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This is the archive for July 2005

2005/07/15

 行政書士として仕事をしていると、奇妙なことが少なからず起こる。ある仕事を引き受けると、それを完成するために必要な知見があることを気づかせてくれる別の仕事を、最初の仕事を受けた直後に頼まれるのである。まるで誰かが仕事が上手くいくようにと、配慮して段取りしてくれているようだ。

 心理学者ユングは、こういう現象(意味のある偶然の一致)を集合的無意識「シンクロニティ(共時性)」という言葉で説明した。

 さらに最近は「モノとモノの間の空間には、微細な振動の海ZPF(ゼロポイントフィールド)があって、その波動の共鳴効果によって全てのモノや意識が時間空間を越えてつながっている」という説が出てきた。(リン・マクタガート著「フィールド響き合う生命・意識・宇宙」)

 生命あるものは、つながらないと生きていけないし、心あるものは、つながっていないと心が安まらない。

 人間は自分を構成する水と土と空気とつながって(摂取して)生きている。エネルギーがあふれて暴れ回る小さな子が高齢の人とつながると(手をつなぐと)、エネルギーが流れて小さな子はおとなしく、高齢の人は元気になるという。ストレスが多くなると病気になって身体がむしばまれるのも、心と体がつながっている(影響を与え合っている)からだ。現世と死後の世界もつながっている(魂は死後も不滅である)と考えた方が、刹那主義になりにくい。人を含めた宇宙は、連帯し合っている広大な有機体と言えそうだ。

 一方つながっていることの解釈として、「世の中は弱肉強食の世界だから、人を犠牲にしても生きていく」という考え方もある。ライオンがシマウマに襲いかかって、その肉を食べて生きていく映像を見ると、受験生を子に持つ親は「受験戦争・出世戦争に勝ち抜いて生きていけ」と言いたくなる。

 しかし、自然界にはそれとは別の光景を見ることもある。ライオンの親が、死んだ我が子を放置しておくと、他の子ライオンまで襲われる危険を感じて、死んだ子ライオンを食べてしまう。また、親鮭(オスとメス)は繁殖行動を終えると、卵からかえった稚魚たちに我が身をエサとして差し出すために、産卵場所から離れずそこで死ぬ。そのような動物の行動を知ると「食べられる」という行為は、他を生かすための愛の行為と思えてくる。

 自然界では鉱物は植物に、植物は動物に、そして結局は人間に全て吸収される。もしも人間が地球全体のことを考えて、利他主義で生きる存在になるならば、全ての存在は、食べられたり吸収されることは、より高い愛の次元に上がっていくことだとして、納得するのではなかろうか。日本社会においても、家臣が主君のために生命を捧げる行為を美徳とし、忠と呼ぶなど、共通するものを感じる。

 弱肉強食という現象も愛の秩序と解釈することができれば、つながりの中に人智を超えた存在の愛を感じることができ、困難に出会っても強く智恵深く生きていけるのではなかろうか。