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This is the archive for April 2010

2010/04/15

 テレビのバラエティ番組で出演者が肉料理や魚料理を「おいしそう」などと言いながら食べて、幸せそうな表情を見せているのを見ると違和感を感じる。自分が食べていないからではない。他の生物の命をいただいて自分の命をつないでいる行為の意味やありがたさに思いを致すこともなく、ただ自分の味覚により自分が感じたことを大衆の前で表現することに、いったいどんな意味があるのかと思ってしまうのである。

 私は大学の工学部で学んだ。講義を熱心に聴講し実験に真剣に取り組んでいた人もいたし、午前中から麻雀をして遊んでいる人もいた。私はどちらかといえば後者に属し、真面目な人たちを尊敬する一方で違和感を感じていた。

 物理や化学の原理に通じ電気や機械の知識を蓄えて、将来社会の役に立つことができたとして、なぜ自分がそのことをするのか、自分が何のために存在しているかを見究めることもなく、熱心に研究し働いたとして、それが母の胎から生まれいずれひとりで死んでいく自分という人間の根源的な喜びとどんな関係があるのかが分からなかったからだ。分からないのだったら、むしろ遊び呆けている方が、刹那的な喜びであるにしろ喜びを感じられるので、自分に素直に生きることになるのではないかなどと、理屈を考えていた。旧約聖書に「人の子は天が下でその短い一生の間、どんな事をしたらよいかを、見きわめるまでは、愚かなことをしようと試みた」(伝道の書、2章3節)があることは後知った。

 学校で人間の起源を考えるときに、日本では創造者による創造論を教えず進化論を教えていることにも違和感を感じる。

 創造論では創造者が愛を動機として人間のために山川草木などの万物を創られたとするので、これを教えれば、物質の変化の結果人間は高等生物になったとし人間の尊厳性を感ずることとは無縁な進化論を教えるよりも、愛を実践し倫理観を高める教育につながりやすい。いずれも仮説なのだから、創造論を教える方が青少年が健全に育ちやすく良いのではないか。宗教教育は憲法で禁止されているが、憲法の目的に立ち返って方法論を検討すべきではなかろうか。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(伝道の書、12章1節)。

 私は自分の人生がうまくいっている時も違和感を感じた。長じて、創造主とは自分が造った人間が喜んでいるのを見られて喜ぶお方であることを知るに及んで、違和感を感じなくなった。「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」(創世記、1章31節)。

 私は悩んでいない人を見ると違和感を感じる。「悲しみは笑いにまさる。顔に憂いを持つことによって、心は良くなるからである。賢い者の心は悲しみの家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある」(伝道の書、7章3節~4節)の聖句を読むと心が落ち着く。こんな私に違和感を感じる人もきっといるに違いない。