しかし、今の私の考え方は変わった。看板に書かれた内容に完全に賛同するようになった。この間、二児の父となったということもあるが、人を動かすには論理ではなく情に訴えるのが効果的であると思うようになったからである。
学問で用いられる論理は、基本的には信頼できると思う。しかし、社会生活において人間が用いる論理は、基本的には疑ってかかるべきだ。なぜなら、自己正当化のための手段として用いられることが多いからだ。
ベストセラー「国家の品格」の著者、藤原正彦氏の講演会に参加したところ、「私は人を殺してもよい理由を50くらいは並べることができる。そしてその後に人を殺してはいけない理由を50並べることができる。論理とはその程度のものです」ということをおっしゃっておられたが、同感だ。
「なぜ人を殺してはいけないか」と問う青少年に対して、私は以前その理由を論理的に説明してやるべきだと考えていたが、「それではあなたは殺されてもいいのか」と逆に問いかけることが適切な対処法だと思うようになった。
愛国心を学校教育で教えるべきかという議論がなされている。「教えるべきではない」と主張している人の中には、「憲法19条の思想及び良心の自由に違反することになる」と主張する憲法学者もいる。憲法という範囲の論理としてはそのとおりかもしれないが、憲法は時代とともに変わるものではないのかと問い返したくなる。
反面、厳密な論理の上では完全でないとしても、「国に愛され、国に生命・財産を守ってもらっているのだから、国を愛し国に恩返しをするのは当たり前だ。あなたとあなたを生んだ親と先祖が、国によって愛され生かされてきた歴史の連続性に敬意を払わないで、あなたが存在する根拠を肯定的に説明することができるのか」というような、情緒を加えた論理の方が説得力を感じる。
私は純粋な論理を否定するものではない。ただ、人間の精神生活を豊かにするために論理を用いようとするのであれば、愛と生命と存在等の実存的関係を踏まえた、情緒的、心情的な論理(私は「心情論理」と呼んでいる)であってこそ、人々の心にストンと落ちて納得されるのではないかと思う。
多くの宗教で説かれる黄金律(「自分の望むことを人にせよ」「自分の望まないことを人にするな」)や、親孝行、郷土愛、祖国愛、人類愛等、普遍的な人としての生き方は、このような心情論理として語ってこそ、青少年の生きる力となるのではなかろうか。
Posted by oota at 14:10:00. Filed under: 随想・評論(平成18年)
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