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2011/11/15

 何かを学んで知識を増やすとともに、知恵も身につけたい。

 例えば歴史を学ぶ目的は知識を蓄えることではなく、学びから教訓を得て現代に生きる自分の生き方を豊かにする知恵を得ることにあると思う。カレーライスに例えれば、知識とはジャガイモ、人参、玉ねぎのような一つ一つの野菜であり、知恵とはそれらが混在して生み出す絶妙な味のようなものだ。良く煮込んであって野菜の形が見えないからといって、野菜が使われていないのではない。見えないながらも絶妙の味を生み出すのに貢献している。同じように、人はさまざまな学びから知識を得、その過程で気づきを深めることができれば、ひとつひとつの知識は忘れても、智恵を持つに至ることができるのではなかろうか。

 ある会合で、人間の本性は善か悪かが話題になった。博覧強記とあだ名されるA君は、孟子、荀子、ソクラテスやマキャベリ等の言葉を紹介した。しかし、参加者の一人から「君の知識が豊富なのは分かったが、君自身はどう思うの」と尋ねられた時、自分の意見を言えなかった。一方B君は、他者の意見を紹介することはしなかったが、「本性は善だと思う。人は人の心を傷つけたり悪事をすると良心がうずいて苦しむけれど、人の役に立つことや善行をしたからと言って邪心の力が働いて苦しむということは通常ないからだ」と言った。B君の発言が終わるや、知恵がもたらす心地よい沈黙が広がった。

 それでは、知識を得、自分の体験と結び付ける中でそれを知恵とするにはどうしたらよいだろうか。私はフランスの画家のゴーギャンが南太平洋のタヒチで描いた絵のタイトル「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」の質問を常に頭の隅に置きながら生活する中で、天から恵みのように与えられることがあるのではないかと思う。悠久な人間歴史の中に存在する自分という存在の実存的な意味を、宗教的・哲学的に考察することで、共に生きる同時代の人々との間で豊かな人格的交流がしやすくなる。

 私はそのためには、古今東西慕われている聖人の活動をより多面的に考察することが大きな力になると思う。イエスや釈尊の功績は良く論じられるが、彼らは何を悩んでいたのか、彼らがしようとしてできなかったことは何か、彼らがしようとしたことが全部できていれば人間は完全な幸福になれたのか、という点についてあまり論じられていないように思う。

 一方、イエスや釈尊は天に通じていたとすれば、彼らの役割はその時代の課題を解決しようとする「使命」にとどまらず、歴史の初めから存在している「天」の願いに呼応しようとする「天命」と言えよう。「なにごとのおはしますかしらねども かたじけなさに 涙こぼるる」(西行法師)という天の恵みを実感し、さまざまな学びから天の恵みの詳細を知る(知恵)ことができれば、天の願いに自分の命をお返しする(天命)ことができるかもしれない。

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