Skip to main content.
*

Archives

This is the archive for February 2005

2005/02/15

 東京で研究活動の企画と事務に携わっていた頃、有識者を招いての研究を担当していたN先輩が、笑いながら「研究とは飯を食うことのようだ」と言われたのを覚えている。

 N先輩は大学で物理学を専攻していたので、研究とは実験室で黙々と仮説検証のための作業の連続というイメージを持っていたのに、政治や経済を専門とする先生方が参加する研究会は、集まって食事してテーマについて話し合うだけであることを知り、そう思ったようだ。

 いつもそのテーマのことを考えておられる先生方が、議論でお互いの知識や見解を交換し、新しい気づきを得たり別の意味を見いだしたりしながら、解決策を絞り込んでいくことも立派な研究活動である。食事は、忙しい先生方が多くの時間をとられないようにとの、時刻設定の配慮のゆえに過ぎない。

 コミュニケーションの力は大きい。ひとりではなかなか解決策が見えなくて悩んでいることでも、人と話していると自分の考え方が偏狭であることに気づいたり、新しいものの見方ができるようになる。

 ところで、コミュニケーションをより実り多いものとするには、共通目的を設定することがとても大切だと思う。

 ライブドアの堀江社長が、日本放送の株を大量に購入して支配権を得ようとした行為に対して賛否両論出ている。私は、覇権をめぐる争いとなるのではなく、お互いに放送やマスコミはどう変われば日本がもっと良くなるかというテーマで意見を出し合って、社会善化の競争になるならば、人騒がせな行いであっても、後で評価されることになると思う。そのためには、ふさわしい共通目的を設定できるかどうかにかかっている。

 発展とは「弁証法的発展」(あるものを正としそれに対立したり批判する立場のものを反とし、その両者の闘争により発展していく)であると思っている人が多いようだが、私はその意見に対して懐疑的である。

 二つのものの相違点を明確にすること自体は必要なことと思うが、それ以上に共通点に目を向けて共通目的を設定することの方が重要だと思う。「対立による発展」ということを強調しすぎると、共通目的の設定ができなくなってしまうおそれが出てくる。

 明治大学の斉藤孝教授は、立場を二つに分けてお互いの主張を言い合うディベートの乱用の危険性を説いている。何を大事だと思うか、何を正しいと思うか、という価値判断がまず先にあって、論理が構成されることがまともな思考であるはずだが、ディベートでは論理性は大切にし、その訓練にはなるものの、立場を固定して主張し合うために、価値判断に対する考慮がなされにくいからと主張しておられるが、同感だ。

 私は「弁証法的発展」を全面的に否定するつもりはないが、それに加えてお互いに円満なコミュニケーションができるような「共通目的の設定」がなされれば、幸福な発展ができるのではないかと思う。