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2008/12/01

 大学を出たての頃、ある大学教授と神田錦町の学士会館のロビーへ同行させてもらったことがある。紳士淑女たちがソファーに腰をおろして新聞や本を読んでいる。その時、1、2度お会いして面識はあるもののそれほど親しくはない方を発見し近づいて声をかけようとしたところ、同行の教授から、ボーイを呼んで名刺を渡しその方との面談の取次ぎを依頼するようにとたしなめられた。

 相手の方が何かに集中していて時間を取りづらかったり、会いたくないこともあるわけで、ボーイを介することで間接的な意思の疎通を図り、双方の意向を尊重できるということのようだ。そのときは、面倒くさいことをするんだなあと感じたが、後になってそのような声も思いも抑制された場の秩序の美しさを感じるようになった。

 国技である相撲の力士に求められるものは、強さとともに潔さや品格であり、それは伝統を維持するのに必要だ。初代貴ノ花は「勝負師は喜怒哀楽を表に出すな」と師匠に教えられ、優勝後の表彰式で涙をこらえるため、ただうつむいていたという。相撲に限らず、雄弁で派手なパフォーマンスを用いる選手よりも、抑制のきいた選手の方が好印象をもたれやすいのではなかろうか。

 男女間の恋愛感情についても、もう少し抑制されたものがあってもよいのではないかと思う。テレビ番組やラジオ番組を視聴していると、好きになったら告白するのは当たり前で、ためらうことは男らしくないとか優柔不断とかみなされている。しかし、自分を見つめ自己を成長させるためには、安易に思いを口にしない方が良いことも多いと思う。

 まして、配偶者を決める前には、ふさわしい人を見極めるために何人かの異性と同棲して相手を見る目を付けた方が良いなどと言う人もいるがとんでもないことだ。自分が結婚するときには豊富な性体験の持ち主ではなく純潔な人を希望すると思う。相手に純潔を希望しながら自分は豊富な性体験を誇るとするならエゴイズム以外の何物でもない。同棲経験者の方が離婚に至りやすいというデータもあるようだ。結婚までは性関係は抑制していた方が良い。

 相思相愛の男女間で、女性の方がもし自分を愛することで相手が義務を怠っていることを知れば、女性は自分の魅力をなくすために、その手で自らの美貌を傷つけることも、以前の日本では珍しくなかったという(新渡戸稲造『武士道』)が、プロポーションなどの外形的な美しさの演出に腐心する女性が多い最近では、このようなことは想像すらできなくなってしまった。

 私は、自分が人のためにできることや、相手が成長するために相手に期待することを表明することにおいては積極的であった方が良いと思う。一方で、自分の思いなど変わりやすいものに関しては、抑制気味に対処し陰陽の調和に配慮した方が美しい人生を構築しやすいのではないかと思う。


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