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This is the archive for March 2004

2004/03/15

 文部科学省所属の財団法人が、日米中韓四カ国の高校生の意識調査を行ったところ、日本の高校生は際だって「男は男らしく」「女は女らしく」という意識が低いことが明らかになった。

 日本では、数年前から「男女共同参画社会を作ろう」というかけ声の下で、ジェンダーフリー思想(社会的、文化的に形成された性差を否定する思想)に基づいた教育が学校現場で行われている。例えば、運動会の騎馬戦に女子も参加させるとか、着替えを同室でさせるなどである。今回の高校生意識調査結果を見ると、その「成果」(マイナス)が表れているように見える。

 富山市では、男女共同参画条例が制定される前の一昨年に市民の意見を条例に反映させようとの意図で、このテーマに関する市民集会が行われた。そこでは、おとなしい富山県人らしからぬ熱い議論が時間ぎりぎりまで展開された。

 このテーマの議論が白熱したものになりやすいのは、自分たちの身近な家庭や社会が、どういうものになるかに直結する問題だからだと思う。もっと言えば、男女の夫婦と子どもたちから成る家庭を単位とした社会を、従来通り維持していこうとするのか、そうではなく、社会を個人単位のものとして、結婚の多様性(事実婚、同性同士の結婚等)を認める、という方向へ社会を変革していこうとするのか、という問題をはらんでいるのである。

 1960年代に始まったヒッピーの共同体では、男も女も、日常の仕事を男女の区別なく同じように行う「平等主義」を採用したところ、男女の相違に合わず、お互いに仲良くやれずに敵対心や憎しみが生じ、分裂したという。性差を否定し、家庭の多様性を主張するグループのリーダーには、「家庭とは、男性が女性を搾取し抑圧する仕組みである」という男女が敵対するような考え方を持っている人が、少なからずいるようだ。

 人は愛によって生まれ、愛によって育ち、愛を全うして死んでいく。その中心的舞台は家庭である。男女差を否定的にとらえるのではなく、違っているからこそ、お互いに補完し、助け合ってより素晴らしい文化を創造できることに注目することが大切ではなかろうか。

 マザーテレサも、北京で開催された第4回国連世界女性会議に宛てたメッセージの中で、「男女の素晴らしい違いを否定する人たちは、神が造られたように自分たちを受け入れないため、隣人を愛することができません」と述べている。

 大ヒットした映画「ラスト・サムライ」の中では、男も女も礼節を重んじ勤勉で、男は武道に励み、女は育児と家事に励んでいる様子が、田舎の伝統的な家屋や田園風景の中に、美しく描写されている。新渡戸稲造が英語で著した書「武士道」が、日本文化を理解するものとして欧米の人々に好意的に受け入れられた一つの理由は、男女がその特性を生かしながらお互いに配慮し、助け合っている様子が描かれていることではなかろうか。