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This is the archive for January 2007

2007/01/15

 30~40年前に、日本で文明史上の大事件が起きた。人類史始まって以来それまでは、人類は常に物の不足に悩まされる物不足社会を生きてきた。しかし、30~40年前に日本社会は物余り経済に突入したのである。

 販路構造における力関係を見てもそれは歴然としている。物不足社会では、メーカー、卸し、小売り、消費者という連鎖の中で、メーカーに近いところに位置している方が有利だ。消費者よりも小売り、小売りよりも卸し、卸しよりもメーカーにいた方が交渉を有利に進められ、小売りが頼んでも「そうは問屋(卸し)は卸さない」と言われた。

 それが物余り経済になると、力関係は逆転した。消費者は販路構造における最強の王様となり、物が豊かな生活を享受できるようになった。とともに、物が不足していれば感じやすい感謝の念も持ちにくくなってしまった。文明史上の大事件というのは、物の需要供給のバランスの問題だけにとどまらない。そのことによって、本来ならば物を主管(愛し管理すること)する立場にあるはずの心が、逆に物に主管されてしまう懸念が強まってきたのである。

 日本の進路についての研究会で、知り合いの経済学者のK先生が、「池田内閣の所得倍増計画は失敗だった」と発言されるのを聞いて驚いた。日本人の所得を倍増するという計画は、期間前に達成されたと聞いていたからだ。K先生の主張は、「物の豊かさの倍増を目指すのであれば、心の豊かさの倍増も合わせて目指さなければならないのに、そのことについては明確ではなかった」との趣旨だった。

 お金は車社会におけるガソリンのようなものだ。仕事や勉強や遊びのために出かけようと思っても、それがないと身動きが取れない。その意味ではとても大切なものだ。しかし、使い方を間違えると身を滅ぼしたり火事になったりと危険だ。使い方が肝心だ。

 タバコの吸いすぎは健康に良くない。それでタバコのケースには「健康のため吸い過ぎに注意しましょう」と書いてある。しかし、タバコ一本一本に書いておいた方が効果が上がるのではなかろうか。お金も同様だ。紙幣一枚一枚に「幸福のため持ち過ぎに注意しましょう」と、書かれていれば、適正な使い方をする役に立つかもしれない。

 キリスト教の宣教師パウロは、「私は、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法があって、…肢体に存在する罪の法則の中に、私をとりこにしているのを見る。私はなんというみじめな人間なのだろう」と、欲望を治めることの困難さを嘆いた。このパウロの告白は、古今東西すべての人間の悩みであるが、物余り社会ではさらに困難さは強まるのではないか。

 文明史上体験したことのない環境だけに、人類が豊かな物に囲まれて自滅しないという保証はない。そのような環境の中でいかに身を処すかは、すべての人が真剣に考えるべきテーマではなかろうか。