Skip to main content.
*

2006/12/15

 世の中は不思議で満ちている。ある人のことを考えていると、その人から電話がかかってきて驚くことがある。目に見えない世界で、思いはつながっているのかもしれない。

 大人が外国語を学ぶとき、一つ一つの言葉の発音や意味を覚え文法を学び、それでもなかなか話せない。赤ん坊はそういう教育を受けていないのに、周囲の人の話す言葉を聞いているだけで、一歳にもなるとだいたい話の内容を理解しているという。人間の言語能力獲得の仕組みは不思議に満ちている。

 不思議と言えば、自分が存在していること自体が不思議だ。もの心がつくようになった後、自分があるところ(家、学校、公園等)にいれば、その前にそこへ行こうと思ったはずだ。それが原因となって、その結果としてそこにいるようになる。

 しかし、人間はもの心がついたとき、地球上に存在しているのに地球で存在し始めようと思った結果として存在しているわけではない。気がついたら存在していたのだが、そのことの原因は、自分が認識していないだけで何かあるはずだ。夫婦間の相互作用の結果と言ってしまうのは簡単だが、それでは一番初めにさかのぼればどうなるのか。最初の原因は何なのかについて、誰もが納得できる答はまだない。それなのに平然と存在しているというのも不思議なことだ。

 不思議なことに出会ったとき、人はそれを解明するのにどのような考え方をしてきただろうか。1つは、人間を超えた偉大な創造者を認め、その偉大性を理解し賛美するために、宗教的または科学的なアプローチをしてきた人たちがいた。もう1つは、人間の理性を信頼し、創造者を考えずとも科学が万能であるとして、不思議な現象の解明に取り組んだ人たちだ。

 私は、前者の方が優れたアプローチだと思う。価値から離れた科学が決して万能ではないことが指摘されている今日、科学では説明できない不思議な現象に対して、創造者像を描き、それをもとに合理的な説明を求める研究が日本でも始められても良い頃だと思う。

 アイザック・ニュートンは、聖書研究にも科学研究と同様の情熱をつぎ込んだ研究者だった。研究室を訪れた無神論者の友人がニュートンの研究室にある宇宙の立体モデルを見て、「とても精巧に作られているね。誰が作ったのか」と聞いたときに、ニュートンは「誰も作ってはいない。物質の粒子が集まってひとりでにできたんだよ」と言うと、「そんなはずはない。誰か制作者がいるはずだ」と言う。そこでニュートンは、「あなたはこんなちっぽけなモデルにさえ創造者を認めるのに、どうしてそれとは比べものにならないほど大規模で精巧な宇宙に創造者を認めないのか」と言ったという。

 日本でも、ニュートンのような観点からの研究者が輩出すれば、不思議な現象の解明が進むだけではなく、学問や考え方の枠組みの変更をもたらすような、偉大な発見がなされるかもしれない。

2006/11/15

 日本のバレーボールチームなどと外国のチームとの、日本での試合のテレビ放送を見ると、日本人の観客が一団となって、大きなかけ声の元に、いっせいに同一行動をしている。しかも、日本チームが得点すると、大きな拍手を送るが、相手チームの選手の妙技があっても、拍手はほとんど聞かれない。

 日本人として日本チームを応援するのは、自然な感情とは思う。歓声や拍手が自然発生的に起こってくるのであれば、何も言うことはない。しかし、統一的行動で会場を支配するような雰囲気で応援するというのは、試合会場やテレビで観戦をしている人の中には、当然外国チームを応援している人もいることを考えると、やりすぎではないかと思う。

 私は、国を愛することをやめよと言っているのではない。オリンピックなどの試合で入賞した人が表彰台に立ち、掲揚される国旗の元、涙を流して国歌を歌う光景は美しいと思う。そこに流れるのは、栄光の立場に立たせてくれた人々や国に対する感謝の念や誇りの思いであり、それが個人の自発的意思として穏やかに表現されているから美しいと感ずるのである。そのような含蓄のある応援のしかたはないのだろうか。

 ある中国人留学生は、日本語弁論大会の発表で、「中国でもいじめはあるが、大勢がいっしょになってひとりの人をいじめることはない。日本でそのようなことが起こるのは、日本人の集団主義の現れだと思う」と言っていたが同感だ。

