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2010/08/15

 私人間同様、国家の立法・行政・司法の場においても十分な議論がなされることが必要だ。

 国の行く末を案じ論じる国会議員が、どのような国家運営をするかについて議論することはとても大切だ。国民との間でも、議員同士でも生産的な議論を十分してほしい。

 内閣においても、十分な議論をしておかないと後で問題となることがある。英国のブレアー元首相は7年前に米国との同盟関係に基づいて、イラクとの戦争に加わった。そして今、内閣を十分尊重せず戦争の意思決定をしたのではないかと調査されている。

 日本では司法制度改革の一環として裁判員制度が始まり、刑事事件を扱う裁判に、国民の意見を取り入れ始めている。すでに裁判員を経験した人からは、参加して良かったという意見が聞かれるが、足利事件や富山連続婦女暴行事件等の冤罪事件が明らかになる中、法曹関係者の一部からは、裁判員を冤罪発生に巻き込む恐れがあるとして、裁判員制度に批判的な意見も聞かれる。

 裁判員制度ではなく、アメリカなどで行われている陪審員制度を行うべきだとの意見も根強い。裁判員制度では、裁判員は裁判官といっしょに、被告が有罪か無罪か、また有罪の場合は量刑(例えば懲役○年)まで議論し多数決で決めるのに対して、陪審員制度では、陪審員の議論に裁判官は加わらず、陪審員は有罪か無罪かまでしか判断しない。また、全員一致で決めることが原則だ。

 アメリカ映画「12人の怒れる男」は、12人の陪審員たちが法廷で殺人事件の審理が終わった後、評決を出すまでの過程を描いている秀作だ。第1回の評決は、11名の陪審員が被告の少年が有罪とするなか、ひとりの陪審員が、少年は犯人かもしれないが有罪の確たる証拠がないとして無罪を主張した。夏の暑い中、審理で疲れきっている陪審員たちは早く評決を済ませて家に帰りたかったが、感情的な対立をしながらも真実を求めて議論を続け、最後の評決では全員一致で無罪となったというものだ。当初はほとんどの人が有罪と考えていたが、証拠や証言の内容をひとつひとつ念入りに吟味していくと、証拠能力が希薄だったり証言が虚偽だと分かったのだ。

 私は、議論を十分尽くすことができる制度かという観点から見ると、裁判員制度よりも陪審員制度の方が優れているように思う。多数決で物事を決めるやり方は、裁判員制度に限らず、現在の日本では一般的であり、効率的で大勢の満足を得られる決定方法だ。一方、全員一致で決めるという方法は非効率かもしれないが、全員一致を求めて誠実に議論を続けていく中で、真実を発見できたり、ときによっては自分の価値観の見直しを迫られたりもする。多数決で決める方法は、安易に流れれば、早く決を取って終えてしまいたいという当事者の思いの隠れ蓑になってしまう懸念がある。十分な議論の重要性を認識し、それが実行される制度作りが大切だと思う。

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