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2010/02/15

 世界の中で日本は日韓中(日本・韓国・中国)という地理的に近い国々と作る「地縁共同体」の一員と見ることもできれば、日韓米(日本・韓国・米国)という自由・民主主義・人権・法の支配という理念を共に戴く国々と作る「価値観共同体」の一員と見ることもできる。

 古来より稲作・漢字・儒教や仏教等を中国や韓国から学んできた歴史からすれば、日韓中が相互の連携をこれまで以上に強固にし、鳩山首相が説くような東アジア共同体を目指すのも良いかもしれない。しかし、日本は三権分立が国の基本制度になっているのに対して、中国では共産党による一党独裁政治が行われている。また、中国のチベット人に対する蛮行は、国際司法委員会が「(チベット人を)ただそうだというだけで抹殺する意図がある」と断定するほど悲惨極まりないものだ(ペマギャルポ著『中国が隠し続けるチベットの真実』扶桑社新書)。

 中国の蛮行に対して日本が異を唱えることなく東アジア共同体が形成されると、そこで人権が守られる保証はない。そもそも「共同体」とは域内の生産要素の自由移動を保障し、さらにマクロ経済政策を調整し、最終的には通貨統一をも視野に入れた構想であるところの「共同市場」の形成を前提にした概念と解すべきだという(渡辺利夫著『新脱亜論』文芸春秋)。

 つまり、相当程度の社会的・経済的な同一性を志向したまとまりと言えよう。そのような制度的枠組みが仮にできて物や金が動き始めても、価値観を異にするとして人が動かなくては機能停止に陥る。

 私は今後の世界における日本のスタンスを考えるとき、韓国や米国という価値観を同じくする国との信頼関係をまず考え、次にその価値観の中でも普遍的なものを中国にも理解してもらうための外交を展開していくのが良いと思う。

 地縁よりも価値観によるつながりをまず考えるというのは、国際社会だけでなく今日の日本の地域社会においても妥当する面がある。

 今日の日本は快適な生活を得る一方で偏狭な個人主義が蔓延し、人と人のつながりが希薄になってしまった。反面、インターネットの普及により遠方の人とのコミュニケーションが容易になったお陰で、気心の知れた人々は直接会うことなく情報交換し一体感を持つことができるようになった。

 このような相互作用が普遍的な価値観をテーマにして行われるようになれば、それを精神的な拠り所にして地域に住む様々な考え方の人とも人間関係を築いていこうという意欲が出てくるのではなかろうか。

 一昨年99歳で亡くなられた尊敬するS先生は、「老人の集まりに行っても飲み食いしているだけで自分が成長しないから行かない」と死の間際まで哲学書を読み、来訪する客と相互に啓発する話をすることを好まれた。体が存在する環境や条件よりも、頭脳や心が求める価値や美学を優先してこそ、筋を通した生き方ができるのではなかろうか。

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