 集団主義とは、周囲の行動に合わせ、全体の中に埋没することで自分が批判を受けることを避け、もって安心感を得ようという考え方の習慣とも言えよう。

 このような行動が取られる原因の一つは、自分に自信がないことだと思う。なぜ自信がないのか。私は従来、日本の多くの家庭や学校で「他人の迷惑にならないように生きて行きなさい」とは言われても、「他人に喜ばれるようなことをして生きて行きなさい」とはあまり言われなかったことが関係しているような気がする。

 もとより、他人に迷惑をかけてはならないのは自明のことだ。しかし、初めての人生を、程度の差はあれ人に迷惑をかけないで生きていくことなど、もともと不可能なことではないか。しかも、他人に迷惑をかけてはいけないと過度に意識していると、気持ちが委縮して、自分が良かれと思ったことでも、行動に踏み切れなくなってしまうのではなかろうか。

 むしろ、「今日はどんな行動で誰を喜ばせ感謝されたの?」と親や先生が子供や生徒に尋ねることが習慣になっていれば、人に善意を示すさまざまな智慧やノウハウが大人から子供に伝授され、それを社会で実践して感謝されれば、自信がついてくるのではなかろうか。結果として、他人に迷惑をかけないことにもなる。

 さらに、どのように喜ばせるかを考える中で創造性が養われ、人に配慮することも覚え、集団主義の弊害が取り除かれていく。その先に、洗練された応援の方法が生み出されることを期待したい。

2006/10/15

 福岡県で、先生と他の生徒たちがいじめた生徒が自殺するというぞっとするような事件が起きた。いじめに加わったある生徒は、「先生がしているからいじめてもいいと思った」と述べていた。「他者に親切に」という規範と「先生の言うことに従う」という規範が対立する状況下で、生徒が正しい判断を下すことは容易ではない。規範が生徒の中で内面化(言われたから守るというのではなく、意義と価値をよく理解し実際に行動に移せること)されていてこそ、それが可能となる。

 安倍晋三首相は、「すべての子供に高い学力と規範意識を身につける機会を保証するため、内閣に教育再生会議を設置する」と述べた。しかし、生徒に規範を内面化させ、規範に基づく行動を習慣化させるためには、徳目を理解させる現行の道徳教育だけでは不十分だ。宗教的情操の涵養が効果的だ。
 
 宗教的情操は、自分を超えた存在を意識することが契機となって育つことが多い。西行法師の「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」の感懐がその意識を端的に表現している。あるいは、人間は誰しも世の中に生まれ出ることを計画して誕生した者はおらず、気がついたら存在していた結果的な存在なのだから、自分をあらしめた原因に思いをはせ、自分は被造者であるという意識を持つことで、宇宙に神秘を感じ、人に謙虚になっていく。

 私は、教育現場で規範意識の低下が指摘される原因の一つは、現行の教育基本法にあると思う。

 宗教教育について触れた9条では、「宗教に対する寛容の態度は教育上これを尊重しなければならない」とあり、あたかも、「宗教は良くないものだが、中にはそれを心の拠り所としている人もいるので、寛容に接しましょう」とでも言わんばかりだ。そのせいか、今日では、宗教的知識を有し、生徒の宗教的情操を育てることのできる教師はほとんどいなくなった。

 また、教育基本法9条2項「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない」で禁じているのは、宗派教育であって宗教教育ではない。宗教的情操を養うためにいくつもの宗教の特色や教祖の人生を情感豊かに教えることは、構わないどころか必要だと思う。具体的な宗教を実例として教えないで、宗教的情操を涵養することなどできないからだ。

 首相補佐官でかつ教育再生会議の事務局長となった山谷えり子氏は、「日本の教育改革」有識者懇談会(通称「民間教育臨調」)のメンバーとして、「宗教的情操の涵養」を明記した「新教育基本法案」の作成に関与している。首相に対する山谷氏の補完機能が働けば、教育の再生が期待できる。

