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2006/07/15

 「命あっての物種」(何ごとも命があってのことで、命がすべての元となる)ということわざがある。過労死のニュースを聞くと、このことわざはその通りだと思う。仕事のしすぎで命を落とすなんてもったいない。
 しかし、同じことわざでも用いられる文脈が違うと、異なる印象を持つ。

 マザーテレサは、死を避けることができない人のために「死を待つ人の家」を作り、生まれてこのかた薬すら飲ませてもらったことのない貧しい人々に、食事と薬を与え、看護をしてあげた。合理的な考え方に慣れている日本人の中に、この話を聞いて「医薬品が不足している状況であれば、死ぬと分かっている人ではなく生きる望みのある人を優先的に看護してはどうですか」と尋ねた人がいるという。

 しかし、マザーテレサの活動は、死にゆく人の手を握り、「あなたも私たちと同じように望まれてこの世に生まれてきた大切な人なんです」と話しかけることであるという。生死を超えて存在自体を無条件に愛する精神の前では、「命あっての物種」のことわざは色あせてしまう。

 自国の勝利や独立のために民衆の先頭に立って闘い、その結果生命を落としたフランスのジャンヌダルクや韓国の柳寛順も、生命以上に自由や民族の誇りを優先させたのではないかと思う。

 人は使命感を持つと寝食を忘れてそのことに取り組む。「使命」ということばは「命を使う」と書く。命はより高
い価値を実現する手段として用いてこそ、その価値を最大限に発揮することができるのではないか。

 生徒が自殺したり同級生を殺したりすると、学校の校長先生が全校生徒の前で「生命は大切です」と訴えるが、生命自体の価値を訴えても生徒の心に響かない。「あなたが死ぬと家族や友人や先生など、あなたを知る人が悲しむ」ことを伝えると共に、「生命を用いて自由や愛という価値を実践できるのに、生命がないとそれが実践できなくなる。だから生命は大切です」というメッセージを伝えてこそ心に届くのではないかと思う。

 かつて自己啓発プログラムの販売の仕事に従事していたとき、「生きるために売るのではない。売るために生きるのだ。」という標語が会社に掲げられていた。そのプログラムは目標設定と行動計画を立てることを支援するもので、真面目に使えば確実に充実した人生を送ることができるとして、販売員は仕事に誇りを感じていた。そのときは気がつかなかったが、今になって思えば、「生きるために売るのではなく、売るために生きる」というのは、生命を超越して使命に生きることと同義なのだと感じる。

 定年退職を迎え、することがなくて時間をもてあましている人がいると聞くが、生きること自体を目的としてきたことの結果ではないのか。「自分の生命があろうがなかろうがこれは実現したい」という使命感を持って全力投入できれば、充実した人生といえるのではなかろうか。

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