例えば、数千年も前に地球に巨大な隕石が偶然に衝突した影響で生態環境が全地球的に一変し、それまで地球の覇者だった恐竜が絶滅して人間の先祖の哺乳類が生き延びた結果、人間が誕生した、という説がある。その説を信じる人にとっては、人間の存在は偶然の存在にすぎないだろう。
また、形質が突然変異し環境に適応したものが生き残る、というダーウィンの進化論を信じる人にとっては、人間の手足の指が4本でも6本でもなく5本であることは、たまたま五本指のものが生き残ることに適していた結果であり、偶然のできごとと考えるのではなかろうか。
一方、私が存在していることは必然であるとする考え方もある。
神が貸してくれた宇宙製造機械には重力や電磁気力の大きさを変えることができるツマミがついていて、そのツマミの調整がきわめて正確なので、われわれはこの宇宙に住んでいるのであって、少しでも狂うとこの宇宙は興味ある何物も生み出さない不毛のものとなる、という「人間原理」という考え方がある。この考え方によれば、「この宇宙があって人間がいるのではない、人間がいるから、いや、人間がこの宇宙を認識するから、この宇宙は『こういう宇宙』になっている」(長沼毅著『宇宙がよろこぶ生命論』ちくまプリマー新書)という。この考え方によれば、あたかも神は人間の存在を前提に宇宙を創造したともとれ、人間は偶然の産物とは対極にある必然の極致となり、特別な存在となる。
このような形而上学の議論に対しては、興味を抱く人たちがいる半面、何の関心も示さない人も多い。「自分の存在が偶然だろうが必然だろうが、生きている現実を直視して日常の責任を果たし楽しく生きていけばそれで良いではないか」という意見が聞こえてきそうだ。
ちなみに私は、自分の存在や日々の活動の内実が偶然と考えるよりは、必然と感じて生きる方が、使命感を感じやすく充実した人生を送れるのではないかと思う。
例えば、何か特定の職業についているとして、いろいろな職業に偶然に出会って、採用条件や雇用環境に自分が適合した職場にたまたま勤めていると考えるよりは、職業とはcalling(「召命」転じて「天職」)、つまりその仕事をすべく神から呼ばれたものであって、自分でしか世界に貢献できない内容があるとして、何らかの必然性を感じながら職責を全うしていこうとする方が、自己の価値を感じられるのではないか。
人生における偶然を全否定するものではないが、その際も、「『偶然』は自由の徴(しるし)であって、目的がないこととはちがう」(ジョン・ポーキングホーン著『科学者は神を信じられるか』講談社ブルーバックス)ことを肝に銘じておきたい。
Posted by oota at 10:12 AM. Filed under: 随想・評論(平成23年)