 学校教育現場において、宗教的情操の教育ができる教師が輩出することこそ、彷徨する現代の若者を救う特効薬であり、現代日本における最重要の課題だと私は思う。

2006/09/15

 コンビニのトイレに「きれいに使っていただき、ありがとうございます。」という貼り紙がしてあった。トイレを使う人はきれいに使うかどうか分からない。汚してそのまま出ていく人もいるかもしれない。しかし、「きれいに使っていただき」と未来(使用後)の姿を断定的に表現されてしまうと、きれいに使わないといけないという気持ちになってしまう。

 あるセミナーでは自分の墓碑銘に書いて欲しい内容(「何某はこの分野でこのような業績をあげた」等)や、自分の訃報記事を自分で文章化させていた。いずれも、未来(死後)の自分がどう評価されたいかを考えることによって、これからの自分の生き方を考えるきっかけとなっている。

 未来の自分の姿は、いわば人生の「設計図」に該当しよう。建築物であれば「設計図」の他に施工管理や工程管理があってこそ建物完成への道筋が明確になる。では、人生の工程管理はいかにして行えばよいか。

 コーチングにヒーローインタビューという手法がある。コーチからコーチングを受けるクライアントが仕事などの目標設定をし、目標が達成したと仮定して、コーチから「おめでとうございます。今のお気持ちをお聞かせ下さい。成功した原因は何だと思いますか」等ヒーロー(成功者)にしてもらってインタビューを受けるというものだ。面白いことにこれを受けると成功パターンが一つだけではないことが分かることがあるという。

人生の工程管理を支援するもう一つの方法は、中間の目標を設定することだ。30歳ならば60歳になった時の完成図だけでなく、そのためには50歳や40歳の時にはここまで実現しておこうという中間図を描くことである。

 実際の時間は現在から未来へ向かって流れているが、心で未来のことを描くとそれが原因となって、現在すべきことという結果が出てくる。現在が原因で未来が結果という普通の因果律とは異なる、このような原因、結果の関係のことを内田順三氏は「精神としての武士道」(コアラブックス)の中で「逆向き因果律」と呼んでいる

 そして、それは過去と現在との関係にもあてはまるという。つまり、過去の不幸な体験(事故、病気、離別など)も現在から見れば、自分の人生に必要なものであったと理解されるときに、過去に対する解釈が変わり、人生が統合されていくというのだ。

 過去は変えられないからと考えない人、未来を考えずとも今与えられたことをし続ければそれで良いと考える人、また計画は立てた方が良いとは思うが、変わるかもしれないからあまり意味がないと考えている人もいる。

 しかし、それは人間の想像力や、価値の発見により再起する力を過小評価している。過去の自分の人生を振り返る老人の統合の感懐を若者が知れば、人生に無駄なことはないと思え、勇気を持って未来を構想できるのではなかろうか。

2006/08/15

 富山市の今後の10年間の総合計画審議会が昨年10月に発足し、全体会議や4つの分野ごとの部会等での討議を経て、本年8月に森市長に対して基本構想案を答申した。同案は市議会9月定例会に提出され、その後、基本計画が11月にも答申される見込みだ。私は公募委員として、討論に加わった。

 議論の過程で市の事務局から提出された討議用資料を見て、教育を視野に入れた文言がほとんどないことと、価値観について「多様な価値観の尊重」という文言は見えても、「普遍的(人格的)価値観の尊重」という文言が見あたらないことを感じた。

 イギリスのブレア首相が選挙演説で言った「イギリスには3つの課題がある。1に教育2に教育3に教育である。」のことばを持ち出すまでもなく、私は国政であろうと市政であろうと、教育は常に最大の政策課題だと考えている。

 また、偏狭な優越感から解放された戦後日本において「多様な価値観の尊重」を唱えるのであれば理解できるが、犯罪が凶悪化・低年齢化して、国民の倫理観の喪失が指摘されている今日では、良心、共感、自制等の「普遍的価値観」の重要性を唱えた方が妥当ではなかろうか。

 私はそのように感じたので、全体会議でも所属する安心部会でも、毎回そのことについて発言した。「アメリカのある市では市長を中心に人格教育審議会を作り、各月の徳目を決め、学校もマスコミも商店街もそれを標語にして強調する取り組みを継続している。富山市でもやってはどうか」「もしも殺人事件が毎月のように富山市で起きれば市民感情はどうなるか。危機感を持った取り組みが必要ではないか」等である。それに対し他の委員からは同調的な声が多く、私は基本構想に文言として反映するものと思っていた。

