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2012/06/15

 57歳の私は、生まれた家の便所は汲み取り式だった。下をのぞくと糞尿の中にウジが見え、便が落ちると汁が跳ね返ってきた。高校生のときに引っ越しした家では水洗式で、匂いもなく快適で究極のトイレと思った。その後、排便後紙で拭ききれない残存物を、お湯で洗い流してくれ、さらには温風で乾かしてくれるトイレが現れた。そこまでしてくれるのかと感激した。これ以上何を望もうか。快適さの劇的な変化を忘れることなく、現状に感謝こそすれ、トイレに不満を持つことなどあり得ない。

 人類の歴史は自由を求める闘いの連続だった。最低水準の衣食住で良いから家族と平和に暮らしたいという庶民のささやかな願いは、ときとして専制君主、封建領主や教会・寺院等の宗教的権威によって奪われ、それに対抗して権利と利益、そして自由を求めてきた。そして今日、少なくとも民主主義国においては、庶民を弾圧してきた権威や権力はもはや庶民の敵ではなくなり、庶民のささやかな願いは侵されることはなくなってきた。

 しかし、それで人々は満足することなく、今度はより多くの欲望の解放を求め始めた。豊かな者は市場ルールに従って得た富は正当に得たものだとして利益を正当化し、貧しいものは労働時間は自分の方が長いとして利益を主張する。自分が肥えているのはファーストフード店のせいだし、ガンになったのはタバコのメーカーのせいだとして損害賠償を求める。モンスターペアレントは、学校での子どもの席替えにまで口を出して権利を主張し始めた。

 100~200年前の状況に比べて自分の生活は大きく改善されたことを思い起こせば感謝こそすれ、文句を言うことはないはずなのに、現実はそうではない。

 カエルを、水を入れた鍋に入れて弱火で温め始めると、最初はカエルはいい湯だと気持ちよく過ごしているが、次第に水温が上がってゆで上がって死んでしまうという。外界の危機が緩やかに変化し、それに対処することを怠ると致命的な状況に立ち至ることを象徴的に表現し、危機への対処を促すときに用いられるたとえだ。

 前述のトイレの例や欲望の解放の話は、外界の危機ではなく環境がよくなる話であって、一見ゆでガエルの教訓は無関係のように思える。しかし、最初の状況を覚えていて、外界の変化を敏感に認識すれば、正しい対処ができることを教えてくれるという点では、危機の変化のときと同様に、教訓とすることができるのではなかろうか。

 50年、100年のスパンで見ると、大きな変化と言える現象でも、日々現実問題に対処しながら生きている生活者にとっては、微小な変化の連続としか認識できないことが多い。昔を振り返ったり、歴史書に親しみ、歴史的な視点から物事を見られるようにしておけば、正しく認識できたり、現状に感謝できるようになるのではなかろうか。

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