悪かったという連帯的な意識を持って欲しいという思いが出てくるのである。この思いは人間の普遍的な感情だと思う。
翻って、未来の日本人から今生きている日本人が糾弾される事がもし何かあるとすれば、自分が直接それに関与していなくても同じ時代同じ国に生きた者として、連帯的な責任を追及されかねない。
今日の十代の性倫理が極端に低下し、一部の無責任な性的自己決定論者がそれを助長している。無秩序な享楽の謳歌は、勤労意欲を喪失させ国力の低下をもたらす。性行為感染症を治療している良心的な産婦人科医たちは、爆発的なエイズの流行を心配している。未来から追究されるなら、これが最も懸念されるテーマだろう。
文部省は一九四七年に純潔教育委員会まで設置して純潔教育を進めようとしたが、七十年代に入って「性教育」という言葉が使われ始めるとやめてしまった。十代の性感染症の蔓延に対しては、文部省も厚生省も無策だ。
この時代に生きてこの問題に全力で取り組んでいる人はけっして多くない。
一人はカリスマ占い師といわれる細木数子女史だ。TBS「ズバリ言うわよ」(五月二十四日)で、今問題になっている小学校低学年での露骨な性教育について「命がけで反対する」と訴えていた。スタジオの中の女性タレントや若い女性たち百人の前で、「私は三十年間何十万人もの相談を受ける中で、小中高の女性が妊娠して堕ろしているのを知っている。心の傷は癒えない。許容能力がない段階で教えてはならない。仮に一生懸命教えたとしても、人間としての心の常識も一緒に教えるべきです。」と言う言葉の力が、他の出演者とはまるっきり違っていた。
不朽の名著「恋愛なんかやめておけ」の著者、故松田道雄の「性に関しては男と女はけっして平等ではない。フリーセックスの結果、間違って子供ができてこっそり手術してもらうのも女だし、経口避妊薬の副作用で病気になるのも女だ。男ばっかりが得する世界で、恋愛でだけ平等だと思うのは、よほど計算に弱いのだ。」という趣旨の見解も的を射ている。
Posted by oota at 06:09 PM. Filed under: 随想・評論(平成17年)
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子供の通う学校のPTAの会合に出ると、あまり意見が出ないことが多い。とりわけ、普段はよく話す女性たちから(失礼)意見が出ない。よく話すのは、整理されているにしろされていないにしろ、アイディアや感情が沢山あるということだ。それを引き出し、皆が楽しく議論できる仕組みを用いれば、実りある意見交換と気づきの場になるはずだ。
ある会主催のワークショップ(参加型体験学習)に何度か出た。良くプログラムされた運営方法で、とても楽しく時間の経つのが速かった。
運営方法を簡単に紹介しよう。まず初めて会う人々が打ち解けて意見を出しやすい状態を作るために、自己紹介や体を動かす活動「アイスブレイキング」をする。そして参加者を振り分け(5~6人のグループをせいぜい5~6)て、各グループで討論をする。討論では皆が自分の意見を出せるよう、一つの意見を一つの小さな紙片に各自が書いていく。特定の人が支配することがないように、「今日一番早く起きた人は頭がすっきりしているから司会をお願いします」等と言ってグループ運営上の役割を決めてしまう。
KJ法等を用いて、意見が書かれた紙片を大きな紙に貼り付けていきながら、皆で意見を集約していく。全体発表の場で、グループの代表者は自分のグループの意見を発表する。他のグループの意見にも耳を傾け、議論を深めていく。
参加型体験学習がうまくいくためには、事前に、スタッフが、タイムスケジュールを検討しておくなど、周到な準備が必要だ。なかでも大切なことは、会を進める人の育成だ。
参加型体験学習の進行役、ファシリテーター(「促す人」の意味)は、先生でないから教えないし、指導者でもないから命令もしない。参加した人が自由に楽しく本音が言えるような場作りと進行をして、時間通りに終わるように導くのが役割だ。
ファシリテーターは出てくる意見を吸い上げることが大切だ。「それは違うよ」とかは絶対に言ってはならない。Aさんの意見が正しくBさんの意見が間違っていると思っても「AさんとBさんの意見が異なっていますね。どうしてでしょうか。どう思われますか」と導いていく。ユーモアの心と参加者一人一人を大切に思う気持ちがないとうまくいかない。
奇跡を起こすインドの宗教家サイババは、ある時ジャーナリストから「あなたは神か」と尋ねられた時、「そうだ」と答えたという。続けて、「あなたも神だ。ただ私とあなたの違いは、神であることを知っているか知っていないかの違いにすぎない」と答えたという。
