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This is the archive for February 2007

2007/02/15

 生命の誕生の前には夫婦の愛がある。連綿と続いてきた人間の歴史の中で、いつも生命の前には愛があった。それでは、(人間の)最初の生命の前にも愛はあったのか。

 この問いに対して、日本の学校教育では明確な答えを生徒に与えていない。無方向な変異と自然選択を唱えるダーウィンの唯物的な進化論を真理として教えているにすぎない。最近、人間を超えた何か偉大な存在(サムシング・グレイト)を想定しないと、人間や宇宙の存在を説明できないという主張が科学者の間から出てきて、共鳴する人が増えているが、これは進化論に対する逆説と見ることができる。もしも、この逆説が正しいとすれば、日本は人類の出現に関して国家を上げて虚偽を学ばせていることにならないか。同じく唯物論的な共産主義理論を国家運営の基本と定め、70年余りの実験の結果崩壊したソ連と同じように、人間の起源に関し、生命の前の愛に言及しない唯物的な理屈を教わるだけでは、日本人の精神は崩壊してしまわないだろうか。

 ある組織神学では、神(サムシング・グレイトと同義と考えて構わない)による人類始祖の創造と、生命の前の愛の関係を次のように説明している。「対象を愛することにより喜びを得ようとする情的な衝動によって、神は人類を創造せざるを得なかった。神が人類を見て喜びを得るためには、その人類も喜んでいなければ、真の喜びにはならない。人類を喜ばせ愛するために神は、地球上に山川草木や多くの種類の動植物を作り、宇宙に無数の星を作った」と。

 最近、サムシング・グレイトの存在に言及する人が多くなったのは、この組織神学の理論ほど明確ではないにしろ、生命の前の愛を本性的に察知した日本人の、進化論に対する反抗のような気がしてならない。

 一方、進化論のような唯物論的な考え方を認める人の多くは魂を認めないので、人は死ねばそれで全てが終わると考えている。しかし、生命の前の愛の存在を認める立場では、生存中に築いた家族や知人友人間の愛の関係がある時点を境に全て消滅してしまうことに納得できない。「人は死んでも(死後の世界で)生きている。そしてそれは永遠に続く」という説明の方に、心がひかれるのだ。

 私は、自殺者が高水準で推移していることや、経済格差の拡大等に伴う今日の日本の閉塞状況は、生命の前に愛を認めず、生命の後に永遠を認めない考え方を日本人が持ってしまったことが、大きく関係しているような気がする。

 国政選挙において、米国などでは、家庭の価値とか、妊娠中絶の是非等、精神的なことが争点となりやすいのに対して、日本では、年金とか雇用等、人間の生存中の物質的なことばかりが争点になる。人生とは、肉体の寿命がある時だけというとても窮屈な考え方が基にあるから、そうなるのではなかろうか。生命の前の愛と生命の後の永遠を見つめることで、人はもっと自由に生きることができると思う。