自分は人格ができていないからと引け目を感じることはない。子育てに積極的に関わる父親によって育てられた子どもの方が、父親が不在だった子どもに比べて三〇年後、より共感する能力が高く、しかもそれは父親の共感のレベルには左右されないという(『道徳の練習帳』原書房)。
アメリカのベストセラー作家であり海洋生物学者でもあったレイチェル・カーソンは、著書『センス・オブ・ワンダー』の中で、「生まれつきそなわっている子どもの〈センス・オブ・ワンダー〉(美しいもの、未知なもの、神秘的なものに目を見はる感性)をいつも新鮮に保ち続けるためには、私たちが住んでいる世界の喜び、感激、神秘などを、子どもと一緒に再発見し感動を分かち合ってくれる大人が、少なくともひとり、そばにいる必要があります」と書いている。
同女史は実際に、まだ赤ちゃんの甥のロジャーと共に、嵐の日も穏やかな日も、昼も夜も、森や海岸へ探検に出かけ、小さな生き物の動き、波のくずれる音、月光が海面に映る神秘的な
たたずまいなどに触れるという充実した時間を過ごしたという。
子どもが成長して思春期を終えるころから自立が願われる。愛を受ける立場から愛を与える立場へと移るのだ。その時期に親は子供と共にいるだけではなく、自分がこれまでの人生で体験した様々なつらさ、楽しさ、豊かさを語ってあげてこそ、子どもは社会で出くわす試練を賢明に乗り切り、豊かな人間関係を作っていくことができるのではなかろうか。
知り合いのO君は、子どもが「認知症の人は生きていてどんな意義や価値があるの」というような難しい質問をするようになったときに、一定の時間をとって体系的に説明をしてあげるようにしたという。「説明が当を得たものかどうか分からないが、自分の人生体験の中から自分はこう思う」という立場で話してきたという。
私は、「お金も時間もあり余っているが何をしたらいいか分からない」とか「大学に合格したけれどやりたいことが分からない」というような状態よりも、「公益を実現するためにやりたいことはたくさんあるのに、時間もお金も足りない」とか「進路は明確なのに受験で失敗したので合格を目指してて努力する」という状態の方が充実していると思う。
子どもが自分の進路を意欲を持ってはっきり決めることができるようになるには、子どもが小さい時は共にいて多くの感動を共有し感性を育んであげ、長じては自分の人生体験から感じたことを情感豊かに話してあげることが大切なのではなかろうか。それは、親が子どもに与えることができる最大の贈り物だと思う。
Posted by oota at 11:53:00. Filed under: 随想・評論(平成20年)
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