 しかし、事務局から出された構想案には「人格的価値」の文言も「普遍的価値」の文言もなく失望した。全体会議でそのことを指摘したところ、基本計画の段階で具体的内容を検討したいとの回答が得られた。

 確かに事務局のとりまとめの作業はたいへんだ。特定の意見だけを重視することなく中庸を保ちながらも、1つの観を持っていないと分裂した内容になってしまう。しかし、普遍的価値の文言を入れることは必要だとの思いは変わらない。

 文部省は戦後、青少年の性倫理を高めるための「純潔教育」を進めたが、「性教育」という用語が定着し始めると、「純潔教育」はやめてしまった。今ではこのことばは死語になってしまった。しかし、もしも文部省が純潔教育を継続していたら、今日のような性の退廃は見られなかったかもしれない。

 良心、共感、自制、純潔等の徳目は、一党一派を利する特定の価値観ではない。むしろ、それを求め目指し続けていかないと、健全な社会を維持できなくなってしまう必須のものなのではなかろうか。普遍的価値観にこだわる不変の闘いは終わらない。

2006/07/15

 「命あっての物種」(何ごとも命があってのことで、命がすべての元となる)ということわざがある。過労死のニュースを聞くと、このことわざはその通りだと思う。仕事のしすぎで命を落とすなんてもったいない。
 しかし、同じことわざでも用いられる文脈が違うと、異なる印象を持つ。

 マザーテレサは、死を避けることができない人のために「死を待つ人の家」を作り、生まれてこのかた薬すら飲ませてもらったことのない貧しい人々に、食事と薬を与え、看護をしてあげた。合理的な考え方に慣れている日本人の中に、この話を聞いて「医薬品が不足している状況であれば、死ぬと分かっている人ではなく生きる望みのある人を優先的に看護してはどうですか」と尋ねた人がいるという。

 しかし、マザーテレサの活動は、死にゆく人の手を握り、「あなたも私たちと同じように望まれてこの世に生まれてきた大切な人なんです」と話しかけることであるという。生死を超えて存在自体を無条件に愛する精神の前では、「命あっての物種」のことわざは色あせてしまう。

 自国の勝利や独立のために民衆の先頭に立って闘い、その結果生命を落としたフランスのジャンヌダルクや韓国の柳寛順も、生命以上に自由や民族の誇りを優先させたのではないかと思う。

 人は使命感を持つと寝食を忘れてそのことに取り組む。「使命」ということばは「命を使う」と書く。命はより高
い価値を実現する手段として用いてこそ、その価値を最大限に発揮することができるのではないか。

 生徒が自殺したり同級生を殺したりすると、学校の校長先生が全校生徒の前で「生命は大切です」と訴えるが、生命自体の価値を訴えても生徒の心に響かない。「あなたが死ぬと家族や友人や先生など、あなたを知る人が悲しむ」ことを伝えると共に、「生命を用いて自由や愛という価値を実践できるのに、生命がないとそれが実践できなくなる。だから生命は大切です」というメッセージを伝えてこそ心に届くのではないかと思う。

 かつて自己啓発プログラムの販売の仕事に従事していたとき、「生きるために売るのではない。売るために生きるのだ。」という標語が会社に掲げられていた。そのプログラムは目標設定と行動計画を立てることを支援するもので、真面目に使えば確実に充実した人生を送ることができるとして、販売員は仕事に誇りを感じていた。そのときは気がつかなかったが、今になって思えば、「生きるために売るのではなく、売るために生きる」というのは、生命を超越して使命に生きることと同義なのだと感じる。

 定年退職を迎え、することがなくて時間をもてあましている人がいると聞くが、生きること自体を目的としてきたことの結果ではないのか。「自分の生命があろうがなかろうがこれは実現したい」という使命感を持って全力投入できれば、充実した人生といえるのではなかろうか。

