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This is the archive for April 2011

2011/04/15

 3月11日、仙台沖を震源とするM9の地震によって発生した大津波は、防潮堤を乗り越えて甚大な被害をもたらした。

 地震と津波による被害は天災と言えよう。それに対して、福島原子力発電所が被災して大気中と海中に大量の放射性物質を放出した事故は、これほど大きな地震と津波は想定しておらず、また電力確保という公益的活動であったとしても、わざわざその場所に建物を建て電力供給施設を作ったのだから、明らかに人災である。「想定外」という言い訳は免罪符にはならない。

 原子力発電所の事故が甚大な被害をもたらすことを、われわれはチェルノブイリ事故等で学んだはずだった。福島原発を設計するときに、専門家が衆知を結集して一定の大きさの地震や津波にも耐えられるようにと考えたと思うが、結果的には甘すぎたということになる。

 自然の怒りとも受け取れるような大きな災害を前にして、ただうなだれているわけにはいかない。今後とも、われわれは「想定外」という捉えどころがないものに対して、対処の仕方を考えなければならない。専門家は「被害が起きないようにすることと共に、被害が起きたらどうするかも考えるべきだ」とか「被害が小さくなるように危険は分散すべきだ」と言うが、いずれも大切なことだと思う。

 福島原発を作った東京電力は、政府と歩調を合わせて電力事業にまい進してきたとはいえ、民間企業であり、電力自由化の波を受けて存続するためには利益を出さなければならない。

 そのために、結果的にはそれほど大きな津波は来ないとして、津波の対策にかかる経費を少なくし、競争に勝てるようにしたのではなかろうか。平安時代には三陸地方では貞観津波という大きな津波が来たというが、そのことも考えて原発の設計をしたのだろうか。原発の設計や運用に係る科学者の方々は日本でも一流の科学者だろうが、その思考方法は少しも科学的ではなく、きわめて主観的だったのではないか。

 しかし、これはひとり原発の設計にかかわった東京電力だけではなく、日本人全体の問題であり、日本人全体が反省しなければならない問題なのではないだろうか。日本人は、傲慢さを捨てて自然の前に謙虚にならなければならない。

 戦後の日本は、公共性や他者のために生きようとする武士道に見られるような宗教性をあまり顧みなかった。時に荒れ狂う自然の中にいる人間は、智恵深くないと生きていけない。真に役立つ知恵は、真理を全体として把握しないと得られない。日本人は「いかに」ではなく「なぜ」を考える宗教性をより身につければ、良心の働きが刺激され、科学本来の力がより人間の幸福につながるように発揮できると思う。一方、宗教家はもっと科学に関心を持ち科学者と対話をすれば、宗教の力をもっと発揮できると思う。大震災で亡くなった方々のためにも、宗教と科学の協力によって真理を全体として把握し、正直な文化を作っていきたい。