Skip to main content.
*

Archives

This is the archive for November 2005

2005/11/15

 西洋医学と東洋医学には、それぞれ長所と短所がある。

 西洋医学は体の不調の原因部位を明確にして切除するなどし即効性がある反面、各部位に対する処置が中心になるので「臓器は治ったけれど患者は死んでしまう」事態が起こらないとも限らない。

 東洋医学は、症状が出るのは身体全体の生命力が落ちている結果と考えるので、生命力を高める根本的な治療を施し、その結果他の症状の改善も期待できるなどするが、即効性では西洋医学にはかなわない。

 研究者という立場では、それぞれの医学に自負を持つことは大切なことだが、ともすれば西洋医学の研究者は東洋医学を、東洋医学の研究者は西洋医学を軽視しがちだ。

 しかし、わが子の難病の治療を必死に願う母親を前にすれば、学問の立場とかメンツなどは投げ捨てて、両者協力して救助に専念することが望ましいし、そのような和解は美しい。

 それは、宗教と科学の関係についても言えそうだ。

 米国の教育界は、「創造論」と「進化論」のどちらを教えるべきかをめぐり対立し、1968年連邦最高裁は創造論を公教育で教えることを禁止した。ところが最近、「複雑な生命、自然界の特徴・発展は、何らかの知的意図の産物である」とするインテリジェント・デザイン(ID)と呼ばれる考え方が台頭している。ブッシュ大統領も学校でID論を教えることに賛意を示した。これに対し科学者からは、「IDは巧妙に科学を装っているが、実態は新たな手法で宗教を教室に持ち込もうとしている」として批判的な見解が出ている。

 人間の根源に関わるこのような問題に関して日本人の関心は低い。宗教に対しても、「弱者がすがるもの」と考える人が多い。一方では戦後、科学一辺倒できた教育を見直し、青少年の道徳心の向上のために宗教教育が必要との声も出始めた。
 
 従来、宗教と科学はお互い無関心でいるか、相手を排斥することが多かったのは残念なことだ。私は、両者は真理を明らかにする手法が違うだけで、真理を明らかにするという目的は同じなのだから、補完的な関係を構築できると思う。

 目の見えない人が象に触ると、触る部位によって「筒のようなもの(鼻)」「ひものようなもの(しっぽ)」「壁のようなもの(腹)」といろいろな意見が出るが、全体を総合すれば象のイメージができる。同じように、宗教と科学が異なる手法で体得した部分的な真理を持ち寄ることで真理全体のイメージが描けるのではなかろうか。

般若心経の平易なことばによる現代語訳「生きて死ぬ智慧」(小学館)を著した柳澤桂子氏は、発生学の世界的な研究者だったが、30歳代で原因不明の病に倒れ、現在まで闘病生活を送っている。この間死を意識し続けながら、ドイツ神学や歎異抄などを読みふけり、神や悟りのメカニズムに関心を持ったという。宗教と科学は、病床で生の意味を求めるひたむきな魂の前で和解し、科学的解釈による宗教教典の美しい訳ができあがったと見ることはできないだろうか。