どんな問題やテーマでも、体験したことがあれば、解決策は神の似姿(聖書)である人間はそれぞれ持っている。それを意識レベルにまで引き出して、実践するかどうかが問題だ。優れたファシリテーターが進行する参加型体験学習によって、奇跡のような成果が出せるかもしれない。
Posted by oota at 06:07 PM. Filed under: 随想・評論(平成17年)
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「ふたりのため世界はあるの」という歌詞を含んだ歌がかつて流行した。ある宗教家は「歌詞が間違っている。『世界のためふたりがある』とすべきだ」と喝破したという。私も同感だ。
マスメディアに登場する人の中には、生きる上での心構えを教えて下さる素晴らしい人が多い反面、「自分のために生きることがよいことだ」という考え方を、過度に強調する人が少なからずいることが気にかかる。
私は、「国に何をしてもらえるかではなく、国に何をしてあげられるかを問いなさい」と語ったアメリカのケネディ元大統領のことばが好きだ。「全体に奉仕する中で個の幸福を求めていく」という、人が社会生活をしていく中で幸福になる原理を端的に表しているからだ。二宮金次郎などの偉人伝を読んでも、その原理を確認することができる。
しかし、子ども達に川柳を作らせたら、「偉人伝、ご苦労様と読み終わり」という作品があったというが、偉大な人物の言行を自分とは無縁のものと思ってしまうのだろう。「自分のために生きることが良いこと」とささやき続けるマスコミの影響が大きいような気がしてならない。
営業の仕事で実績を上げる人は、「この人(会社)のために自分は何ができるだろうか」と常に自問し続けている人である。一定の売上がないと仕事を続けていけないから、当然、毎月の売上を把握し、増加策を講じる。これは自分のためでもあるが、お客様のために一生懸命説明や提案をしていたら結果がついてきたという場合が多い。
営業員にとって最大の敵は自分自身だ。「このように話すとどう思われるだろうか」と考えると、話すことが相手のためと分かっていても、言えなくなってしまう自分の弱さだ。
実績を上げる営業員の関心は、自分がどう思われるかではない。「貴重な時間を割いてくださったお客様に、どのように役に立ち幸福になってもらえるかを、お客様の事情に即して一緒に考える」ことに向けられる。そういう営業員の質問は具体的だ。しかも、お客様が自分の勧める商品やサービスを用いて喜んでいる姿がイメージできるまで質問は止まない。すると、お客様も自分が本当は何をしたかったのかに気づいて、商品を買ってもらうだけでなく、感謝されることにもなる。「お客様の喜び」が大きな関心事であってこそ、それが可能なのである。
人の喜びに大きな関心を寄せ、洗練された話法で実績を出す営業員に、小中高校の授業等で、その要諦を話してもらったらどうだろうか。引きこもりと呼ばれる人々の数が増えて大きな問題になっているが、相手を思う心や、コミュニケーションや提案のテクニックを話してもらえば、人のために生きる喜びと、それが自分のためになることを実感でき、社会に踏み出す知恵と勇気が得られるのではなかろうか。
Posted by oota at 06:04 PM. Filed under: 随想・評論(平成17年)
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東京で研究活動の企画と事務に携わっていた頃、有識者を招いての研究を担当していたN先輩が、笑いながら「研究とは飯を食うことのようだ」と言われたのを覚えている。
N先輩は大学で物理学を専攻していたので、研究とは実験室で黙々と仮説検証のための作業の連続というイメージを持っていたのに、政治や経済を専門とする先生方が参加する研究会は、集まって食事してテーマについて話し合うだけであることを知り、そう思ったようだ。
いつもそのテーマのことを考えておられる先生方が、議論でお互いの知識や見解を交換し、新しい気づきを得たり別の意味を見いだしたりしながら、解決策を絞り込んでいくことも立派な研究活動である。食事は、忙しい先生方が多くの時間をとられないようにとの、時刻設定の配慮のゆえに過ぎない。
コミュニケーションの力は大きい。ひとりではなかなか解決策が見えなくて悩んでいることでも、人と話していると自分の考え方が偏狭であることに気づいたり、新しいものの見方ができるようになる。
ところで、コミュニケーションをより実り多いものとするには、共通目的を設定することがとても大切だと思う。
