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This is the archive for September 2012

2012/09/15

 もの不足の時代では「もの」そのものに価値がおかれた。また、目で見て労働していると分かる肉体労働によって生活の糧を得る人が多かったときは、「労働」そのものに価値がおかれ、労働者に対する共感も強かった。

 しかし、ものがあふれる時代になると、人々は「もの」自体にあまり価値を感じなくなった。さらに、IT・通信技術等の発達によって、肉体労働よりも目で見て労働していると分かりにくい知的労働に従事する人が多くなると、労働自体にあまり価値を感じず、労働者に対する共感も弱くなってきているように感じる。「誰のおかげで飯が食えていると思っているんだ」といばる労働者の父親は、昔は受け入れられたかもしれないが、今はそうではない。

 そのような社会状況の変化の中で、とりわけ若者は、人の思いや美に対する感受性が敏感になってきているようだ。

 たとえば、弁当一つとってみても、以前はごはんとおかずの量が重要だった。一定の量があってお腹がふくれればそれでよかった。しかし今はそうではない。おかずは何種類あるか、植物性食品と動物性食品のバランスはとれているか、おかずの間で熱が移らない工夫はなされているか、見た目の色どりは美しいか、等が問われる。単にお腹がふくれればよいというものではなくなってきた。生まれた時から豊かなものに囲まれていたのだから、量以外のことに視点が行くのは、ある意味もっともなことだ。

 親が「これは賞味期限が切れそうだから食べなさい」と言っておかずを食卓に置くと、ものが不足していた頃は、その言葉に何の抵抗も感じなかったが、今の若者は「自分の成長や喜びの観点から食事を準備したのではなく、自分よりものの方を大切にしているのか」と反発する。生まれた時から豊かなものに囲まれていたのだから、そう考えてももっともなことだ。

 また、親が労働で疲れて夕食をとるや食卓のそばで横になって不格好な格好でいると、以前は家族のために疲れているんだなあと感謝の気持ちを持ちやすかったが、労働に対する共感が薄れてくるとそうならず、嫌悪感すら感じることもある。若者がそのように感じることはある意味もっともなことだ。小さいときから絵画、映像、音楽等に親しんで、美しいものを見慣れているからだ。

 私は、そのような若者の感性に年配者は敏感になることが大切だと思っている。弁当に対するこだわりを受け入れ、一緒に完ぺきな弁当制作に取り組めば、自分に不足している感性を補う貴重な機会となる。たとえ、夕食後疲れて横になりたくても、家族のだんらん以外の部屋へ行って醜い姿を見せない努力をすれば自己管理能力が向上する。

 ものや労働に価値が置かれる労働価値論の時代から、日常的な事がらの中にどれだけ愛や心情や美を感じることができるかという心情価値論の時代に移りつつあると私は思う。