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This is the archive for October 2013

2013/10/15

 ボランティア活動のひとつに傾聴ボランティアがある。主に高齢者のそばでその人の人生体験や時々の思いに耳を傾け、きいてさしあげることである。「聞」ではなく「聴」の字を用いているように、きくのは情報ではなく、語る人の心に耳を傾けるのである。

 コーチングセミナーに参加しても、最初に言われることは傾聴である。その人が誇りに思っていることも、人を恨んだりしているマイナスの感情も、これからの人生に対し積極的な思いも消極的な思いも、共感して聞いてあげることで、語る側は安心感を持つことができる。マイナスの感情に共感を示すことはその様な感情を増長させることになるからよくないのではないかと思われがちだが、そうではないようだ。人間の良心の働きで、マイナスの感情も受け止めてもらうことで消滅し、次の段階に進むことができるようだ。

 共感してほしい、心に寄り添ってほしいと思うのは凡人に限らない。聖人といわれる人も例外ではない。小説『イエスの涙』(アートヴィレッジ発行、ピーター・シャビエル著)は、イエス・キリストの「私の心は誤解されてきた。私の心情を理解してほしい」という霊界からの啓示を受けた一女性の証言等が、カソリックやキリスト教の他の会派の司祭が集う会議の場で紹介され、イエスの心情の内容それ自体のみならず、教義の解釈や聖職者の結婚問題にも関連していく様子を心のひだに沿うような繊細なタッチで描く、秀逸な作品である。

 とりわけ問題となるのは、イエスが十字架に磔にされて殺されたことが神とイエスの最初からの願いであり、十字架上の死は必然的なものであったのかどうかという点だ。

 伝統的なキリスト教の解釈では、イエスが十字架で苦難を受けることを預言されたとき、これを止めるペテロを見て、「サタンよ、引き下がれ」と言われたこと等を引用し、必然的なものであったとする。

 それに対し、この著書のもう一人の主人公である神父は、その様な解釈では、神が必然として予定されたことを実行に移したユダヤ教信徒や、イエスを逮捕に導いたユダがその後悲惨な運命をたどっている事実を説明できないとして、イエスの十字架上の死は必然的なものではなかったこと、とりわけイエスの運命が決まる前にゲッセマネで祈られたときに、三弟子が心を一つにできずイエスを守ることができなかったことにより、イエスは十字架への道を行かざるを得なくなったのであり、生きて伴侶を得、家庭のあるべき姿を示すことが本来の使命であったのではないかとする意見に与する。

 人類救済の願いを持ちながらも、神の期待に応えることができない無念の思いと、十字架に対する後世の誤解に対する切ない心情が吐露されている。人の心情により歴史が動いてきたのであれば、もっと心情に寄り添うことで、各種の問題解決が図れるかもしれない。