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2006/10/15

 福岡県で、先生と他の生徒たちがいじめた生徒が自殺するというぞっとするような事件が起きた。いじめに加わったある生徒は、「先生がしているからいじめてもいいと思った」と述べていた。「他者に親切に」という規範と「先生の言うことに従う」という規範が対立する状況下で、生徒が正しい判断を下すことは容易ではない。規範が生徒の中で内面化(言われたから守るというのではなく、意義と価値をよく理解し実際に行動に移せること)されていてこそ、それが可能となる。

 安倍晋三首相は、「すべての子供に高い学力と規範意識を身につける機会を保証するため、内閣に教育再生会議を設置する」と述べた。しかし、生徒に規範を内面化させ、規範に基づく行動を習慣化させるためには、徳目を理解させる現行の道徳教育だけでは不十分だ。宗教的情操の涵養が効果的だ。
 
 宗教的情操は、自分を超えた存在を意識することが契機となって育つことが多い。西行法師の「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」の感懐がその意識を端的に表現している。あるいは、人間は誰しも世の中に生まれ出ることを計画して誕生した者はおらず、気がついたら存在していた結果的な存在なのだから、自分をあらしめた原因に思いをはせ、自分は被造者であるという意識を持つことで、宇宙に神秘を感じ、人に謙虚になっていく。

 私は、教育現場で規範意識の低下が指摘される原因の一つは、現行の教育基本法にあると思う。

 宗教教育について触れた9条では、「宗教に対する寛容の態度は教育上これを尊重しなければならない」とあり、あたかも、「宗教は良くないものだが、中にはそれを心の拠り所としている人もいるので、寛容に接しましょう」とでも言わんばかりだ。そのせいか、今日では、宗教的知識を有し、生徒の宗教的情操を育てることのできる教師はほとんどいなくなった。

 また、教育基本法9条2項「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない」で禁じているのは、宗派教育であって宗教教育ではない。宗教的情操を養うためにいくつもの宗教の特色や教祖の人生を情感豊かに教えることは、構わないどころか必要だと思う。具体的な宗教を実例として教えないで、宗教的情操を涵養することなどできないからだ。

 首相補佐官でかつ教育再生会議の事務局長となった山谷えり子氏は、「日本の教育改革」有識者懇談会(通称「民間教育臨調」)のメンバーとして、「宗教的情操の涵養」を明記した「新教育基本法案」の作成に関与している。首相に対する山谷氏の補完機能が働けば、教育の再生が期待できる。

 学校教育現場において、宗教的情操の教育ができる教師が輩出することこそ、彷徨する現代の若者を救う特効薬であり、現代日本における最重要の課題だと私は思う。

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