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This is the archive for March 2010

2010/03/15

 あるファーストフードの店に入るといきなり「お召し上がりですか。お持ち返りですか」と尋ねられる。持ち返っても食べるのだから変な質問をすると思う。フィレオフィシュとコーヒーを注文すると、「単品ですか。セットですか」と尋ねられる。注文品を明言しているのだから、これ以上何を言う必要があるのかと思う。

 このチェーン店では作業の手順上、どこで食べるのかを先に知りたがっていることを私は知っている。また、ポテトを付けてセットとして販売しているので、そのセットにするのかそうでないもの(コーヒーも注文しているので単品ではないのに「単品」となっている)にするのかを最初に決めてほしいと思っていることも知っている。

 それで二者択一を迫られて素直に答えてもいいのだが、「持ち返ったとしても食べますが」とか「単品の意味が不明だ。フィレオフィシュとコーヒーください」と言い張ってしまう。55歳の私は偏屈爺さんへの道をまっすぐに走っている。ただ、一言言わせてもらえれば、「自分たちの作った枠組みを押しつけないでほしい」のだ。

 次元は大きく異なるが、枠組みや概念を押しつけられることに対する反発ということでは、キリスト教の伝統を引く欧米の近代世界とイスラム世界の対立を思い起こす。

 とりわけ自由や人権についての考え方は全く異なっている。欧米の近代世界では自由や人権に対して鋭敏な感覚が育ってきた。近代自由主義の本質は「私はあなたが何を言っても賛成しないが、私はあなたがそれを言う権利を死んでも護るだろう」(啓蒙思想家ヴォルテール)の言に集約されている。

 一方イスラム世界では自由や人権についてあまり考えない。イスラムの教理を自由に批判して生きる権利は認められていない。サルマン・ラシュディ―というイギリスの作家は、ムハンマドの生涯を題材に『悪魔の詩』という作品を作り、イギリスでは高い評価を受けたが、イランの最高指導者ホメイニから反イスラム的であることを理由に死刑宣告を受けた。

 このような基本的な概念が異なっているのに、相互理解への取組をせずに他国への干渉を深めていくと、戦争やテロにつながってしまう。コミュニケーション論では、異なる価値、目標、視点、利益、思想、世界観に固執することで生じるコンフリクト(対立、葛藤)の解消には①現在の目的のさらに上位にある統合的な目的を見出す②短期でなく長期、ローカルでなくグローバルなどより広い視点から見る③兄や弟ではなく家族の立場から、男性か女性かではなく人間や社会の立場からというように両者を統合する位置にいる第三者から見る、が有効だと言う。

 国連での話し合いは、各国の利益にとらわれない宗教指導者や学者等が超党派的立場で議論に加わることができるような制度的枠組みの検討が必要ではないか。とともに、偏屈人間、偏屈国家にならないような大きな心が必要だと、自戒を込めて感じる。