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2003/08/15

 最近、「自己決定権」ということばをしばしば耳にする。個人の人権や尊厳を守るために、他者から判断を押しつけられることなく、自分で判断して決定するという積極的な意味を持つ反面、それが主張される文脈や場面設定がふさわしくないと、個人の利己主義が無制限に認められてしまうような怖さも併せ持っている。いわば両刃の剣のようなことばだ。

 福祉の分野における自己決定権の尊重は、人類愛の発露としてその人の尊厳を最大限に尊重しようという場合が多いように思う。

 例えば、痴呆の進んだ人であっても人格はあるので、少しでも能力がある限り、その人格の発する自己決定を可能な限り尊重していこうとする。

 ところが、「情報を自由に得られるようにして、どのように行動するかは子どもの自己決定に任せよ」という主張が、教育現場で言われ始めている。なかには、13~14歳にもなれば判断力はつくのだから、いつどこで誰と性交渉を持つかは大人はとやかく言わない方がいいとする「性的自己決定権」まで認めよと主張する学者もいる。

 米国では60年代から70年代にかけて、何が正しく何が間違っているかは各自が決めることだとする「自己決定権の尊重」や「価値相対主義」が蔓延し、子どもたちのモラルが崩壊し、少年非行が増加した。子どもたちは判断をゆだねられれば正しい選択をしてくれるだろうと教師たちは思ったのだが、実際はそうではなかったのだ。米国ではその反省に立ち、今日では正しいこと、善であることを皆が共通に分かち合い「価値の再構築」を行っていこうという流れに変わってきた。しかも、学校だけでなく家庭、企業、地域などのコミュニティ全体で「人格教育」に取り組み成果を上げているという。

 例えば米国のある市では、市議会がコミュニティ全体で人格教育を推進することを決定し、市長をはじめ、経済界、スポーツ界、教師、保護者の代表を委員とする人格教育審議会を設けたという。学校では月ごとにそれぞれの徳(9月「責任」、10月「尊重」11月・12月「思いやり・同情」1月「粘り強さと努力」2月「信頼」3月「公正と寛容」4月「勇気」5月「市民の義務」)に合わせた教育を行い、市長はマスコミのインタビューで人格教育の重要性を強調し、商店や企業も毎月の標語を掲げ、地元テレビ局も人格に関する番組を放映したという。(雑誌「圓一」NO160、NCU―NEWS発行)

 私は、子どもの「自己決定権」を無制限に尊重することは、多くの場合子どもを尊重することにはならないと思う。体験から学ぶことの大切さは分かるが、人生の致命的な失敗に至らないように、また充実した人生を送れるようにアドバイスすることは大人の責任でもある。
「自己決定権」ということばを使うときは、どういう文脈で使われているかを良く検討することが大切だと思う。

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