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2009/06/15

 日本では、意見の対立が好まれないことが多いように思う。

 大学生の長男が小学生の頃PTAの会合に出て、年間行事案を検討したとき、司会のPTA会長は前年通りの行事をするのが良いと考えていた。私は、それぞれの行事がどういう意義があるかをまず考えてみようと提案したが、その意見は取り上げてもらえなかった。

 別の会合で、「高校生の男女交際はどの程度(一切だめ、話だけ、キス程度、性行為も)まで許されるか」というテーマで高校生対象のアンケート結果の発表があったときに、「性は愛のためにあるのだから、愛ぬきに性のことを言うと性が独り歩きして高校生に良い影響を与えない。まず家庭における愛のあり方や結婚の意義や価値を十分に生徒に伝えることを優先した方が良いのではなかろうか」と発言したときも、司会者に黙殺されてしまった。

 私は、意見が対立した状況というのは避けるべきことではなく、むしろ新たな創造的なアイデアが生まれる好機であると認識することが重要だと思う。対立が感情的に処理されたり、司会者に、様々なアイデアの交換から創造的なアイデアを生み出すことに対する関心がないと、それが生かされない。

 フィンランドでは、集団の中の意見の対立を対話によって解決していく力を子どもに身につけさせることにとても熱心だ。自分の価値観と相手の価値観が異なっていたときに、価値観の違いが存在することは当たり前のこととして、価値観の対立点や共通点を積極的に見出して、その上で共存共栄できる創造的なアイデアを生み出すというプロセスが大切だということに、国民的合意ができているようだ。

 フィンランドでは生徒の基礎学力は、「読み」、「書き」、「計算力」と「集団で問題を解決するための対話力」であるとしており、小学校のテスト問題を見ても対話による解決の力を身に着けさせようとしているのが良く分かる。その効果もあってか、読解力の到達度の国際的な調査結果を見ても、世界トップクラスである。

 対立と言っても、それぞれの意見の背景や目的を考えていくと、目的は結局は同じで強調しているところが違っているだけだったりする。あるいは、相互に信頼関係があれば、お互いの立場を思いやり個性を尊重していく中で合意できたり、ときにはより優れた第三の意見が生まれることもある。

 そのためには、「どうしてそのように思うのですか」という思考の変遷やプロセスに焦点を当てた問いかけが大切だが、日本ではこのような問いかけはあまり聞かれない。意見の対立があっても、考え自体やそう考える背景を話し合い相互理解を深めていけば、完全に合意はできずとも、「不満はないわけではないがそれなりの賛意が得られている合意(コンセンサス)」に至ることはできるのではなかろうか。そのためには多くの時間がかかるかもしれないが、粘り強く対話を続けることが現代の日本人に最も求められているのではないかと思う。

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