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2017/01/15

 今も昔も人間社会では対立が起きてきた。個人の次元では各人が意思と欲望を持ち、民族や国家の次元では帰属意識や誇りを持つ以上、仕方がないことだ。しかし、戦争の愚を人類は歴史を通して学んできており、和解の努力を続けてきた。オバマ大統領が広島を、安部首相が真珠湾を訪問し、「和解」の可能性や力に言及したのは、人類の方向性を示している。

 誤解による対立の場合は、簡単に和解に至ることがある。姉妹が一つしかないミカンをめぐり所有を主張した時、一方が美容のためにミカンの皮を、他方が栄養補給のためにミカンの実を欲しがっていることが分かれば、解決は簡単だ。兵士が武器を持ち対峙する民族的・国家的対立の場合は簡単にいかない。しかし、戦場で殺し合いをしていてもクリスマス停戦があるのを見ても、本当は無益な戦争などしたいと思っていないことが分かる。

 30代の若さで「世界が尊敬する日本人25人」(ニューズ・ウイーク日本版)に選出された瀬谷ルミ子氏の職業は武装解除だ。アフガニスタンなどの世界各地の紛争地帯に出向き、兵士を除隊させ武器を回収する。しかし、紛争地に兵士以外の職業がない場合、除隊させることは職業を奪うことになる。武装解除後の仕事のための職業訓練や生活構築も併せて進めて行く現実的視点が不可欠だ(朝日出版新聞『職業は武装解除』瀬谷ルミ子著)。

 和解交渉は裁判でも行われる。離島に赴任した若い裁判官が奮闘するテレビドラマを見たことがある(『ジャッジ〜島の裁判官奮闘記〜』)。現地調査や資料研究により、とても創造的な和解案を提示する様子が描かれており、裁判官のイメージが一変した。判決と和解の件数の上でも、以前と違い現在では、和解で解決する事件は判決よりも多くなったという(講談社現代新書『和解という知恵』廣田尚久著)。「和解の力」が見直されているのだろう。

 前掲書著者の弁護士廣田氏は、金銭の貸し借りやマンション建設による日照権侵害をめぐるトラブルの解決を任され知恵をめぐらす。そして、「和解」とは「譲歩」や「妥協」で行うものではなく、「規範」を使ってするものだと主張する。日本では「和解学」や「紛争解決学」という学問の歴史は浅く、1990年代に考えられ始めているようだ。瀬谷ルミ子氏も紛争解決学の修士課程で学んだのはイギリスの大学だった。

 20~30年ほど前に核に反対する人々が反核デモをするのを見て、感情の表出だけでは目的は達せられないだろうと思ったことがある。欧米のように判決で白黒を決するより調停での解決を求めることの多い日本でこそ、精緻な「和解学」が生まれるのではないか。

 廣田氏が言うように、和解で中心的役割を果たすのは言葉だと思う。同氏の「言葉を届け合う幸せ」は含蓄のある素敵な言葉だ。相互に理解していることを伝え合い、知恵を出し合うことは人間の崇高な使命だ。

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