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2004/07/15

 「うそも方便」と言う。確かに相手に害や不利益を与えないのであれば、自分の事情や経緯をことさら詳細に述べるのは煩わしくて、分かりやすい別のことで説明してしまったりすることがある。このようなことは、厳密に言えば「うそ」になるが、あまり気にする必要はないのではなかろうか。後で、真実でないことが相手に分かっても、「あなたに余計なことで煩わせたくなかったから、そのように言ったのです」と説明すれば納得してもらえるだろう。日常生活の潤滑油としての「方便」である。

 しかし、方便はいつも潤滑油として用いられている訳ではない。保身や権利主張のために論理のすり替えとして、堂々と用いられている「方便」もあるように思う。

 一つは「見解の相違」という言葉だ。大企業が税務署から、脱税の指摘をされた時、「課税の方法がそのようであるとは認識していませんでした。このように考えて、あれだけの額を払ったのです。見解の相違です。そのようにお考えであれば、税務署の指導にはすぐに従います」と言って、難を逃れようとする。

 「ゆとり教育」も疑問だ。子どもに心身のゆとりを持たせてあげようということ以上に、教師の労働条件の改善(週休2日制の実現)のために、「子どものため」という錦の御旗を振っている、と指摘する人が多い。最近、計算や漢字などの基礎学力は詰め込んででも勉強させた方が、子どもたちの心にゆとりができるという学者の研究発表が出始めた。

 週5日制への移行が、本当に子供たちのゆとりのためになされたのであれば、このような研究発表を受けて「やっぱり元に戻そう」という動きが容易に取れるはずであろう。しかし、週5日制への移行の本音が、教える側の労働条件に関係したことであれば、得た権利を失うとして、容易に元に戻せなくなり、話が複雑になってしまう。

 もう一つ気にかかるのが、「自分らしさ」という言葉である。たとえば、学校教育を受けた後の大人が、「自分らしさ」を発揮できる職業を選ぼうとするのは、よいことだと思う。

 しかし、若者がただ楽に過ごしたいから、ということでだらしのない服装をしたり、目的意識や将来設計がないまま、フリーターとして長期間過ごすことが「自分らしい」と主張するのは、自分に対する批判をかわすための口実にすぎないこともあるのではなかろうか。結果として人格や能力を磨く機会を失うことにもなりかねない。

 いわんや、小中高校では「自分らしさ」を強調すべきではないと思う。武道・茶道などでは、一定の型を守り、それをマスターしてから破り、既存の型から離れていく(守破離)という過程で上達していく。小中高校では、規律を守らせ、基礎知識を理解させるといういわば知情意のバランスの取れた人間の基本型を作ることが、将来、高次元の創造性豊かな「自分らしさ」が発揮できる素地を作るのではなかろうか。
「便利なことば」には注意が必要だ。

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