2006/06/15

 20年近く前に、富山市内の道路脇に「少年よ、罪を犯すな、親の恥」と書かれた富山県警の看板を見て苦笑した。「犯罪予防は、その罪自体が悪いことだと納得させるべきであって、親の恥になるからという理由でやめさせようとするのは、筋違いではないか」と思ったからだ。
 しかし、今の私の考え方は変わった。看板に書かれた内容に完全に賛同するようになった。この間、二児の父となったということもあるが、人を動かすには論理ではなく情に訴えるのが効果的であると思うようになったからである。
 学問で用いられる論理は、基本的には信頼できると思う。しかし、社会生活において人間が用いる論理は、基本的には疑ってかかるべきだ。なぜなら、自己正当化のための手段として用いられることが多いからだ。
 ベストセラー「国家の品格」の著者、藤原正彦氏の講演会に参加したところ、「私は人を殺してもよい理由を50くらいは並べることができる。そしてその後に人を殺してはいけない理由を50並べることができる。論理とはその程度のものです」ということをおっしゃっておられたが、同感だ。
 「なぜ人を殺してはいけないか」と問う青少年に対して、私は以前その理由を論理的に説明してやるべきだと考えていたが、「それではあなたは殺されてもいいのか」と逆に問いかけることが適切な対処法だと思うようになった。
 愛国心を学校教育で教えるべきかという議論がなされている。「教えるべきではない」と主張している人の中には、「憲法19条の思想及び良心の自由に違反することになる」と主張する憲法学者もいる。憲法という範囲の論理としてはそのとおりかもしれないが、憲法は時代とともに変わるものではないのかと問い返したくなる。
 反面、厳密な論理の上では完全でないとしても、「国に愛され、国に生命・財産を守ってもらっているのだから、国を愛し国に恩返しをするのは当たり前だ。あなたとあなたを生んだ親と先祖が、国によって愛され生かされてきた歴史の連続性に敬意を払わないで、あなたが存在する根拠を肯定的に説明することができるのか」というような、情緒を加えた論理の方が説得力を感じる。
 私は純粋な論理を否定するものではない。ただ、人間の精神生活を豊かにするために論理を用いようとするのであれば、愛と生命と存在等の実存的関係を踏まえた、情緒的、心情的な論理(私は「心情論理」と呼んでいる)であってこそ、人々の心にストンと落ちて納得されるのではないかと思う。
 多くの宗教で説かれる黄金律(「自分の望むことを人にせよ」「自分の望まないことを人にするな」)や、親孝行、郷土愛、祖国愛、人類愛等、普遍的な人としての生き方は、このような心情論理として語ってこそ、青少年の生きる力となるのではなかろうか。

2006/05/15

「罪をつぐなう」と言うと、否定的なイメージが持たれやすいが、この行為に含まれる積極的な意味に合点がいけば、心が解放された平安な人生を送りやすくなると思う。

 NHK総合テレビの六回シリーズのドラマ「マチベン(町弁)」(脚本 井上由美子)の最後の二回は、この問題を取り上げた心に残るドラマだった。

 竜雷太演じる深川保は、娘の八重子の不倫相手を八重子の娘、友香がはずみで殺したことを知り、孫を殺人者としないために、自分が殺したと主張した。江角マキコ演じる主人公の天地涼子は、服役中の保を救い出すために弁護士に転身した。天地は別件で殺人未遂犯にされ、被告の立場で法廷で保に質問し、事件の真相を明らかにするよう迫った。
 
 法廷で傍聴していた友香は、たえられず真実を話したいと天地被告の弁護士に申し出た。ところが、天地は、保自身が真相を話さなければ本当の解決にならないとして、友香に発言の機会を与えない。次第に感情が高ぶる保を前にして、天地被告は「愛する人に罪を償う機会を与えず、これからずっと罪を隠しながら生きていかせるんですか。法廷は人を裁く場所であるとともに、赦すところでもあるのです」と迫っていく。天地の迫力に屈した保は真相を語り始めた、という感動的なドラマだった。

 私はこのドラマから二つのことを学んだ。一つは、罪を償うということは、償う人の尊厳性を保つということだ。もしも友香が罪を償う機会を与えられないとするならば、人間としての尊厳性を感じることなく生きていくことを余儀なくされることになるのではないか。

