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This is the archive for November 2008

2008/11/15

 外国へ来た日本人のプロフィールの中の宗教の項目に「無」と書かれているのを見ると、外国人は「この人には行動原理はないのだろうか」といぶかしがるという。日本人同士でいるときは違和感を感じなくても、今後、外国や日本で、外国人と共に生活していくような場面が多くなると、相互理解が進まず関係がぎくしゃくすることにもなりかねない。

 既にそうなっているかもしれない。ムスリム(イスラム教徒)であるアジアの人々と日本人とが一緒に議論した場で、ある日本人が「一度ムスリムになると他の宗教に変わることができないのは不自由ではないか」という趣旨の質問をしたところ、あるムスリムの方は、「何のためにムスリムになるかということが大切です」とやんわりと返していた。

 私はそのやり取りを聞きながら、日本人の質問は失礼な質問であり、同じ日本人として申し訳ないような気持ちになった。イスラム教を信じることがムスリムにとってどういう意義や価値があるかを理解しないまま、宗教が変わるという一つの現象から受ける自分の印象を相手に伝えて、いったいどういう意味があるのだろうか。

 およそ日本人は一神教に対する理解が乏しい。「神は、いると思う人にとってはいるが、いないと思う人にとってはいない」などという、意味不明な日本人の発言を公の席で何度か聞いた。それが神やその信者に対してどれほど侮辱的な発言であるのかを理解していない。「価値観の多様性」の錦の御旗の下に何を言っても許されると思いがちだが、「精神が停滞している」とみなされることにもなりかねない。

 子どもが大人になっても働きも学びもせず、親に感謝することもなく経済的に依存し続けていれば、「これが私の価値観です」と当人が言っても、「精神の停滞」としか見なされない。同じように、豊かな生活を享受しながら、豊かな生活を支える万物が存在する被造世界を設計し創造した神に対して感謝せず、その恩恵だけを受けていれば、「それが私の考えです」と主張しても、日々唯一の神に感謝の祈りを捧げる一神教の信者は辟易してしまう。

 「日本は自然万物に感謝するという教えの仏教の信者が多いから、設計や創造の神を持ち出さなくてもよいではないか」という意見が聞こえてきそうだ。ただ、親に育てられた子どもが、「食物や衣服には感謝するが、それを与えてくれた親に感謝しない」というのはピントがずれている。同じように、一神教を信ずる者から、「自分を生かしてくれる自然の恵みには感謝するが、それを準備してくれた神に感謝しないというのはおかしい」と思われても不思議はない。

 イスラム教やキリスト教等の一神教を信じる外国の方が日本人と話していて、拍子抜けしたり、もう少し基本的なことを理解してほしいと思うことがたくさん出てきて、挙句の果てに、日本人は精神が停滞していると思われてしまうことを、私は心配しているのである。