ライブドアの堀江社長が、日本放送の株を大量に購入して支配権を得ようとした行為に対して賛否両論出ている。私は、覇権をめぐる争いとなるのではなく、お互いに放送やマスコミはどう変われば日本がもっと良くなるかというテーマで意見を出し合って、社会善化の競争になるならば、人騒がせな行いであっても、後で評価されることになると思う。そのためには、ふさわしい共通目的を設定できるかどうかにかかっている。
発展とは「弁証法的発展」(あるものを正としそれに対立したり批判する立場のものを反とし、その両者の闘争により発展していく)であると思っている人が多いようだが、私はその意見に対して懐疑的である。
二つのものの相違点を明確にすること自体は必要なことと思うが、それ以上に共通点に目を向けて共通目的を設定することの方が重要だと思う。「対立による発展」ということを強調しすぎると、共通目的の設定ができなくなってしまうおそれが出てくる。
明治大学の斉藤孝教授は、立場を二つに分けてお互いの主張を言い合うディベートの乱用の危険性を説いている。何を大事だと思うか、何を正しいと思うか、という価値判断がまず先にあって、論理が構成されることがまともな思考であるはずだが、ディベートでは論理性は大切にし、その訓練にはなるものの、立場を固定して主張し合うために、価値判断に対する考慮がなされにくいからと主張しておられるが、同感だ。
私は「弁証法的発展」を全面的に否定するつもりはないが、それに加えてお互いに円満なコミュニケーションができるような「共通目的の設定」がなされれば、幸福な発展ができるのではないかと思う。
Posted by oota at 06:02 PM. Filed under: 随想・評論(平成17年)
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奈良県で小学校一年生の女児が36歳の男性に殺される事件が起きた。殺人犯は過去にもわいせつ行為を繰り返した性犯罪者だった。
性犯罪者は更正が難しく、再犯の可能性が高いという。アメリカでは、「近所の何処に性犯罪の前歴者が住んでいるか事前に分かっていれば、ミーガンちゃん(当時七歳)は殺されなかったのでは」という反省に立って、一般の人が電子端末から容易に性犯罪の前歴者がどこに住んでいるか調べられるミーガン法(性犯罪者公開法)が成立している。
日本でも早急にそのような法律の整備をして欲しいと思う反面、そのような法律ができると前歴者が更生できるよう社会全体で支援する風潮が弱い日本では、前歴者の社会復帰を閉ざし、再犯や自殺に追い込みかねないとも危惧する。難しい問題だ。
私は家庭、学校、地域、職場等あらゆる場所で人々が愛について話し合うようになれば、性犯罪の抑止だけでなく、あらゆる犯罪や自殺の抑止になり、今よりずっと住み易い社会になると思う。
古今東西多くの愛の実践者がいるのに、語られる機会が少なすぎるように思う。子どもに歴史を教える時は、政治家などの権力者を中心とした歴史でなく、自己の保身を省みず勇気を持って愛を実践した人を中心とした歴史を教えることはできないだろうか。究極の愛の実践者と言える高等宗教の四大聖人がいなかったら、人類は殺し合いによってとっくに滅んでいただろう、という見解もあるくらいなのだから。
私は請われるままに、料理学校の生徒たちに「愛について」のテーマで何回か話をさせてもらったことがある。ユダヤ人をナチスの攻撃から生命がけで救出したシンドラーや、マザーテレサについて、その利他的な愛を心を込めて話したら、真剣に耳を傾けてくれた。
日本にも愛の実践者は大勢いる。その中でも、我が身を省みず、良心の発露として人類愛を実践した柳宗悦や杉原千畝の人生は、魂を大きく揺さぶって迫ってくる。
私は、入学試験や資格試験の受験科目の中に、愛の実践者に関する知識を問う「偉人伝科」(仮称)を入れることを提案する。愛の実践者がいつどこで生まれ、どういう時代環境で、どういう問題意識を持って何をしたか、後世にどういう影響をもたらしたか等の一般的な知識が、日本人としての教養の大きな部分を占めるようにするためである。
愛を体系化した「愛学」を作るのも良いではないか。愛を倫理学や神学の一分野にとどめておく必要はない。いわんや酒席の下ネタと同一視されるいわれはない。
愛を体系的に語ることができるようになれば、生命にまつわる問題も、性にまつわる問題も、解決の方向性が示されるに違いない。なぜなら、愛の後に性と生命ができたのだから。愛の復権を強く叫びたい。
Posted by oota at 05:59 PM. Filed under: 随想・評論(平成17年)
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