Skip to main content.
*

Archives

This is the archive for January 2010

2010/01/15

 有名な学説や一般に普及している考え方が、必ずしも正しいとは限らない。その背景を考えることが大切だ。

 血液検査をしたらコレステロール値が基準値の220を超えているということで、医師が薬を処方してくれた。本(浜六郎著『コレステロールに薬はいらない』角川書店)でその薬を調べてみたら、危険・有害な薬剤だから使用しないようにと書いてあった。他の本(松本光正著『「健診病」にならないために』日新報道)によれば、「白人は日本人の五倍も六倍も心臓疾患があり、そういう心臓疾患を予防する数字として220という基準値は意味があるかもしれないが、日本人の心血管系の病気は白人に比べてずっと少ないのでそういう数字をあてはめることには無理がある。むしろ250~260くらいの値の方が健康に良い」という趣旨のことが書いてある。

 コレステロール低下剤を販売する製薬メーカーにしてみると、基準値が220でなく240ということになると、薬を飲ませる対象の高脂血症の患者が1000万人減ってしまうという。基準値の値一つで売り上げが大きく変わるのだ。現行の基準値に、利益に関連ある団体の思惑が関係していると考える方が自然ではなかろうか。

 テーマは変わるが、人間の起源に関する学説は、進化論と、創造論が代表的だ。日本では、学校教育の理科の時間に進化論が登場し、創造論は教えられていないから、進化論が科学的真理と信じられている。しかし、進化論は数百個の仮説がすべて正しい時に初めて成立するひとつの考え方に過ぎない。

 しかも、脊椎動物の胚の類似性を示す絵がウソであることが分かったり、ダーウィンの系統樹が証拠による図ではなく理論の幻影に過ぎないことが分かるなど、進化論の正当性を支えている代表的ないくつもの主張が虚偽であることが明らかになってきた。

 さらに、アメリカの生物学会では、ダーウィン進化論に対する疑念を表明すると科学界から非難され、村八分的いじめにあい、最後は追放されるということがしばしば起こっているという(ジョナサン・ウエルズ著『進化のイコン』コスモトゥーワン)。純学問的な問題意識として人間の起源について論争が行なわれているのではなく、既得権益を持っている学者たちが自分の職場を守り勢力を誇示するために学説を利用しているのである。

 学問的装いをした考え方だからといっておいそれと信じることはできない。必ずその背景を考察する必要がある。それが面倒な人は、自分の直感を信じたら良いと思う。その方が、様々な社会的関係の中で発言する名誉ある人々の意見をうのみにするよりも賢明だ。

 体の細部まで思いを巡らし自分は健康だと思えば、自己責任において薬は飲まなければいい。人間はご先祖様に対しておのずと頭を垂れる存在だと思うが、猿を目の前にしてそういう感情が沸き起こってこないのであれば、進化論を信じない方が自然な考え方だ。
 社会権的基本権は、国家に対して、積極的な施策を要求する権利です。生存権、教育を受ける権利、勤労の権利、労働基本権があります。

生存権

 憲法25条(1項…すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 2項…国は、すべての生活部面について、社会福祉及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない)の定める生存権の法的性質については、判例・通説の見解が分かれます。

 判例はプログラム規定説(国の政治的・道義的目標を示すにとどまる規定という意味)をとります。政党の公約みたいなもので、実現できなくても「法的責任」は生じません。例えば、国が母子3人の生活費を月5万円という生活保護のための立法をし、その不合理性が明らか(低額すぎる)であったとしても、プログラム規定説では「違憲」の問題は生じません。せいぜい、生活保護法の立法趣旨に照らしての「違法」の問題が生じうるだけです。
通説は、生存権は「抽象的権利」であるとします。国民に、健康で文化的な最低限の生活を営む上で必要な立法を要求する権利があるものの、この権利は抽象的なものであるから、国家に対する強制力がありません。生存権が、立法により実現され、具体的な請求権として定められた場合に、その立法に基づいて、裁判所に権利侵害の救済を求めることができます。この説の根拠は三権分立構造です。

教育を受ける権利

 憲法26条(1項…すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。第2項…すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。普通教育は、これを無償とする)については、「教育権の所在」の問題が最重要です。
①国家教育権説
 教育内容を決定するのは国家であるという考え方です。現場の教師や親ではなく、国が教育内容を決めます。なぜなら、教育は「私的」なものではなく、国には「公教育」を実施する権能があるからです。
②国民教育権説
 教育内容を決定するのは、現場の教師や親であるという考え方です。教育は本来私的なものであるというのがその理由です。国家の権能は、教育を達成するための諸条件を整備することであり、学習内容の決定ではないと考えます。

 結局のところ、教科書検定の問題などについて、文部科学省の教育内容への関与が、どの程度まで認められるのかということが、両説の対立の背景にあります。

 現在では両説の対立については「折衷説」で決着がついています(判例・通説)。「教師に一定の教育の自由が認められるが、その自由は完全な自由ではない。国には教育内容について必要かつ相当な範囲で決定する広範な介入権がある。」のように、両説の顔を立てて間をとるのが折衷説です。