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2006/02/15

 人間は「子どもを作る」ことはできない。建物の設計図を作るように、身長や体重、瞳の色や鼻の形などの設計図を作っても、その通りには生まれてこない。人間にできることは、子どもが生まれるきっかけを作ることだけで、どんな子どもが生まれるかは分からない。人間(その子ども)に備わっている遺伝的プログラムに従って生まれてくるのを見守るだけである。

 遺伝的プログラムによって生物は発育し学習していくが、その様相は生物の種によって大きく異なっている。日高敏隆著「人間は遺伝か環境か?遺伝的プログラム論」(文藝春秋)によれば、ネコのメス親は子どもができるとオス親を追い払ってしまい、子どもに近づかせず、ニワトリも、受精卵を暖め、かえったひなを育てるのはメス親だけで、オス親はどこかへ行ってしまうという。それに対して人間は、恐ろしい肉食動物がいる地球上で生き続けてこられたのは、少なくとも百人、二百人という相当に大きな集団を作って生活し、その中で学習し合っていたからではないかという。それぞれの動物の生き方に対応する、このような遺伝的プログラムの違いは、もともと決まっているようだ。

 最近、世帯主概念を廃止し社会保障制度も税制も個人単位にしようという主張がなされたり、学校で使われる家庭科の教本で、父親と子ども、母親と子どもからなる家庭もあるとあえて記述するなど、父親と母親と子どもから成る形態の伝統的な家庭の価値を重視しない傾向がある。そのような考え方は、人間に備わっている遺伝的プログラムに逆行することになるのではなかろうか。

 遺伝的プログラムはどのようにできたのかは分からない。米国で浸透しつつある「インテリジェント・デザイン論」を支持する科学者であれば、宇宙自然界に働くデザイナーがかかわっていると言うだろう。西行法師も「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」と何か偉大な者の存在を感得し、感謝や感動の思いを表現している。

 親や教師は子どもに、「主体的に生きろ」「自分らしく生きろ」と言うが、多くの子どもにとっては難しいことなのではなかろうか。男の赤ん坊は大人の男になるように遺伝的にプログラムされており、女の赤ん坊は大人の女になるように遺伝的にプログラムされているのだから、「男らしく生きろ」とか「女らしく生きろ」と言ってもらった方が分かりやすいのではなかろうか。

 「何か偉大な者」や「自然界に働くデザイナー」の前に、人間は微々たる存在でしかない。デザインされた者はデザイナーの前で何も言うことはできない。いわば、人間は主体の前に立つ対象にすぎない。そうであれば、むしろ徹底的に対象としてまず生きてみてはどうだろうか。真理や賢人の指導に従うのである。対象として十分生きるほど、その後主体的に生きることができるのではないか。

 そのような生き方の延長線上に、ニートや引きこもり等の問題に対する処方箋も、見えてくるような気がする。

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