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2011/03/15

 昔は、小さい子どもは家のお手伝いをして小銭をもらい、近所の駄菓子で顔なじみのおばさんに声をかけられながら小さな買い物をした。就職して得た初任給で、育ててもらった感謝の気持ちを込めて親のために贈り物をした。

 今は、近くのコンビニエンスストアやショッピングセンターで、自分の欲しいものを不労所得で得たお年玉で買う。売り手との人格的交流のない場における消費の主体として、売り手と対等の立場で「等価交換」という社会活動を繰り返していると、その後、家庭、学校、地域、会社においても、そのような発想でふるまいかねない。

 学校の授業に興味がなかったり役に立たないと思えば、その授業は、忍耐して黙って聞くという「労苦」の価値と「等価」ではないと感じ、席を立って歩き回ったり、教室を出て行ったりする。それは「行儀が悪い」とか「不真面目」という徳性の問題というよりも、幼いころから刷り込まれ植えつけられた「等価交換」を求める消費の主体としての態度に忠実であることの結果の現象と見ることができる(諏訪哲二著『オレ様化する子どもたち』、内田樹著『街場のメディア論』参照)。その結果、「退屈な授業だと思っていたが、終わりまで聞くと面白かった」と気づく喜びを得たり感謝する機会までも奪っているとすれば、大人は子どもたちを「便利」のわなに陥れてしまっていると言えないか。

 まして、直接的に人を便利に使うことは要注意だ。金銭は金貸しから借りるのが筋だが、友人だと言いやすく便利だとして何度も借りていると、次第に信頼を失う。事業の資金繰りがうまくいかないときは、関係者に現状を率直に話し、必要なら公的整理に頼るのが筋であって、新たな融資を重ねるべきではないことが多い。まして、子どもを連帯保証人にすることは、その子の将来の芽を摘むことにもなりかねず、絶対にしてはならない。育てた恩をかさにきて便利に人を使ってはならない。

 労働力に期待して人を便利に使ってもならない。妻が内助の功を発揮して夫を支えること自体は良いことだと思うが、夫が妻に感謝の念を持たず、ねぎらいのことばもかけず、妻の自己実現の思いにも耳を貸さないとしっぺ返しをくらう。「男女共同参画社会」が声高に言われている理由のひとつは、歴史的に男性の女性への横暴な振る舞いが多々あったことだと思う。

 妻が早く亡くなったとき、娘に自分や息子の生活のための家事をさせるために、嫁がせもせず、ずっと家に居させることも良くない。小津安次郎の映画「秋刀魚の味」は、その教訓を、恩師と娘の家庭と、主人公と息子・娘の家庭を対比させながら、しんみりと描いている。

 制度には作った趣旨があり、人には尊厳性がある。また人は夢を持っている。そのことに注意して筋を通し、配慮して判断することが肝要だ。「便利だ」「楽だ」と思ったときは、立ち止まって考え直してみる慎重さが必要ではなかろうか。

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