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2007/11/15

 今日の日本に熱心で優秀な官吏がいることを否定するものではないが、長期的・哲学的視点を欠いた施策がよく目につくのも事実である。

 中央教育審議会は「ゆとり教育」が行き詰ったことに関連して、授業時間を減らしすぎたと自己批判し、反省の姿勢を明確に打ち出した。反省点を具体的に示さなければ方針転換の理由が学校現場に伝わらないと判断したのがその理由だという。「過ちを改むるに憚ることなかれ」の諺にあるように、姿勢の明確化を歓迎したい。
 
 同じように、今日の青少年が性のモラルを喪失し軽率な性行為に至ることが多くなった主要原因のひとつが、戦後純潔教育委員会を作って青少年の純潔を守ろうとした当時の文部省の信念が弱く、途中で投げ出したことであることを明確に表明することができれば、新しい対策も考えやすくなるのではなかろうか。

 厚生労働省の医療や福祉に関する一連の施策にも哲学が感じられない。

 人間の生死の問題を、とにかく命があればよいというようなヘレニズム的観点だけからしか見ていないように感じる。文明の興隆は、ヘレニズムと、人間の物質的欲望やヒューマニズムを無条件では良しとしないヘブライズムの両方がバランスよく存在して、初めて成し遂げられることを見失っているとしか思えない。

 拓殖大学の渡辺利夫学長が「老化現象を生活習慣病と称して国民に検診を強要し、死の観念を希釈させて人間が幸福に生きられるとは思えない。むしろその逆が真実なのではないか」(産経新聞「正論」、平成18年12月14日)と述べておられるが、全く同感だ。

 富山市の施策にも哲学が感じられない。

 私は、平成18年に答申された富山市の総合計画を審議する委員会の公募委員として議論に加わった。初めての経験であり熱心な議論がなされるものと期待していた。「アメリカでは、青少年のモラル向上のために街ぐるみで月間の徳目を決めて人格教育運動を推進している市があるようだ。富山市でも検討してはどうか」などと提案したが、実現可能性を検討するという雰囲気はなかった。

 市当局の方であらかじめ基本計画ができていて、委員の意見は部分的な修正や追加に用いられるにすぎないのではないかと想像してしまう。原案自体を委員たちで作り上げるゼロベースから始める手法をとらない限り、新しい風は吹きこめないと感じた。

 私は、行政等の社会の公益を担う部門は、国防と外交を除いて、民と官が協働して推進することを原則にするような、大胆な発想があってもよいと思う。指定管理者制度等、官業の民間への開放は始まったが、企画等行政の最初の段階から、民の息吹と知恵を加味して協働するようにしてはどうか。そうなれば、某代議士が某省を念頭に「忙しいふりをするのに忙しい」と指摘するような現状も改善されるのではなかろうか。

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