 もう一つは、真相を明らかにし罪を償う方法だ。保が真相を隠したのだから、真相を明らかにするのも保でなければならないと天地は考えた。さらに言えば、旧約聖書の「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷……をもって償わなければならない」(出エジプト記21章)という文言は、復讐の論理と考えられがちだが、償いの論理とも考えられる。つまり、「人の命を失わせたら自分の命を差し出すべきだ」という同等の価値をもって償いをするという原則を示したものと見ることができる。償いにも論理と責任があるということだろう。

 死後の世界の存在を肯定するある組織神学は、肉身生活(生まれてから死ぬまでの間)の目的の一つは、肉身生活で犯した罪を償うことだとしている。罪を償うことなく死ねば死後の世界で償わなければならず、肉身を持たずにそれをするのはとても困難だというのだ。

 平成21年5月までの間に始まる裁判員制度の裁判員になることに、多くの国民はあまり気が進まないようだが、「裁く」ということは「赦す」ことであり、被告の「尊厳性を守る」ことでもあることを理解すれば、もっと積極的に関わろうとする人が増えるのではなかろうか。

2006/04/15

たとえば、中国、韓国、日本の歴史研究家や国際交流の実践者達が集まって、三国共同の歴史教科書を作る取り組み(以下「同プロジェクト」と言う)がうまくいけば、何かにつけて対立的になりがちな外交関係が好転する契機になるかもしれない。

現状では、そんなプロジェクトなど不可能だという意見の方が強いと思う。日本はアメリカに対しては原爆を落とされた立場から、生徒が修学旅行で広島の原爆記念館へ行くなど、被害者としての歴史教育はするものの、同じ20世紀のアジア諸国との関係についてはあまり学校で触れない。それに対して、中国や韓国では、日本に侵略されたということを教科書の多くのページを割いて詳述している。その現状を踏まえれば、そんなプロジェクトがうまく行くわけはないというのである。

 私は同プロジェクトに関わる人々(企画立案者、会議参加者、教科書執筆者等)が何に注目するかによって進展度合いが異なってくると思う。自国では評価が高くても他の国では評価されない歴史上の人物以上に、自国でも他国でも評価される歴史上の人物に関心を向けることができれば、同プロジェクトがうまく行く可能性が見えてくるのではなかろうか。

 たとえば、足軽から身を起こし信長の意志を継いで天下を統一した豊臣秀吉や、低い身分に生まれながら総理大臣となり日本初の憲法を制定した伊藤博文は、歴史的偉業をなしたとして日本人から尊敬されている。しかし一方では、豊臣秀吉による文禄・慶長の役で日本水軍を破った韓国の李瞬臣や、初代韓国統監伊藤博文をハルピン駅頭で射殺した安重根が、愛国者として韓国人から尊敬されている。

 それらの英雄の伝記から国を愛する心を学ぶことを否定するものではないが、相手国に尽くしたり相互交流を進めた人物の業績を愛する心を涵養した方が、同プロジェクトは成功しやすいのではなかろうか。

 対馬藩において朝鮮との外交にあたり日朝修好に尽くした雨森芳州や、日本人でありながら朝鮮半島の民族の尊厳を守ろうとした柳宗悦、日本の儒学の発達に大きな影響を与えた韓国人学者李退渓、さらには日本と中国、韓国と中国の間にも相手国に尽くした人がいると思う。そういう人の思想や業績を顕彰し学ぶことが、同プロジェクトがうまくいくには有効でなかろうか。

 このような工夫をしても、5年や10年では同プロジェクトがうまく行かない可能性も十分考えられる。そのことも想定して、アジアや世界全体のために良心に忠実に考え実践した人を、学校教育で教えることも視野に入れた長期計画があった方がよいだろう。

 とても実現できないと思われることでも、時代や環境が変わればできるようになるかもしれない。藩に分かれて戦っていた戦国時代の人々は、今日のように日本全体で一つの共通の歴史教科書が使われることなど、思いも及ばなかったに違いないのだから。

