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2008/12/15

 テレビの討論番組を見ると、あるテーマに関して、大学教授や評論家等の論客が対立的な討論をよくしている。

 対立的な討論は、論点が明確になり分かりやすいという長所がある反面、論客が自分の立場や所属団体に過度にとらわれていると自由な発想ができにくい、という短所がある。また、論客にもよるが感情的になりやすいということもある。

 その場に参加した一般市民が適宜、意見を述べる形式の番組もあるが、専門知識を有する論客の主張が中心で、一般市民の発言時間は概して少ない。

 私は議論を対立的にすることで解決策を見つけ出そうとする考え方の中に、対立が変化や運動の原動力となるとする「正反合」の呪縛のようなものを感じる。

 新しいアイデアを生み出すのに何も対立的な手法でなければならないことはない。話し合いの目的や狙いに合意しそのルールを共有した場では、穏やかな手法でもずっと良いアイデアが生まれると思う。

 例えば、どうすればある公益が実現できるかというテーマを設定し、自由に意見を出し合う。人が出した意見に対して批判や議論をすることを禁止し、出た意見に別の意見を付け足すことや突飛なアイデアを歓迎する。意見の質は問わずたくさん出ることを歓迎する。このような発散的な話し合いで終わってもよいし、具体策を選択するための合意形成の話し合いをしなければならないのであれば、セッションを変えて合意形成の手法を用いて話し合いをしてもよい。

 1つ1つの意見は一般市民が日常生活で感じた率直なものであってもよいし、専門家が研究の結果達した成果でもよい。参加者1人1人も意見1つ1つも同じ重みを持つ。各意見は予め定められた枠組みの中に入れられるのではなく、「(意見が書かれた)カードに語らせる」(KJ法創始者の川喜田二郎氏の言葉)の精神に則り、各意見の等身大の内容とそれが生まれた文脈を大切にする。

 専門家同士の議論ではテンポが速くて一般の市民はついて行くのが精一杯で、よく分からないうちに次の局面に移ってしまったりする。また、共通の認識を欠いたまま議論を続けていくと堂々巡りに至ることもあるのではないか。

 例えば、障害者問題について話し合うときには、参加を希望する障害者の方にも参加してもらう。実際の状況に対する情報を、感情までも含めて正確に共有するためである。話し合いの速度が遅くなって参加者が忍耐力を要求されることがあっても、あえてそのような忍耐を要求される人間関係の場がもたれることを良しとする合意を事前に得ておく。そうすることによって、その場に出される意見を、発言した人の人格とセットで理解できることにもなる。

 物の売買の場でも、話し合いの場でも、他の生活の場でも、相手の人格を学べる世界を作っていくことが大切で、それこそが正反合の枠組みと、閉塞状況にある日本と世界を脱する新しい枠組みの新地平だと思う。

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