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This is the archive for February 2012

2012/02/15

 われわれは東日本大震災によって、自然の力は人間の思いをはるかに超えた強力なものであることを思い知らされた。人間の「想定」など一瞬のうちに吹っ飛んでしまうほどだ。

 人間の「想定」活動の限界は自然災害に限ったことではない。日本の年金制度が設計されたのは1960年代だった。1969年の平均寿命は男性69歳、女性74歳だったが、早晩頭打ちになるだろうとの予測で制度設計されたようだ。しかし「想定」以上に平均寿命が延びて(2007年、男性79歳、女性86歳)、支給開始年齢を上げる方向で変更が検討されている。いずれも、リスクマネジメントの観点から、過去の津波の高さ等の状況に予断なく向き合ったり、負担が最大となるような寿命設定の上で対処すべきだった。

 また、日本では人間の存在を、物質の変化と適者生存という環境変化に伴う確率的現象の結果としてしか「想定」していない人が多いので、教育指導要領で、「生命に対する畏敬の念」を説いても、効果はないに違いない。東日本大震災直後に石原東京都知事が「(大震災は)日本人の我欲に対する天罰」とする発言などは、私は深く共感したが、強い反発にあって数日後に撤回せざるを得なかった。

 また、日本国民は、憲法の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という文言に呪縛されて、世の中には悪人などいないかのような「想定」を持っているように思われる。北朝鮮が大韓航空機を撃墜しても日本の航空機は大丈夫だろうと「想定」し、一般の日本人が拉致されたことを知っても、自分と家族だけは大丈夫だろうと「想定」しているように思われる。他国を脅して食料や金銭を出させたり自国の領土を拡張することが、国が生き延びていくための勇気ある手段であると思っていると考えざるを得ない国家指導者が今もいることを忘れてはならない。かつての日本もそうだったのだから現在、他国にそのような指導者がいてもおかしくはない。

 また、人間は死を「想定」せずに生きていることが多い。とりわけ健康な人は今日自分が死ぬことを「想定」しないで生きている。しかし、死と生は隣り合わせであり、今日死ぬかもしれない。若いころから禅に親しみ、昨年10月に死去した米アップルの創業者スティーブ・ジョブズ氏は、「自分もいつかは死ぬ。そのことを思い出すのは、私が人生で重要な選択を迫られ決断を下すときに、最も役立つ方法だった。」と考え、「『もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やろうとしていることを私は本当にやりたいだろうか』。それに対する答が『ノー』の日が何日も続くと、私は何かを変える必要があると思うようになる」という(En-ichi 2011.11)。

 どんなに考えることがいやなことでも、生起する可能性を無視せず直視して「想定外」から「想定内」へと引き寄せるところから、いつわりのない人生を送ることが始まるように思う。
所有の関係から見た株式会社の基本構造

 店主がひとりで経営する駅前のラーメン屋は通常、個人企業です。近所の街角で夫婦が一緒に八百屋を経営していれば、それは通常、共同企業です。会社法の改正によって、株主や取締役がひとりでも株式会社を名乗れるというようになりましたから、上記の個人企業も共同企業も、株式会社として経営することは可能です。しかし、株式会社を設立するには、定款の認証費用や設立登記のための登録免許税等の費用がかかり、運営していくにも法人住民税がかかるので、会社とせずに個人企業として経営している方が一般的です。

 このような企業は「ヒト」と「モノ」との間の単純な所有関係の上に成り立っています。ラーメン店主や八百屋の夫婦という「ヒト」が、ラーメンの麺や具または、店の中の野菜や果物という「モノ」を所有しています。店主が自分の店でラーメンを作って食べようが、夫婦が店に並べてある果物を食べようが、会計上は自家消費として記録に残しておいた方が良いということはあっても、法律上は何も問題は発生しません。

 一方、株式会社として組織されているスーパーマーケット・チェーンも物理的な視点から眺めてみれば、一方には株主という「ヒト」がおり、他方には会社資産という「モノ」があるという点では、個人企業や共同企業と異なるところはありません。しかし、「会社資産」の所有者は「株主」ではなく「会社」です。そして「株主」が所有しているのも「会社資産」ではなく「会社」です。「ヒト」である「株主」と「モノ」である「会社資産」との関係は、法人としての「会社」を中間項とした間接的なものに過ぎません。ですから、自分が株主であるスーパーマーケットのお店の前を通りかかったその株主が、スーパーマーケットの中に陳列してある果物を食べてお金を払わずに立ち去ると、警官が呼ばれて事件となって法律問題が発生します。「株主」は「会社」(具体的には「会社」としての財産的価値を細かい単位に分割した単位である「株式」)を所有していたとしても、陳列してある商品等の「会社資産」を所有しているわけではないからです。

法人の存在理由

 「株主」と「会社資産」の中間に位置する「会社」は、「株主」により所有される客体としては「モノ」ですが、「会社資産」を所有する主体としては「ヒト」です。「ヒト」という場合、「人間」も「ヒト」であり飲食や排せつ等の生理的機能を有し、社会的には権利義務等の主体ともなりますが、「法人」という「ヒト」は「人間」のような生理的機能は有しないものの、社会の中で権利義務の主体としてふるまいますので、「会社資産」を所有する主体となりうるわけです。

 もしもこの「法人」という制度がなければ、株主の数がどんなに多くなっても、夫婦が共同で所有する八百屋と同じように、複数の株主による共同企業となります。すると、共同所有者の誰かが病気や老齢で手を引いたり、あるいは死亡すると、原則的にはそれまでの契約は無効になり、新たに契約書を書き直さなければならなくなります。それは共同企業にも、外部の契約相手にも多大な費用と労力がかかる事態です。このような事態を避け、共同企業が外部の個人や企業と結ぶ契約関係を簡素化するために導入されたのが「法人」であるわけです。

 「法人」とは、個人と個人との間の契約によって作られた単なる「私的」な存在ではなく、社会的に承認されるようにと国家が法律によって制度化したものです。そういう意味では「会社は社会の公器」と言われるように、「公共的」な存在と言えます。

(岩井克人著、平凡社刊『会社はこれからどうなるのか』を参照しました)