2006/03/15

 「同じ戦うなら目標を立ててやるんだ」と偉人は言う。

 一朝一夕には実現できない目標でも、設定するとアンテナが張られ情報が集まり出す。普段と同じ道を歩いていても、目標に関連したことは、見落としていたことが見えてくる。磁石の上に紙を置き、その上に鉄粉をまくと、鉄粉は秩序正しく磁場の磁力線のパターンを描き出すように、いずれはやりたいと思っていたいくつものことが、目標を中心として優先順位がついて行動計画が立てられ、今日すべきことが明確になる。夢に方向を与える目標設定の力は強烈だ。

 私は、大人、特に子どもの親が、自分の人生や職業について子ども達に多くを語ることが、目標設定を促すうえで効果が大きいと思う。

 東京都町田市の中学校では学校を挙げて、保護者や地域の人材を「社会人先生」として学校に招き、教科の授業や道徳、人生講話等をしてもらう試みをしたという(4年間で100人以上)。すると、落ち着きのない子も問題傾向の子も、姿勢をピッとし、目を輝かせて傾聴したという。講師がわが子のいる教室で授業をしたとき、親子の絆が格段に深まった例がいくつもあるという(読売新聞、平成16年1月13日)。
 
 中学、高校では、14歳の挑戦プログラム(中学2年生が事業所や福祉施設など実際の大人社会の中に身を置き一週間働くこと)や、教師・父兄・生徒の三者による懇談会等が企画されているが、目標設定を促すという意味では、「社会人先生」による講話は、これらに優るとも劣らない方法ではなかろうか。

 なぜなら、「社会人先生」は子ども達が将来なる家庭人や職業人の一つの実例であるので、複数のそのような具体例に接していく中で、身につけたい人格や選びたい職業が次第に明確になっていくと期待できるからだ。ゴールイメージ(達成した状態のイメージ)が明確になれば、目標設定しやすくなる。

 目標設定を促すうえで、感動の力も強力だ。

 愛知県豊川市の私立豊川高校の数学教師、宮本延春(まさはる)氏は、中学時代オール1の通知票をもらい、「やっぱりおれはバカなんだ」と自分を見放した。就職して働いていた23歳の時に、ある人から「光は波か、粒か」をテーマにアインシュタインの理論を解説したテレビ番組の録画ビデオを渡され、見終わったときには味わったことのない気持ちでいっぱいになったという。感動した宮本氏は、「大学に入って物理学を研究する」という目標を設定した。九九のマスターや小3用のドリルから始め、定時制の高校で学び、名古屋大学理学部に合格したという。学部と大学院で宇宙物理学を専攻し研究に没頭したが、自分の経験が一番役に立つのは教師だと思い立ち、母校の教壇に立つようになったという(読売新聞、平成18年3月5日)。

 子ども達に感動を与え、ゴールイメージを持たせることができれば、自分から目標を設定して歩き始める。「勉強しろ」と言う必要は全くない。

2006/02/15

 人間は「子どもを作る」ことはできない。建物の設計図を作るように、身長や体重、瞳の色や鼻の形などの設計図を作っても、その通りには生まれてこない。人間にできることは、子どもが生まれるきっかけを作ることだけで、どんな子どもが生まれるかは分からない。人間(その子ども)に備わっている遺伝的プログラムに従って生まれてくるのを見守るだけである。

 遺伝的プログラムによって生物は発育し学習していくが、その様相は生物の種によって大きく異なっている。日高敏隆著「人間は遺伝か環境か?遺伝的プログラム論」(文藝春秋)によれば、ネコのメス親は子どもができるとオス親を追い払ってしまい、子どもに近づかせず、ニワトリも、受精卵を暖め、かえったひなを育てるのはメス親だけで、オス親はどこかへ行ってしまうという。それに対して人間は、恐ろしい肉食動物がいる地球上で生き続けてこられたのは、少なくとも百人、二百人という相当に大きな集団を作って生活し、その中で学習し合っていたからではないかという。それぞれの動物の生き方に対応する、このような遺伝的プログラムの違いは、もともと決まっているようだ。

 最近、世帯主概念を廃止し社会保障制度も税制も個人単位にしようという主張がなされたり、学校で使われる家庭科の教本で、父親と子ども、母親と子どもからなる家庭もあるとあえて記述するなど、父親と母親と子どもから成る形態の伝統的な家庭の価値を重視しない傾向がある。そのような考え方は、人間に備わっている遺伝的プログラムに逆行することになるのではなかろうか。

 遺伝的プログラムはどのようにできたのかは分からない。米国で浸透しつつある「インテリジェント・デザイン論」を支持する科学者であれば、宇宙自然界に働くデザイナーがかかわっていると言うだろう。西行法師も「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」と何か偉大な者の存在を感得し、感謝や感動の思いを表現している。

 親や教師は子どもに、「主体的に生きろ」「自分らしく生きろ」と言うが、多くの子どもにとっては難しいことなのではなかろうか。男の赤ん坊は大人の男になるように遺伝的にプログラムされており、女の赤ん坊は大人の女になるように遺伝的にプログラムされているのだから、「男らしく生きろ」とか「女らしく生きろ」と言ってもらった方が分かりやすいのではなかろうか。

 「何か偉大な者」や「自然界に働くデザイナー」の前に、人間は微々たる存在でしかない。デザインされた者はデザイナーの前で何も言うことはできない。いわば、人間は主体の前に立つ対象にすぎない。そうであれば、むしろ徹底的に対象としてまず生きてみてはどうだろうか。真理や賢人の指導に従うのである。対象として十分生きるほど、その後主体的に生きることができるのではないか。

 そのような生き方の延長線上に、ニートや引きこもり等の問題に対する処方箋も、見えてくるような気がする。

2006/01/15

 社会教育家の田中真澄氏の講演を聴いたことがある。昔は定年退職して「余生」(余った人生)を数年過ごしてあの世へ行こうと考えている人が多かったが、平均寿命が長くなった今日、そう簡単には死ねないとして、各自が自分の辞書の「余生」のことばを塗りつぶし、「生涯現役」のことばを書き加えることを提案しておられた。

 百歳近いお年でも元気に活躍しておられる人から、学ぶことは多い。

 ときたまお訪ねしご指導いただいている、上市町名誉町民の清水美晴先生(97歳)の人生観は素晴らしい。人生は感動のドラマであるとし、数年前に出版された「人は感動によって人となる」(文芸社)は書店で平積みにされていた。

 健康の秘訣は食欲、長生きの秘訣は考えることだという。食欲を維持するために腹八分を厳重に守り、たばこも酒も飲まない。野菜中心の生活で栄養失調となり肉と魚を食べて元に戻ったこともあるという。90歳を過ぎてから心臓と肺が90年間も一秒も休まず働いていることに感動し、心臓を助けるために梅と蜂蜜の特性飲料を常飲し、肺を助けるために今も山歩きをしてよい空気を吸っておられる。

 「おいしい食事をありがとう」と妻に言って「今日も健康でよかったね」と言われて感動する。小さいことにでも感動すれば、心の中に気が動き、やる気が出てくる。人生最後の幸不幸は、健康と日々の感動によって蓄えられたエネルギーの多少によって決まるという。

 80歳、90歳は、これからの計画を立てるのに、ちょうどよい年とのこと。そして、息が切れるまで活動し、立ったままで死ねば人の世話にもならない。32兆円の医療費の内、65歳以上の高齢者が使っている16兆円も不要になると言われる。「立ったまま死ぬ」というのが町の老人の合い言葉になった、それもまた感動だという。

 88歳の時に初めて脚本作りに挑戦したり、ミリオンセラー「生きかた上手」(ユーリーグ刊)の著書等で有名な日野原重明氏(94歳)は、「長生きするためには、5年、10年先のプランを作るべきです。そうすると、それが実現するまで死ねません。私も先々のプランでスケジュール帳を埋めています」と言われる。

 弱輩50歳の私は、昨年、ある異業種交流会に出て、新年の抱負を述べ合った。「2055年2月28日の百歳の誕生日に老衰死します。それまで毎月ニュースを書きます。620号を出して、丁度百年生きて死にます」と宣言した。

 先日知り合いの社長さんが送って下さった「職場の教養」((社)倫理研究所)という冊子を見ていたら、122歳の長寿を全うしたフランス人女性の話が出ていた。元気で生活する秘訣は「いつも好奇心をもって生きること」と「笑うこと」とのことだ。毎月ニュースは860号出して、120歳で老衰死することに変更した。